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陸羯南と増鏡

神ますと あふぎしみれば ます鏡 わが真心の 影のうつれる 

羯南の詠んだ和歌である。 
「神様が宿っていらっしゃると仰いでみると、増鏡には私の真心が映っている」といった意味であろうか。
 王朝の勢いが衰微し、力の強い者ばかりがはびこった後鳥羽上皇から後醍醐天皇までの時代を、あえて公家社会の側から描いた『増鏡』に、羯南は自分の真心をなぞらえたのである。
増鏡は南北朝時代の成立と言われているが、鎌倉時代の武家政権の跳梁跋扈を嘆く調子は一貫している。
建久元年、源頼朝が右大将になるもすぐに返上し、その代わりに全国に地頭を配置する。増鏡はそれを「日本国の衰ふるはじめこれよりなるべし」と厳しい評価をくだしている。武家政権が朝廷での名誉ではなく、実権を欲したことを嘆くのである。
承久の変では、「口をしきわざなり」と後鳥羽上皇方に心情的共感を隠さない。土御門上皇が自発的に四国に移られたことも、深く賛嘆するのである。
承久の変以降の皇統は、鎌倉幕府は後鳥羽上皇の兄である後高倉院の系統に継承させてきた。その後高倉院の系統が絶えたとき、なんとしても後鳥羽上皇の系統には皇統を継がせたくないという鎌倉幕府の政策は破綻した。そこで幕府は、比較的穏和であった土御門上皇の系統に継がせることにする。増鏡は「くじ引きによる神意」としながらも、その狼狽をそれとなく示している。
亀山上皇の、政治に積極的に取り組む姿勢を記している。後醍醐天皇の親政にも好意的である。
このような一貫した皇室尊崇、幕府政治否認の態度こそ、羯南が自分の「まごころ」を託したものであろう。
もっとも、増鏡は皇室尊崇的姿勢ではあるものの、そうなっていない鎌倉時代の政治を終始嘆くばかりで、それを打倒しようという気概に欠ける。公家文化に好意的な武士は好意的に描いてしまったり、結局公家である作者(作者は不詳だが家格の高い公家ではないかと比定されている)の都合が見えかくれする点も気にかかる。
羯南が神皇正統記などの類書ではなくなぜ増鏡を選んだのか、その理由はわからない。単純に和歌を作る上での字数、レトリック(影のうつれる)の問題かもしれないし、それ以外の強い理由があるのかもしれない。
いずれにしても、羯南にもまた尊皇思想の強い影響と、斥覇の志があった証と言えよう。

陸羯南論―「自由」と「国際」に潜む絶望― 下(終)

第二部 陸羯南にとっての「国際」

 人はその国、その土地に根付かなければ決して信用を得られない。「親米保守」は冷戦の崩壊とともにその存在意義を失った。今後求められるのは佐藤優が言うところの「親日保守」であり、それは自国の伝統や文化を重んじ、自国の国益を主張するというごく当たり前の態度である。なぜそれが当たり前の態度か。国際社会は力により物事が決定していくからである。武力や経済力、国際社会での発言力が物事を左右するのは、帝国主義時代も今も全く変わるものではない。力こそが国際社会の標語である。

