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諸葛孔明の生きざまと日本人の精神

昭和四十五年二月、漢学者池田篤紀は延原大川を訪ねた。延原は黒住教の紹介者としても知られ、民族派とも親好を結んだ人物である。延原は池田を歓迎し酒席を共にすることとなった。そこで延原は土井晩翠の「秋風五丈原」を朗々と吟じたのである。「明治の生んだ最高の詩はこれである」。
孔明の、劉備玄徳の君恩に深く感じ入り、あくまで正統を重んじ忠義を尽くさんとしながら戦場で病に倒れた孔明の姿勢に感じ入ったのである。

諸葛孔明

池田はこれに深く感じ入り、「必ず孔明の評伝を書く」と約束した。

国の正統は領土人民の大小といった現実の力関係にあるのではない。あくまで漢朝の正統を重んじ、民族の文化伝統を正しく伝えている態度にこそ重んずべき価値はあるのだ。結社を禁じられつつもあえて桃園の誓いを果たし、孔明を迎え、力で支配する曹操に抗したところに劉備の真骨頂があった。
こうした蜀漢の姿勢は多くの日本人を感激せしめた。浅見絅斎は『靖献遺言』に諸葛亮を取り上げているし、平田篤胤は「篤胤は孔子以後唯孔明ありと思はるることでござる」(西籍概論)と述べた。
孔明自身の生き方が、一編の詩となり日本人を鼓舞したのである。
こうした生き方をできた人物は、他に大楠公を数えるばかりであろう。

信仰と倫理

日本は皇室という中心を抱き、その周囲を隷従でも放縦でもなく国民が脇を固めることで成り立っている。この精神こそが古の明徳なのである。その意味で天皇と民は本然一体であり、民を軽んじ虐げる権力者は亡びるべきなのである。こうした君民一体の精神こそが重要だ。その精神は祭祀によって表現されたから、祭政一致とは単に神道を国家の国教に据えるということではなく、こうした「民を虐げない政治」を前面に打ち出す事でもあった。外国の圧力もありそれを放棄してしまったのが明治時代の負の側面である。

神道はそれ自体が信仰であるから、それを理解するにはその本質において存在する神々の霊感、冥応(平泉澄)に深入りしなければならない。
歴史を貫く冥々の力とは、楠木正成の魂が山崎闇斎を動かし、さらに闇斎の魂が橘曙覧を動かすといったたぐいのことである。
神道では祭りが行われるが、祭り自体形式的には昨年の繰り返しである。しかしそこに新しい祈りが込められる。それこそが重要なのだ。
若林強斎は「理ト云モノハ、活ニ活テ居ル物ノ、ホコホコアタヽカナ様ナルモノヽ、ナマグサキ様ナルモノナリ。コヽノ合点ガナケレバ、理ノツラヲ見知ラヌト云者ナリ。」(『雑話続録』)といったという。理は歴史の現実の中で悩み、苦しみ、悪戦苦闘する中で具体的行動として示された集積の中から生まれてくるのである。そうでなければ、理は単なる観念論に堕す。
闇斎が「人の一身、五倫備はる」と述べたように、人間には生まれながらに倫理的存在であるととらえていた。だからこそ神儒一致、神儒妙契でなければならないのであった。

