政治とは、バラバラで近視眼的な人々の私的な意見を、公論たる「国民の意思」にまとめあげる作業のことである。世間では多数決に対する盲信があって、国民の多数意見に基づき政策を進めればよいと思っているようだがそうではない。もしそのような盲信が正しいのなら、国民に電子アンケートでも取りAIが判定すればいいのであって、選挙も議会も議員もいらないはずだ。
ところが実際の政治は党利党略に振り回され、政権の都合が政治運営に露骨に反映される。特に昨今では野党やマスコミの追及に大臣がまともに答えない場面も常態化した。新自由主義的政策が起こってからそれはますますひどくなっているようにも思われる。
グローバル化によって、すべての人が故郷喪失者となってしまっている。そこに衆愚政治と新自由主義が忍び寄る。ふるさとの破壊は政治の破壊でもあるのだ。
これは妄想ではなく、新自由主義者の理想郷は中国共産党が独裁支配する中共なのである。新自由主義はグレートリセットを志向し、グレートリセットによる効率的な統治を目指し徹底的に効率的な管理支配体制の構築を行おうとする。監視カメラやビッグデータを共通データベース化することによって国民を支配しようとする。スーパーシティ構想の目指す先がそこにある。故郷も文化もない「効率的」な統治。それは人々を家畜の群れか何かとしか思っていないおぞましさがある。
菅政権の中小企業を統廃合する政策もその一環で、データベース管理するためにはできるだけ巨大企業によって顧客管理される必要があるからだ。もちろん外資による株式支配の拡大という面もあり、多重な意図を持って政策が立案されていることは言うまでもない。
共同体をぶっ壊し、地方の商店街をシャッター商店街と化した果てに大資本による市場が入り込む。その後は市場競争による選別。このおぞましい選別政策は新自由主義と共産主義の親和性を思わせる。この選別政策を自由だの努力だのと正当化する連中を認めてはならないのだ。
「国家について」カテゴリーアーカイブ
時局便乗屋 竹中平蔵
竹中平蔵氏が日経新聞で以下のように語っている。
今の時代は世界的に保護貿易主義が主流です。
その上最近では新型コロナウイルスの流行も相まって、人の移動について報復合戦も見られました。
この根本は社会の分断にあると思いますが、10年後にはその解消に向け、様々な工夫が見られる時代になっているでしょう。
世界はこれから数年、痛い目を見たあとに、少なくとも5年後には、解消に向けた議論が真剣にされているはずです。
新しい技術が世間に行き渡るイノベーションも、次々と起きることになるでしょう。
次世代通信規格「5G」は、技術的にはすでに確立していますが、遠隔医療などに見られるように、規制が障壁になり実用化が遅れているものもあります。
今後10年は先端技術が民間で実用化されるために、一つ一つ議論する時代になるのだと思います。
ですが、それに伴って今ある職業が急になくなるような状況もあるかもしれません。
そこで必要なのが、最低所得を保障する「ベーシックインカム」です。
人が生きていくために最低限必要な所得を保証することができれば、一度失敗しても、積極果敢に再びチャレンジできる環境になるはずです。
この記事には「社会の分断 正す十年に」という題がついている。
小泉、安倍時代を通じてさんざん社会の分断を進めてきた竹中氏が「分断」を問題視するとは片腹痛い。
竹中平蔵は新自由主義者ですらなく、時局便乗を旨とする政治屋、カネの臭いにたかるだけの存在である。
わたしはすでに竹中について以下のように書いている。手前味噌だが再掲したい。なお、わたしは第二次安倍内閣が始まった当初(いや、始まる前の選挙の時から)から安倍内閣を批判してきたことを申し添える。