 国際化するとは、決して自国をグローバルスタンダードに合わせるということではない。国際化とは自国の概念を他国に広げることを指す。国際化とは、何か普遍的なルールを共有するということではない。強国のルールを受け入れること、あるいは自国が強国となり、国際社会に自国のやり方を強制していく、そんな力と力のやり取りのことである(佐伯啓思『従属国家論』57~60頁)。このような正しい意味での「国際」関係を理解していた人物に陸羯南がいる。
 陸羯南は『国際論』で、日本の国家目的を欧米の侵略を止めさせることに置いた。陸の国際認識は『国際論』に言い尽くされている。陸は世界史を力による侵略、非侵略の歴史と見做し、侵略がどのようにして行われるかを詳細に論じた。それによれば、侵略は外交に対し憧れのような感情を持たせることから始まり、次に経済的に依存させ、最後には領土を奪うのだという。ただし近年の侵略は領土まで欲するものは少なくなっているといったことまで触れている。そのうえで日本がどう対抗するかといえば、まずは自国の使命を自覚することだという。日本の使命は「六合を兼ねて八紘を掩う」ことにあり、世界に公道をもたらし弱肉強食の国際関係を止めさせることにある、という。国際法は所詮欧米が決めた、欧米に有利なルールに他ならないが、先の日本の使命から国際法に東洋の立場も盛り込ませることが重要だといっている。
 ここでは国際関係を非常に現実的にとらえる陸の目が感じられる。国際社会を現実的な力関係で捉えるのはそう珍しい意見ではない。だがそうした論客はたいてい日本が生き残るためには、「強いものに付け」という態度に出ることが多いように思われる。しかし陸はそうではなかった。ここに陸の凄味があるように思われる。そしてだからこそ陸は欧米に与せず、アジアの側に立ったのであった。
 国際社会が力関係で動くということを認めるということは、必ずしも強国への従属につながるわけではない。強国への無思慮な追従こそ属国化を招くものだという言い分も充分成り立つからである。侵略は敵国からだけなされるのではない。同盟国が同盟をたてに侵略することなど日常茶飯事である。同盟とは作戦の共有であって、運命共同体ではないからだ。

 長谷川三千子の『正義の喪失』(PHP文庫)の中に「難病としての外国交際―『文明論之概略』考―」という論文がある。長谷川に限らず日本の多くの論客は福沢諭吉を引用し、考察したがる癖があり、私は内心それに辟易している。外国交際について語るのであればぜひ陸を基に論じるべきであったと惜しむ者であるが、それはこの論文の価値をいささかも減ずるものではない。

 長谷川は『文明論之概略』に「この上なく正確で鋭い状況の認識と、信じ難いほどの野放図な無頓着とが同居してゐる」(113頁)という。それは西欧的国家システムに否応なく入り込まざるを得なかったということを、いかに「自主的な加入に転化できるか」であるという(116頁)。外国交際は「商売と戦争の世の中」であり、それは西洋人が我利我利亡者であるからそうなったのではなく、近代国家的なシステムが人々をそのような方向に駆り立てるからである。それは土着的産業を近代産業に根こそぎ変革してしまわねば到底生き残れないような代物であり、しかもそれに適用するような人心の変革を必然的に求めるものであった(126頁)。そしてそのことに対して福沢は「無頓着」にも何の批判もなそうとしないのである。だから福沢は和魂洋才の説などには見向きもしない。そのような生易しい変革では到底生き残れないと考えていたという(131頁)。福沢は世界を文明、半開、野蛮の三層に見立て、上っ面の「西洋化」ではなく人心に至るまでの「文明化」を主張したのである。

 長谷川が福沢諭吉に感じた「この上なく正確で鋭い状況の認識と、信じ難いほどの野放図な無頓着」はむしろ陸羯南においてより深い分裂となって表れている。陸もまた日本が国際社会で生き残るために、西洋的国家システムへの参与を推進せざるを得なかった。しかし陸は福沢のように「人心に至るまで完全に文明化すればいいんだ」と開き直るわけにはいかなかった。陸は日本の国粋を顕彰する信念を持っていたからだ。陸は「国際論」の中である二つのキーワードを使うことでこの矛盾を全く解消させてしまっている。そしてそれは福沢の議論が持つある陥穽をも突く内容となっているのである。その二つのキーワードとは、「国民精神の競争」と「日本の使命」である。

 福沢は国際競争を軍事力と経済力の競争であり、それを支えるのが文明化であると主張していたが、陸は異なる。陸は国際競争とは軍事力や経済力の競争ではなく、国民精神の競争であると位置づけることでまず日本の独自性を維持したのである。そもそも陸が指摘しているように、国際競争がもし軍事力や経済力、文明化の競争であるならば、日本が一国を保つ意義が失われてしまうのである。福沢はそのことを「痩せ我慢」、「偏波心」としか位置づけられていない。そうではない。国際競争とは国民精神の競争なのであり、だからこそ日本人は「自国を守り抜くという国民精神」を強くもって国際競争に臨まなければならないのである。そうでない国は、欧米に飲み込まれて滅ぼされてしまう。
 福沢は世界を文明、半開、野蛮の三層に見立てているが、陸も世界を三層に見立てている。トリビュ、エター、ナシイヨンの三層であり、それを分ける境界は、(文明化ではなく)国民精神の強さなのだという。陸は西洋を国民精神の強い国であるとみなすことで日本の国民精神の発揚を称えた。ここに陸の屈折がある。