同じく信仰と倫理について考えた人に竹葉秀雄がいる。竹葉秀雄は安岡正篤の弟子で、愛媛県の教育界に影響を与えた人物である。
竹葉秀雄は黒住宗忠に関心を持ち、「日本でなければ生まれない宗教家であり、今後世界的になるべき偉大な心境であり、宗教であると思います」と述べている。
『維新と興亜』同人の三浦夏南氏が竹葉氏の地元愛媛県の詳しい人に確認してくれたところ、「竹葉先生は弟子の近藤先生を伴ってほとんどの宗教団体での宗教的修行に取り組まれたそうです。体験せねば分からぬというのが竹葉先生のモットーだったみたいです。先生が出入りされなかったのは、創価学会くらいで、あらゆる宗教に通達されていたようです。その中でも強い感銘を受けられたのが黒住教であったと近藤先生からお聞きしたと言っておられました。また竹葉先生の地元の庄屋だった方が黒住教で、伊予鉄が株式会社になった時の社長であり、かなりの人物だったようで、先生の郷土三間にはやはり黒住教の教えが伝わっていたようです。」という回答であった。
明治維新の原動力となった下士、豪農層に維新の精神は浸透しており、その一環として黒住教があったことがうかがえる。黒住教は開祖黒住宗忠の出身地である岡山県を中心とした宗教であると思っていたが、それが愛媛県まで黒住教が広がっていたのは新発見であった。黒住教については『維新と興亜』第二号で片岡駿について書いた際に触れたが、天誅組に参加した藤本鉄石も黒住教徒であるし、いくつか黒住教関係の本を読みましたが良いものであった。片岡をはじめとした明治以降の維新派にも影響があったようである。

真の意味で信仰を持つことは極めて政治的なことでもあり、倫理的なことでもある。倫理を突き詰めれば政治思想にもなり、信仰にも到達するのだ。

渡辺望『知っておきたい和食の秘密』『パンデミックと漢方』書評

本書は勉誠出版から最近刊行された二冊である。

著者はこれまで歴史物を題材に執筆活動を繰り広げてきたが、食や医療についても非常に詳しいことがわかる。内容は食や漢方医に関する文化史で、日本人が豊かな食、医療文化を営んできたことがとても分かりやすく綴られている。
特に「アメリカ料理は独立当初は非常に豊かでおいしかったが、軍用食文化が根付くことで不味くなった」話や、「日本医療としての漢方」の話は面白く読んだ。
日本人が知っておくべき文化史に寄与する著作ではないかと思う。