安倍内閣では産業競争力会議なるものを開催し、竹中平蔵を委員として招聘し、新自由主義的な政策が練られている。安倍総理はどちらかと言えば新自由主義から遠い人物だと見られがちである。それは今回の政権奪取時にもそうであったし、小泉総理の後を継いで総理大臣になったときもそうだった。だがどちらも実際は新自由主義的な政策を実行しようとしている。安倍氏は愛国や保守を隠れ蓑に新自由主義的な政策をとる人物ではないのか。そういった意味でも安倍内閣は正当に批判される必要がある。この新自由主義と比べれば幾分ましなものの、財政出動を旨とする思想もまた、単に政府が介入したほうが、経済が活性化される場合もある、といった程度の考えであった場合、新自由主義と同じ穴のむじなだ。国を率いる立場として、その社会の構成員それぞれが生活を営めるよう苦慮するのが政治家の職務であるはずだ。それは経済的な効率よりもはるかに重んじられるべきものだ。安倍内閣はこの財政出動論と新自由主義論が奇妙に結合して成立している。
安倍内閣は第一次で「美しい国」と言っていたときより、第二次の「経済の再生」と言っている今のほうが、したたかで政治家として成長している、という見方がある。だがアベノミクスの金融緩和や成長戦略などは、大方アメリカで行われていることの後追いでしかない。むしろ第二次安倍内閣のほうが、理想を放棄した分一層対米依存を強めているという見方もできるのではないか。
竹中平蔵は新自由主義者と呼ばれることを嫌う。竹中は「経済思想から判断して政策や対応策を決めることはありえない」(『経済古典は役に立つ』5頁)といい、小泉総理にこれからは新自由主義的な政策を採用しましょうなどと言ったことは一度もないという(佐藤優、竹中平蔵『国が滅びるということ』20頁)。日々起こる問題を解決しようと努めてきただけだ、というわけである。だが、あまたある事象の中でどれを問題とし、どういう解決を図るかは、やはり思想が大きな影響を与えているのではないか。あるいは竹中にとって市場原理によって物事を解決することは自明のことだと思っている余り、それが一思想に過ぎないことが見えていないのだろうか。ところで佐藤は竹中のマルクス理解の正確さをほめたたえているわけだが(『国が滅びるということ』11~12頁)、知っていて言っているのかどうかわからないが、竹中は高校生の時期に民青に関わっていた(佐々木実『市場と権力』25~29頁)。竹中は確かにイデオロギー的に新自由主義を信じている人物ではないのかもしれない。自由放任と「神の見えざる手」の信奉者ですらなく、むしろその時々で流行りの議論に飛びつき、それを日々起こる課題に対応しているだけだ、と嘯く類の人間と言ったほうが適切だろう。竹中の比較的古い著作、例えば私の手元にある『民富論』(1994年刊行)を紐解けば、そこでは竹中はインフラなどの「社会資本」の重要性を説いたり(65頁)、自由貿易は錦の御旗ではない、というなど(172頁)、現在の竹中の印象とはまた違った側面を見ることができる。竹中が小泉内閣の時は新自由主義的な発想から政策を進め、今安倍内閣においても、「アベノミクス」のブレーンの一人となっているのは本人にとっては矛盾ではないのであろう。
日米同盟の不都合な真実
在日米軍はソ連や中国から日本を守るためにいるのではない。有名な「ビンの蓋」論のとおり、日本を封じ込めるために存在しているのだ。米軍の矛先は常に日本を向いている。
対米従属関係の正体
国際化するとは、決して自国をグローバルスタンダードに合わせるということではない。国際化とは自国の概念を他国に広げることを指す。国際化とは、何か普遍的なルールを共有するということではない。強国のルールを受け入れること、あるいは自国が強国となり、国際社会に自国のやり方を強制していく、そんな力と力のやり取りのことである(佐伯啓思『従属国家論』57~60頁)。このような正しい意味での「国際」関係を理解していた人物に陸羯南がいる。