 陸は、人に使命があるように、国にも使命がある。自らの国に使命があることを知れば、皆で知恵を出し合い、生き残ることができると主張した。先ほども述べたように、日本の使命は「六合を兼ねて八紘を掩う」ことにあり、世界に公道をもたらし弱肉強食の国際関係を止めさせることにある、という。国際法は所詮欧米が決めた、欧米に有利なルールに他ならないが、先の日本の使命から国際法に東洋の立場も盛り込ませることが重要だと述べている。つまり日本の近代化=文明化は決して西洋に倣うために行うのではなく、西洋の弱肉強食策を改めさせるために行う日本の使命なのだ、と位置付けたのである。これは維新の際に言われた「大攘夷」の発想と言ってよかろう。
 この「大攘夷」は「自らが行っている文明化は決して西洋化ではなく、攘夷なのだ」と無頓着に目をつぶらなければ到底成し得るものではない。表面上はやはり西洋化に他ならないからだ。しかし「西洋化しなければ生き残れない」という絶望の中から生まれた精神とも言えよう。日本のルールを世界に認めさせるには、まず日本が西洋のルールに倣わなければならない。しかしそれは西洋のルールを改めさせることが日本の使命なのだ。そう見なすことで陸は日本が国際社会にこぎ出でることを正当化している。それは日本の先例を墨守しようという態度ではない。「和魂洋才」とも異なる。「西洋化しているにもかかわらず、西洋化を頑として認めない態度」に近い。

結論

 陸羯南は「西洋化しているにもかかわらず、西洋化を頑として認めない態度」によって国粋主義を主張した。それは西洋化しなければ生き残れなかった当時の日本の世相と、「日本固有の元気」を保持、顕彰していこうという国粋主義の理想がぶつかった挙句生まれてきた概念である。結果として陸は西洋に対抗すべき「日本」を見出すというよりは「祖国の興隆に役に立つならどんな思想だって唱える」と言う態度に出たのであった。それは西洋に対抗すべき「日本」が見出せなかった、あるいは否応なしに西洋化するしかなかったからである。陸をはじめとする国粋主義者の屈折は、明治日本の屈折でもある。

(了)