資本主義の自死と神道思想の復興の必要性

現在のような高度資本主義は、長く続けるわけにはいかないだろう。このまま行ったら、人類的自死が待っているように思えてならない。人類が持たないのか、あるいは地球が持たないのか、その帰結はまだ見えていないが、いずれにしても、資本主義の根幹である「自由競争」なるものは、結局勝者が勝ち続ける結果にしかならないし、ある一定の人々の犠牲なしには成り立たない排他的な仕組みである。「自由競争」が成り立つためには巨大な企業と、それに労働力を搾取される都市労働者の存在が不可欠であり、なおかつ個人自営業や農業などよりも都市労働者の方が生活が楽になるような政治面での政策支援も不可欠である。日本に限らず、あらゆる近代国家はその仕組みを作り上げることで繁栄してきた。そうした社会の登場は伝統主義者にとっても一つの危機であった。そうした危機を描いた小説の一つが、『夜明け前』だったといってよい。
『夜明け前』は平田国学の物語であるが、明治維新を齎した原動力の一つとなった平田国学が、文明開化を旨とする明治政府によってパージされていく様を描き、主人公青山半蔵は廃仏毀釈から「維新のやり直し」を目指すのだが、それはもはや狂人の所業としかみなされなかったという悲哀を描いたのである。青山半蔵が目指したのは「新しき古」であり、それは中世的(そして近代的)権力万能の世界観から脱し、自然と共に暮らしがあった素朴な古代的生活に還ろうというものだ。権藤成卿は「社稷」と言ったが、これらはそう大きな違いはない。東洋伝統思想には何か権力万能神話を破るアナーキー的情念を抱え込んでいるのである。
このように神道思想には、近代国家に収斂しえない、日本人の血肉になった情念のようなものを秘めている。それは、神道が農業や収穫といった近代産業に切り捨てられる側に土台を持っていることにも由来している。
神道における祭祀では神饌を奉献することが重要であるとされている。饌とは食事である。食事は自然がもたらす恵みを体内に取り込む行為であり、霊的な行為である。だから「食事をともにする」というのは単なる栄養補給をともに行ったこととは異なる、営為をともにする行為であり、性的な側面さえ連想されることもあるような所業なのである。収穫の一部を食事として神に捧げることで神の霊威は高められ、神と食膳を共にするという意味の直会(なおらい)を行うことで、神と人とは一体となるのだ。食事をカネで買っているという資本主義的世界観に立てば、「いただきます」「ごちそうさま」などという必要すらないし、食べ物に感謝を捧げる必要もないことになってしまう。現代は食品廃棄が異常に多い時代だが、生産効率ばかりが留意され食に感謝を捧げられないのは資本主義ならではというか、情けないことである。
話はそれたが神道的世界観の話に戻って、大嘗祭は各村で行っている秋の収穫を祝う祭りと類似し、天皇は農業信仰、神道信仰とも直結した存在を維持した。単に資本主義、産業主義を推し進めるだけではこうした日本文化、信仰、そしてその奥にいる天皇という存在との齟齬が生まれてくることになるのである。産土、祖霊、農業は日本人の血と信仰に結び付く存在ではあるが、資本主義と結びつく存在ではない。
ここで祖霊という言葉が出てきたので祖霊について述べよう。本居宣長は、人間は死ねば黄泉の国に行き、生者とは交わらないのだから死は悲しいのだと説いた。こうした世界観は唯物的というか、実に現世的なあっさりした世界観である。
それに対して平田篤胤は、人は生きては天皇の御民、死しては幽冥界に行き八百万の神の一つとなると説いた。しかもその幽冥界は生者の世界(顕界)と同じ空間にあり、ただ生者の目には見えないだけだとしたのである。つまり祖先は死者となってもわれわれの傍におり、われわれを見守ってくれていると説いた。この世界観の違いは重要だ。生者は世界を自分たちのものだと信じて疑わないが、しかし死者は生者とともにわれわれの日常を生きている。生者の周りにある死者との関係の構築、いうなれば祖霊を意識した形での生活を想定することが重要なのである。生者だけを重んじる世界観であれば自己利益的刹那的になっていくのも当然で、死者を意識した時に先祖代々から何を受け継ぎ、何を残していくかという発想にもなっていくのである。
本居宣長は自由競争的世界観に親和的で、そういった経済観も述べていたという話もあるくらいで、生者に依拠する唯物的世界観は資本主義と親和的である。しかし祖霊を信じる平田派の世界観はそうではない。平田国学からは続々と経世済民、農本主義を旨とし、商売を批判する論客が登場したのもそうした世界観と無縁ではない。宣長の世界観は平田派的自由競争否定とは対極的関係にある。
ご承知の通り平田篤胤は本居宣長の没後の門人と称し、夢の中で入門を許されたと自称したが、それは山っ気のあった篤胤の「営業上の論理」であって、真に宣長の世界観を受け継ぐ者とは思えない。
平田国学の世界観はむしろ(宣長入門以前に学んでいた)垂加派に近いのではないかと思えてならないのである。篤胤は神道に限らず、古史、天文、暦学、地理学、民俗学、兵学などあらゆる学問の総合商社で、そうした側面も垂加派と類似している。あくまで歌学と神道をもとに発展した国学とは違った側面を秘めている。篤胤は垂加神道を表面上結構厳しく批判しているのだが、その奥底の世界観が垂加派なのである。
なお、垂加神道と平田国学の世界観の類似については本ブログの過去記事に何度か書いているからそちらをご参照いただきたい。
わたしの「平田篤胤=(宣長派ではなく)垂加派」という理解はかなり偏った、牽強付会であるといわれかねない危うさがあることは自覚しているが、やはりどう考えても平田派の世界観は垂加神道に由来しているとしか思えないのである。少なくとも宣長からだけではどうしても生まれえない何かを秘めているというくらいは言えるだろう。
神道を「シントウ」と濁らずに読むのは、ありのままに素朴に率直で飾り気のない心持であるべきという世界観に基づくもので、神道思想者にある程度通底する世界観である。
神道を倫理道徳の基本として理解する世界観は、垂加派によってもたらされた。垂加派登場以前にもすでにあまたの神道思想によってその土台は準備されていたが、大きく花開いたのが垂加派の登場であったといってよい。垂加神道は儒家神道(儒教と神道の習合)などともいわれるが、それに収まらない日本人の原基となる世界観から花開いたものと見なければならない。
山村農村による自然と農業とともにある生活。それはそれを失った時代の人間によるロマンティックなあこがれの側面も否定できないが、とはいえ文化的に分断されかかった人々をまとめる知恵でもあった。資本主義はそれを破壊する刹那的唯物的世界観である。