陸羯南は『国際論』で、日本の国家目的を欧米の侵略を止めさせることに置いた。陸の国際認識は『国際論』に言い尽くされている。陸は世界史を力による侵略、非侵略の歴史と見做し、侵略がどのようにして行われるかを詳細に論じた。それによれば、侵略は外交に対し憧れのような感情を持たせることから始まり、次に経済的に依存させ、最後には領土を奪うのだという。ただし近年の侵略は領土まで欲するものは少なくなっているといったことまで触れている。そのうえで日本がどう対抗するかといえば、まずは自国の使命を自覚することだという。日本の使命は「六合を兼ねて八紘を掩う」ことにあり、世界に公道をもたらし弱肉強食の国際関係を止めさせることにある、という。国際法は所詮欧米が決めた、欧米に有利なルールに他ならないが、先の日本の使命から国際法に東洋の立場も盛り込ませることが重要だといっている。
ここでは国際関係を非常に現実的にとらえる陸の目が感じられる。国際社会を現実的な力関係で捉えるのはそう珍しい意見ではない。だがそうした論客はたいてい日本が生き残るためには、「強いものに付け」という態度に出ることが多いように思われる。しかし陸はそうではなかった。ここに陸の凄味があるように思われる。そしてだからこそ陸は欧米に与せず、アジアの側に立ったのであった。
国際社会が力関係で動くということを認めるということは、必ずしも強国への従属につながるわけではない。強国への無思慮な追従こそ属国化を招くものだという言い分も充分成り立つからである。侵略は敵国からだけなされるのではない。同盟国が同盟をたてに侵略することなど日常茶飯事である。同盟とは作戦の共有であって、運命共同体ではないからだ。
議員バッジがついているかのようにふるまう人たち
雑誌に掲載していただいたことの告知を除けば随分久しぶりの更新となってしまいました。
わたしは安倍批判、自民党批判を書くことも多いですが、やはりそういう言論は保守的とみられる人たちから評判が良くないものです。それでも必要だと思うから書いているのですが、なかなか受け入れてもらえません。
「安倍が駄目なら誰が総理ならいいんだ」というのがこういう人たちの言い分です。その言い分はとてもよくわかります。しかしわれわれは議員バッジを付けた国会議員ではないのです。おかしいものはおかしいと批判するのが筋ではないでしょうか。
自民党の応援団でしかないのではなく、堂々と所信を問う一草莽であるべきです。
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西尾幹二氏が以下のように書いているのでご紹介します。
民族の生存懸けた政治議論を 保守の立場から保守政権を批判する勇気と見識が必要だ
平成28年8月18日産經新聞「正論欄」より 評論家・西尾幹二氏
今でも保守系の集会などでは当然ながら、安倍晋三政権を評価する人が少なくなく、私が疑問や批判を口にするとキッとなってにらまれる。「お前は左翼なのか」という顔をされる。今でも自民党は社会体制を支える最大級の保守勢力で、自民党の右側になぜか自民党を批判する政治勢力が結集しない。欧州各国では保守の右側に必ず保守批判の力が働き、米国でもトランプ一派は共和党の主流派ではなかった。先進国では日本だけが例外である。
≪≪≪仲良しクラブでは窒息死する≫≫≫
日本政治では今でも左と右の相克だけが対立のすべてであるかのように思われている。民主党も民進党と名を変え、リベラル化したつもりらしいが、共産党に接近し、「何でも反対」の旧日本社会党にどんどん似てきている。ここでも左か右かの対立思考しか働いていない。自民党も民進党もこの硬直によって自らを衰退させていることに気がついていない。
それでも国内の混乱が激化しないのは、日本は「和」の国だからだという説明がある。まだ経済に余裕があるからだとも。米国のある学者は、世界では一般に多党制が多く、二大政党制を敷く国は英国をモデルにしたアングロサクソン系の国々で、ほかに一党優位制を敷く国として、日本やインドを例に挙げている。自民党を喜ばせるような研究内容である。しかし選挙の度に浮動票が帰趨(きすう)を決めている今の日本では、一党優位制が国民に強く支持されているとは必ずしも言えない。仕方ないから自民党に投票する人が大半ではないか。党内にフレッシュな思想論争も起こらない今の自民党は日本国民を窒息させている。
「受け皿」があればそちらへいっぺんに票が流れるのは、欧米のように保守の右からの保守批判がないからだ。左右のイデオロギー対立ではない議論、保守の立場から保守政権を正々堂々と批判する、民族の生存を懸けた議論が行われていないからである。
保守政党が単なる仲良しクラブのままでは国民は窒息死する。一党優位制がプラスになる時代もあったが、今は違う。言論知識人の責任もこの点が問われる。
≪≪≪保身や臆病風に吹かれた首相≫≫≫
私は安倍首相の5月3日の憲法改正案における第9条第2項の維持と第3項の追加とは、矛盾していると、6月1日付の本欄で述べた。そのまま改正されれば、両者の不整合は末永く不毛な国内論争を引き起こすだろう、と。
今は極東の軍事情勢が逼迫(ひっぱく)し、改正が追い風を受けている好機でもある。なぜ戦力不保持の第2項の削除に即刻手をつけないのか。空襲の訓練までさせられている日本国民は、一刻も早い有効で本格的な国土防衛を期待している。これに対し、首相提案を支持する人々は、万が一改憲案が国民投票で否決されたら永久に改憲の機会が失われることを恐れ、国民各層に受け入れられやすい案を作る必要があり、首相提言はその点、見事であると褒めそやす。
さて、ここは考え所である。右記のような賛成論は国民心理の読み方が浅い。憲法改正をやるやると言っては出したり引っ込めたりしてきた首相に国民はすでに手抜きと保身、臆病風、闘争心の欠如を見ている。外国人も見ている。それなのに憲法改正は結局、やれそうもないという最近の党内の新たな空気の変化と首相の及び腰は、国民に対する裏切りともいうべき一大問題になり始めている。≪≪≪保守の立場から堂々と批判を≫≫≫
北朝鮮の核の脅威と中国の軍事的圧力がまさに歴然と立ち現れるさなかで敵に背中を向けた逃亡姿勢でもある。憲法改正をやるやるとかねて言い、旗を掲げていた安倍氏がこの突然の逃げ腰-5月3日の新提言そのものが臭いものに蓋をした逃げ腰の表れなのだが-のあげく、万が一手を引いたら、もうこのあとでどの内閣も手を出せないだろう。
国民投票で敗れ、改正が永久に葬られるあの幕引き効果と同じ結果になる。やると言って何もやらなかった拉致問題と同じである。いつも支持率ばかり気にし最適の選択肢を逃げる首相の甘さは、憲法問題に至って国民に顔向けできるか否かの正念場を迎えている。
そもそも自民党は戦争直後に旧敵国宣撫(せんぶ)工作の一環として生まれた米占領軍公認の政党で、首相のためらいにも米国の影がちらつく。憲法9条は日米安保条約と一体化して有効であり、米国にとっても死守すべき一線だった。それが日米両国で疑問視されだしたのは最近のことだ。今まで自民党は委託された権力だった。自分の思想など持つ必要はないとされ、仲良しクラブでまとまり、左からの攻撃は受けても、右からの生存闘争はしないで済むように米国が守ってくれた。
しかし、今こそ日本の自由と独立のために自民党は嵐とならなければいけない。保守の立場から保守政権を堂々と批判する勇気と見識が今ほど必要なときはない。(評論家・西尾幹二 にしおかんじ)
https://ssl.nishiokanji.jp/blog/?p=2218
日米同盟の即時破棄を主張する
晩年の平泉澄は、自民党が行う憲法改正に批判的であったという。自民党のやり方に従えば、今よりもずっと対米従属を深めるような憲法に改正されてしまうからに他ならない。
現状北朝鮮情勢が逼迫する中で、米国とさらに関係を深め、共に国防に努めるべしという考え方がある。一見、「現実的」な意見に映る。ただそれは、日米同盟下に於いて日本は外交・国防上の自主決定権をほとんど持っていないという「現実」に目を背けた議論である。現状の日米同盟体制では、日本側の協力が必要か否かはアメリカが決めるのであって、日本が決めるのではない。即ち日米同盟を破棄しない限り、日本の主体的な外交・国防上の政策はないということである。わたしが日米同盟即時破棄を訴える所以である。
過去記事を紹介するので併せてお目通しいただけたら幸いです。