資本主義は人類の文化の自死に繋がる。神道思想の復興によって文化的崩壊を妨げるべきなのである。

明日の草莽を奪う市場

わが国は皇室を中心とする国体であることは疑いようがないが、この基底には国をしたから支え続ける草莽の存在がある。彼等は八百万神の末裔であり、尽忠報国の士である。ところが、資本主義はこうした草莽をただの消費者に変えてしまった。
垂加神道は八百万神を皇室の祖先であり、草莽の祖先であるとした。天皇はシナの皇帝とは異なる存在だ。シナの皇帝の上には天があるが、天皇の上には天はない。天皇こそが天そのものなのであって、天皇の勅命はすなわち天命であり絶対に従うべきものであると捉えた。
それは草莽を単なる奴隷とみなしているのではない。天からの命は具体的な行動を規定するものではなく、精神のあり方を問うものである。天からの命をいかに実現していくか。それは一人ひとりの判断に委ねられている。現実的に天命を果たすことが不可能ならば、可能になるような状況に展開させればよい。そのために力を尽くすのが草莽の使命である。
われわれは抽象的、無国籍的世界に生きているのではない。日本に生まれ、社会生活を送り、死んでいく。日本人の一員としてときには政治に参加し、ときには友人と遊び、ときには仕事に精を出す。そうした生活のひとつひとつを見失い、GDPの成長率だの株価だの数字が独り歩きしてしまえば、その政治は国民生活から遊離した軽薄なものになる。
市場の競争原理による自然淘汰こそがリアルなのであって、そうでない議論は「きれいごと」であると、市場経済論者はいう。だが市場による損得勘定のみの世界には、そもそも積極的に参与しなければならない大義に欠ける。
市場経済には明日の草莽が躍動する余地はあるか。大義なき世の新たな国是は、市場経済からは生まれようがない。

陸羯南と増鏡

神ますと あふぎしみれば ます鏡 わが真心の 影のうつれる 

羯南の詠んだ和歌である。 
「神様が宿っていらっしゃると仰いでみると、増鏡には私の真心が映っている」といった意味であろうか。
 王朝の勢いが衰微し、力の強い者ばかりがはびこった後鳥羽上皇から後醍醐天皇までの時代を、あえて公家社会の側から描いた『増鏡』に、羯南は自分の真心をなぞらえたのである。
増鏡は南北朝時代の成立と言われているが、鎌倉時代の武家政権の跳梁跋扈を嘆く調子は一貫している。
建久元年、源頼朝が右大将になるもすぐに返上し、その代わりに全国に地頭を配置する。増鏡はそれを「日本国の衰ふるはじめこれよりなるべし」と厳しい評価をくだしている。武家政権が朝廷での名誉ではなく、実権を欲したことを嘆くのである。
承久の変では、「口をしきわざなり」と後鳥羽上皇方に心情的共感を隠さない。土御門上皇が自発的に四国に移られたことも、深く賛嘆するのである。
承久の変以降の皇統は、鎌倉幕府は後鳥羽上皇の兄である後高倉院の系統に継承させてきた。その後高倉院の系統が絶えたとき、なんとしても後鳥羽上皇の系統には皇統を継がせたくないという鎌倉幕府の政策は破綻した。そこで幕府は、比較的穏和であった土御門上皇の系統に継がせることにする。増鏡は「くじ引きによる神意」としながらも、その狼狽をそれとなく示している。
亀山上皇の、政治に積極的に取り組む姿勢を記している。後醍醐天皇の親政にも好意的である。
このような一貫した皇室尊崇、幕府政治否認の態度こそ、羯南が自分の「まごころ」を託したものであろう。
もっとも、増鏡は皇室尊崇的姿勢ではあるものの、そうなっていない鎌倉時代の政治を終始嘆くばかりで、それを打倒しようという気概に欠ける。公家文化に好意的な武士は好意的に描いてしまったり、結局公家である作者(作者は不詳だが家格の高い公家ではないかと比定されている)の都合が見えかくれする点も気にかかる。
羯南が神皇正統記などの類書ではなくなぜ増鏡を選んだのか、その理由はわからない。単純に和歌を作る上での字数、レトリック(影のうつれる)の問題かもしれないし、それ以外の強い理由があるのかもしれない。
いずれにしても、羯南にもまた尊皇思想の強い影響と、斥覇の志があった証と言えよう。