◆まず日米同盟から改めよ~日米同盟の抜本見直しと憲法改正の順逆を問う~
◆良心を問え―自主防衛論―
噴飯物の明治百五十年事業
いま政府は明治百五十年を機に記念事業を行おうとしている。
わが国の歴史に鑑み、記念事業を興し、国民に再度過去の事績の意義を思い起こさせるのは、決して悪いことではない。ただ、今回の「明治150年」事業はその内容があまりに噴飯ものであり、看過できるものではない。
下図をご覧いただきたい。首相官邸が公表している「明治150年」事業の中身である(上リンクから見ることができる)。
若年層、女性、外国人の活用という政府の成長戦略をなぞっただけの代物となっている。
元来明治維新の意義は、幕府政治を改め、王政復古の大業を成し遂げたところにある。また、政府が指摘するような「近代化」という側面はないとは言わないが、それは西洋列強による植民地化、属国化の脅威に対抗するものであり、百歩譲って王政復古の大業に触れないとしても、そうした「西洋の侵略に対抗した生き残り」の側面は触れない方がおかしいと言わざるを得ない。
本事業には山内昌之氏、筒井清忠氏が会議に出席し、意見を述べているが、いずれも政府があらかじめ引いた筋書きをなぞるような意見しか述べていない。特に山内氏は明治期のお雇い外国人に対して「恩」を受けたと信じがたい発言をしている。
坪内隆彦氏はこうした政府のやり方を受けて、「王政復古という維新の本義が封印されたまま、明治維新150年という極めて重要な機会が、グローバル化の推進、女性の社会進出の促進のためだけに利用される」と警鐘を鳴らしている他、五十年前の佐藤栄作内閣による「明治百年」の際にも、維新の大義を軽視する記念事業が行われ、一部の心ある人士による異議が出たことを紹介している。
翻って明治百五十年を迎えようとする今日では、政府のこのような噴飯物の記念事業に、王政復古の大義を重んじる立場から抗議しようという声は聞かれない。事態は五十年前より悪化していると言わざるを得ない。
◆参考:
坪内隆彦氏ブログ「グローバル化に利用される政府の「明治150年」事業─王政復古の意義を封印」
日本独立党ブログ「「明治百五十年」プロジェクトに異議あり。」
靖国神社に参拝
昨日は仕事終わりに靖国神社に参拝に行ってきた。
手と口を清めて参拝のために並んでいるときに、急に夕立が降るという宗教的な出来事があり、普段はあまり感情が波立たないのだが、わが国と自身のふがいなさにとても悔しい気持ちになり、めそめそしてしまった。
安倍首相が来たから何だということもできるし実質的な政策が伴っていなければ何にもならないということはわかっているが、それでも今に始まったことではないものの外圧に屈したことは疑いなく、情けない気持ちでいっぱいである。
傘もさしたくなく、ぬれたまま神保町までとぼとぼと歩いて帰った。
英霊を真に顕彰できる日本にしなければならない。
トランプ大統領待望論の対米依存
古谷経衡氏が対米自立派のトランプ大統領待望論について書いている。(http://blogos.com/article/169061/)
トランプは確かに日本に米軍基地を置くさらなる代償を求め、それに応じなければ撤退も視野に入れているようだ。対米自立を論じてきた身としては、その実現が案外間近に迫ってきていることに対する期待感もないではない。だが、ふと思うのはこのようなトランプの考えに乗る形での対米自立は、果たして本当に歓迎すべきことなのだろうか、ということだ。
対米自立は必然的に自主防衛を伴う。したがって自ら国を守る覚悟が政治家にも国民にも求められる。トランプの意向だからということでなされる対米自立には、この覚悟が欠けている。そのような態度で国が維持できるはずがない。
そもそも「アメリカの意向だから」と言う理由で「対米自立」をするのは本当に「自立」なのだろうか。むしろアメリカに翻弄されて自ら政治・外交方針を決められない、「自立」とは程遠い政治ではないだろうか。
むしろ吉田茂の時代のようにアメリカに屈従するふりをして経済的利益をせしめようとする態度のほうがはるかに自主的態度に思えてくるから不思議だ。