時局便乗屋 竹中平蔵

 竹中平蔵氏が日経新聞で以下のように語っている。

今の時代は世界的に保護貿易主義が主流です。
その上最近では新型コロナウイルスの流行も相まって、人の移動について報復合戦も見られました。
この根本は社会の分断にあると思いますが、10年後にはその解消に向け、様々な工夫が見られる時代になっているでしょう。
世界はこれから数年、痛い目を見たあとに、少なくとも5年後には、解消に向けた議論が真剣にされているはずです。
新しい技術が世間に行き渡るイノベーションも、次々と起きることになるでしょう。
次世代通信規格「5G」は、技術的にはすでに確立していますが、遠隔医療などに見られるように、規制が障壁になり実用化が遅れているものもあります。
今後10年は先端技術が民間で実用化されるために、一つ一つ議論する時代になるのだと思います。
ですが、それに伴って今ある職業が急になくなるような状況もあるかもしれません。
そこで必要なのが、最低所得を保障する「ベーシックインカム」です。
人が生きていくために最低限必要な所得を保証することができれば、一度失敗しても、積極果敢に再びチャレンジできる環境になるはずです。

 この記事には「社会の分断 正す十年に」という題がついている。
 小泉、安倍時代を通じてさんざん社会の分断を進めてきた竹中氏が「分断」を問題視するとは片腹痛い。
 竹中平蔵は新自由主義者ですらなく、時局便乗を旨とする政治屋、カネの臭いにたかるだけの存在である。
 わたしはすでに竹中について以下のように書いている。手前味噌だが再掲したい。なお、わたしは第二次安倍内閣が始まった当初(いや、始まる前の選挙の時から)から安倍内閣を批判してきたことを申し添える。

 安倍内閣では産業競争力会議なるものを開催し、竹中平蔵を委員として招聘し、新自由主義的な政策が練られている。安倍総理はどちらかと言えば新自由主義から遠い人物だと見られがちである。それは今回の政権奪取時にもそうであったし、小泉総理の後を継いで総理大臣になったときもそうだった。だがどちらも実際は新自由主義的な政策を実行しようとしている。安倍氏は愛国や保守を隠れ蓑に新自由主義的な政策をとる人物ではないのか。そういった意味でも安倍内閣は正当に批判される必要がある。この新自由主義と比べれば幾分ましなものの、財政出動を旨とする思想もまた、単に政府が介入したほうが、経済が活性化される場合もある、といった程度の考えであった場合、新自由主義と同じ穴のむじなだ。国を率いる立場として、その社会の構成員それぞれが生活を営めるよう苦慮するのが政治家の職務であるはずだ。それは経済的な効率よりもはるかに重んじられるべきものだ。安倍内閣はこの財政出動論と新自由主義論が奇妙に結合して成立している。
 安倍内閣は第一次で「美しい国」と言っていたときより、第二次の「経済の再生」と言っている今のほうが、したたかで政治家として成長している、という見方がある。だがアベノミクスの金融緩和や成長戦略などは、大方アメリカで行われていることの後追いでしかない。むしろ第二次安倍内閣のほうが、理想を放棄した分一層対米依存を強めているという見方もできるのではないか。
 竹中平蔵は新自由主義者と呼ばれることを嫌う。竹中は「経済思想から判断して政策や対応策を決めることはありえない」(『経済古典は役に立つ』5頁)といい、小泉総理にこれからは新自由主義的な政策を採用しましょうなどと言ったことは一度もないという(佐藤優、竹中平蔵『国が滅びるということ』20頁)。日々起こる問題を解決しようと努めてきただけだ、というわけである。だが、あまたある事象の中でどれを問題とし、どういう解決を図るかは、やはり思想が大きな影響を与えているのではないか。あるいは竹中にとって市場原理によって物事を解決することは自明のことだと思っている余り、それが一思想に過ぎないことが見えていないのだろうか。ところで佐藤は竹中のマルクス理解の正確さをほめたたえているわけだが(『国が滅びるということ』11~12頁)、知っていて言っているのかどうかわからないが、竹中は高校生の時期に民青に関わっていた(佐々木実『市場と権力』25~29頁)。竹中は確かにイデオロギー的に新自由主義を信じている人物ではないのかもしれない。自由放任と「神の見えざる手」の信奉者ですらなく、むしろその時々で流行りの議論に飛びつき、それを日々起こる課題に対応しているだけだ、と嘯く類の人間と言ったほうが適切だろう。竹中の比較的古い著作、例えば私の手元にある『民富論』(1994年刊行)を紐解けば、そこでは竹中はインフラなどの「社会資本」の重要性を説いたり(65頁)、自由貿易は錦の御旗ではない、というなど(172頁)、現在の竹中の印象とはまた違った側面を見ることができる。竹中が小泉内閣の時は新自由主義的な発想から政策を進め、今安倍内閣においても、「アベノミクス」のブレーンの一人となっているのは本人にとっては矛盾ではないのであろう。

土とともに生きるとは

ムスカ「終点が玉座の間とは、上出来じゃないか。ここへ来い」
シータ「ここが玉座ですって? ここはお墓よ。あなたと私の。国が滅びたのに、王だけ生きてるなんてこっけいだわ。あなたに石は渡さない!あなたはここから出ることもできずに、私と死ぬの。今は、ラピュタがなぜ滅びたのかあたしよく分かる。ゴンドアの谷の歌にあるもの。”土に根をおろし、風とともに生きよう。種とともに冬を越え、鳥とともに春を歌おう”。どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんの可哀想なロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ」
宮崎駿監督『天空の城ラピュタ』

人類は、科学技術を発展させ、ヒトモノカネが自由に行き交い、全能の「神」にでもなったかのような生活を手に入れた。だがその生活は、自然の脅威の前には屈しざるを得ない代物でしかなかった。
人類と文明はあるときまでは共存する生活を営んでいたはずであった。農業自体あるひとつの作物を栽培し、その他の植物を「雑草」と称して取り去ってしまう人為的産物であった。しかしそこには収穫の喜びと神への感謝があった。アグリビジネスと化した現代の農業がもっとも失ってしまったものである。家庭菜園のほうがまだ残っているのではないかと思うくらい、現代の農業は効率に毒されている。
それは工業とて変わらない。職人技で機械が操られたり、補修されたりした時代は過去のものとなった。現代に起こっているのは、むしろ「機械の都合のいいように」仕事が分断されて作業と化す現象である。機械を操っているつもりがいつしか機械に操られている人間の仕事の成れの果てである。端的に言えば人間が機械化したのである。機械化された人間は、もはや仕事で自分の運命を変えることはできない。現場に力がなくなり、マニュアルとコンプライアンスがはびこる世界である。
「土とともに生きる」とは、地に足をつけ、人間らしく生きようではないかという精神のことである。この精神の復活なくしては、人類は滅びへの道を歩むこととなってしまうであろう。

垂加神道(崎門派)と国学の関係

平田篤胤は「神胤」という概念を使って、天皇と民を結びつけた。本居宣長までの国学は、基本的に天皇と神々の関係に終始することが多かったが、篤胤は祝詞なども活用して、庶民もまた「神胤」であると位置付け、庶民をも尊皇思想にいざなっていった。