日本がアメリカに対し死んだふりを繰り返しながら、対米自立の機会を虎視眈々とうかがい、そんな中でようやく訪れた僥倖であるというならば話は違う。だが実際はそうではない。突然突飛な発言をする大統領候補が現れ、予想に反し大いに支持を得ているらしいと言うだけのことである。
外圧でしか政治が動かないというのは望ましいことではない。その場の雰囲気に流され、何らの国家意思も、その意志を実現するために周到に準備を行う戦略も、忍耐強く実現の機会をうかがうしたたかさも、今の為政者にはかけらもない。政治は国会議員の不倫および問題発言や、野党の離合集散など、目も当てられぬ状況であるが、それは政治が深刻になっているからではない。むしろ政治が深刻、真剣な性質を失って選挙という名のお祭り騒ぎにうつつを抜かし、与野党で政争ごっこを繰り広げることでかろうじて衆目を引きつけているだけのことである。政府の発言に信用はなく、議会は愚弄され、何ら人々の興味を引きつけるに足りないのである。やむなく政争ごっこで馬鹿騒ぎをしているだけの連中に、国家意思など期待すべくもない。
対米自立にアメリカの意向など二の次である。まず日本がどうあるべきで、どうしたいのか。それが明快になって手段の議論が始まる。まずはそれすらもできていないという現実を見据えることからではないだろうか。
政府と愛国心との関係
内村鑑三は「基督教は宗教にあらず」という言葉と、「天国には教会はない」という言葉を残している。おそらくこの二つの言葉は同じことを意味している。「宗教」、「教会」といった俗世間の枠組みは、人が何かを強く信じる心、すなわち信仰を助けるためにあるのであって、「宗教」や「教会」のために信仰があるわけではないということである。人智で計りがたいものへの敬意、それが信仰である。世俗的な組織は、ときに信仰の力を大いに発揮する力ともなるが、信仰を妨げる力ともなる。政府と愛国心との関係もまた同様である。
政府はときに愛国心を発揮するための最良の機関である。政府あってこそ国が保たれ、郷土は存続し、伝統は引き継がれる。政府がもたらす秩序なしでは、人間社会はすぐに混乱し、暴力と不信が世に広がってしまう。秩序あってこそ愛国心を発揮できる。秩序なしでは、人々は自らの身も守るのに精いっぱいで、世のことなど考える余裕はなくなってしまうだろう。
一方で、政府が愛国心を歪ませることもありがちなことである。政治はどこまでも妥協の世界であって、理想を実現する場ではない。政局が理想を歪ませるのである。自らはこうすべきだ、という高い誇りがあったとて、政局は簡単にそれを裏切らせる。例えば今の安倍政権がおかしいと思っても、「安倍さんのかわりの人がいるのか」と言われて押し黙ってしまう。「今はそれをいうときじゃない」そんな言葉の援護射撃で黙らされてしまう。
だが本当はそのようなことは何の関係もないはずだ。一国民はただ理非曲直を明らかにし、旗幟を鮮明にすれば良いのであって、それをいかにもフィクサーにでもなったかのようにふるまう必要はどこにもない。ときおり安倍政権を批判し愛国の道を語る人間に対し「現実的でない」という批判がぶつけられるが、一国民に過ぎない人が総理大臣の人事まで検討に入れて、「今それをいうのは現実的ではない」というほうがはるかに現実が見えていない態度ではないだろうか。
人はいとも簡単に世俗組織に取り込まれてしまう。そんな世間に擦れてしまいそうになる自分を救うのは、信仰以外にはない。繰り返すが、信仰とは宗教ではない。信仰は信念という言葉と近い。人は自らの心にだけは嘘をつけない。自らの心だけが本当の答えを知っている。
信仰は倫理や大義という言葉とも近しい。倫理や大義は共同体の中で醸成され、先人から受け継ぐ貴重な遺産である。その遺産は社会に働きかけるきっかけとなると同時に、社会から個人の心に働きかけるきっかけともなる。社会とは、自分の外側にあるものではない。自分は社会の一部分であると同時に、社会は自分の一部分なのである。