平田国学のこうした概念は、山崎闇斎を始祖とする垂加神道に学ぶところがあったのだと思われる。垂加神道には、日本人の死後の世界を描いた側面があった。死後は無に帰すという儒教的合理主義でもなく、因果応報輪廻転生の仏教的世界観とも違う意義を打ち立てたのだ。日本人として生まれたからには朝廷を守護すべく生き、死んでは天照大神を中心とする八百万神の末席となる―。これこそが垂加神道の世界観である。垂加神道者は、この世界観を仏教や儒教と対比するなかで自覚的に唱えていった。
垂加神道が興ったころは仏教全盛時代で、自然議論は廃仏に流れ儒家神道を確立することとなった。しかし時代が下った際に、宣長や篤胤からその儒教的世界観をこじつけ的であると批判されることとなった。
一方で、垂加神道は神道だけで成立するものではなく、神儒兼学を旨とした。それは尊皇絶対の大義名分を明らかにするためには、儒学的世界観が不可欠であったからだ。特に親幕的な宣長は、神道としての純粋性を高めたものの、現実政治への批判精神を欠くところがあった。
篤胤の高弟生田万は、やはり崎門派の儒教性を厳しく批判している。万の属した館林藩は崎門の門流を藩学とはしていたが、それは闇斎の神道化を批判し破門された佐藤直方の門流であった。平田系の国学は、前述の世界観から、独特の「青人草」概念を生み出すなど、庶民の救済を政治的にも主張するようになっていった。万も館林藩に『岩にむす苔』を上表し、却下されている。そこでは弱者救済を訴えているが、おくびにもださないもののその政治論には儒教的善政概念が影響を与えているように思われる。
万も垂加派を批判しつつも『靖献遺言』を愛読するという矛盾が起こっている。
表面上は厳しく批判しつつも、篤胤一派の世界観は儒学的大義名分論と無縁ではないのである。

商人ナショナリズムを打破し、土と太陽に帰れ

現在の国家の仕組みは、グローバル資本に都合の良いように作り替えられている。FTAなどの自由貿易協定しかり、マニュアル化、機械化、AI化する労働しかりである。こうした資本の動きに対抗するには、資本の論理によらない部分を守り育てていくよりない。国の伝統であるとか、共同性であるとかは、そういう観点からも見直されるべき存在だ。

現在の右翼は、反共反中反韓一点張りで、そのためなら権力ともつるむことに痛みも感じない、ただの堕落したちんどん屋にすぎないが、戦前及び一部戦後の右翼には、むしろ現代に通じる深い問題意識があった。

大東塾の影山正治は岸内閣の日米安保に反対し、警官隊との衝突で亡くなった樺美智子を、「彼女こそ日本のために亡くなった愛国者だ」と哀悼の意を表した。
津久井龍雄は共産中国に赴き、共産中国を一定程度評価する『右翼開眼』を著したりした。背景には、占領政策や政権与党に迎合する戦後右翼の思想的不毛に対する不信感があった。津久井は左派とも語り合い、その活動事務を支えた人の中には、日本共産党員もいた。超党派で訴えていたのだ。この姿勢は後に鈴木邦男などに受け継がれていく。ちなみに『右翼開眼』を出版したのは、後にラジオ関東社長となる遠山景久の経営する拓文館であった。
日本共産党がソ連や中共との関係を断ち独自路線を進めていることを指摘するまでもなく、日本の左派もまた愛国者であった。特に戦前の左派はそうであった。幸徳秋水、河上肇、岩佐作太郎など、名前を挙げればきりがない。
政権が垂れ流す商人的ナショナリズムに騙されてはならない。それは権力を重んじ、歴史や伝統、文化を軽んじるものだ。安倍政権になって靖国神社にも行かない、拉致被害者も帰ってこない、憲法改正は意味不明な加憲論、やったのはTPPや安保法制だ。これで安倍総理が「保守派」と言える神経を疑う。安倍総理は野党と同レベルかそれ以下の愛国心しか持ち合わせていない人物である。心にあるのは己の保身だけだ。
人間は経済によって生かされ、何程かをなそうとする存在なのであって、経済に使役されるだけの存在ではないはずだ。土と太陽とともに生きた、古き良き世界観を取り戻すのだ。すべてはそこから始まる。