陸羯南論―「自由」と「国際」に潜む絶望― 上

第一部 陸羯南にとっての「自由」

 明治維新により、過去の政治体制が崩壊した時、政治思想もまた混迷の中に投げ込まれた。如何なる政治倫理を以て政治および経済を位置付けるか、明治期にはそれが問われていたのである。特に、「日本」を見直そうという国粋主義者にとって、その問いが重かったことは容易に想像できる。政治体制は既に変革され、政治倫理も今までと同じではいられない。だがそれは西洋から流入してくる近代政治思想を無条件に受け入れればよいというものではなかった。近代西洋思想が耶蘇教と切り離して考えることはできないものであるからこそ、やはり日本流の「答え」を必要としたのである。
 明治維新とは日本の資本主義化だったといってもよい。それを支える「自由」という思想をいかなる理由で裏付けていくか。その役割を担った一人に、陸羯南がいる。
 陸羯南は明治二十年代の国粋主義の流れの中心人物の一人である。明治二十年代の国粋主義とは、文明開化の風潮に反発し、日本は日本の美質を育成、発展させていけばよい、というものであった。こうした風潮の中で、富士山(志賀重昂)や忠臣蔵(福本日南)、仏教美術(岡倉天心)、日本画(岡倉天心・狩野芳崖)、短歌や俳句(正岡子規)などが見直されることになった。だが、陸がいつの間にか受け持つことになった政治思想の分野では、対抗すべき「日本」というものが、先ほどの事情によりあてにならないものであった。陸はこの困難な命題を如何に対し如何なる答えを出したのであろうか。
 そもそも西洋文明を受け入れるということは、西洋文化を受け入れるということであった。「和魂洋才」などという器用なまねはできるはずもなかった。いや、蒸気機関車やガス灯といったことならできたかもしれない。だが、陸が対峙したのは「自由」という「洋魂」であった。「和魂をもつて洋魂をとらへようとして、はじめて日本の近代化は軌道に乗りうる」(福田恆存「伝統に対する心構」『保守とは何か』文春学芸ライブラリー版、205頁)のだとすれば、それをしようとした人物は、私には陸羯南をその筆頭に挙げなければならないように思えてならないのである。
 日本は、帝国主義で生き残るために近代思想を経なければならなかった。だが、安易に近代思想を導入してしまえば、日本の伝統が破壊される。しかも、先例などほぼないのである。
三宅雪嶺の『真善美日本人』は、「日本人とは何ぞや。これ何らの問いぞ。問う者すでに日本人たり」という印象的な一文で始まる。「日本人とは何ぞや。日本の人なり。日本の人とは何ぞや。吾れ答ふる所以を知る、吾れ答ふる所以を忘る。日本人、日本の人、黙して想へば其の意義ありありとして幻像のごとく眼前にちらつけども、口を開けば忽焉として影を失ふ」(『日本の名著 陸羯南 三宅雪嶺』287頁)。日本人とは何か、それは自明なようであるが、いざ説明しようとするとうまく表現できない。そんな戸惑いに似た感覚をまず表明するのである。その中で、三宅は日本人とは単に日本国籍を持つ人と言うだけではなく、長い「日本」と言う国家の歴史の一分子たることを以て「日本人」であると規定していくのであるが、そもそもその「日本の歴史」そのものが自意識たりうるのかが問われなければならなかった。なぜなら日本はすでに「文明開化」という大きな思考的屈折を経ていたからである。三宅がそれに気づいていなかったはずがない。だがそれを問うてしまうと、やはり「吾れ答ふる所以を忘る」しかないのである。あるいは、志賀重昂が「『日本人』が懐抱する処の旨義を告白す」で、「西洋の開化を悉く是れ根抜して日本国土に移植せんとするも、此植物は能く日本国土の囲外物と化学的反応とに風化して、太だ成長発達し得べき乎」という疑問をぶつけたうえで、「日本の国粋を能ふ丈け成長発育せしむるの太だ経済的なるに若かざるなり」と主張した(『近代日本思想体系31 明治思想集Ⅱ』8~9頁)ように、海外のものをそのまま移植してもうまくいくものではない。それよりも海外の事例を参考にしつつ日本の良いところを伸ばすべきだ、というある意味楽天的な主張なのである。
 そもそも日本は弥生時代に稲作や鉄器・青銅器の活用など大陸から怒涛のような文明を受け入れている。仏教や儒教もそうであるし、後述するように漢字もまたその文明の一環であった。だがそれらを巧みに「日本化」していった。例えば蓑田胸喜などはその「日本化」を高く評価したうえで、他国の文明を受け入れるには、受け入れる側にも主体性がなければならないと考え、「日本」と言う主体を考えることになるのだが、そこには海外の文明も日本に合うような形で受け入れることができるというある種の楽天性が付きまとっている。それは陸も含めたすべての国粋主義者に共通した傾向であり、そうでなければ日本が古代に大陸文明を受け入れたことや、明治期に西洋文明を受け入れた歴史を到底正当化できなかったであろう。
だが私はここでこの志賀や蓑田の「楽天的」な発想は本当に楽天的だったのか、という大きな疑問にぶつかる。大陸文明や西洋文明は、日本が望んで受け入れたわけではない。当時の情勢から受け入れざるを得なかったに過ぎない。それを自覚してもなお、海外の文明を「日本化」したのだと主張することが、本当に「楽天的」な発想から生まれるのであろうか。
 その答えを出す補助線となるのが、長谷川三千子『からごころ』だろう。長谷川はいきなり「何故かうも「日本的なるもの」は気を滅入らせるのであらうか? どうして自分は生まれ故郷である「日本」という国にいつまでたつても馴染めないのであらうか?」という疑問をぶつける(中公叢書版3頁)。そして、「「日本的なるもの」をどこまでも追求してゆかうとすると、もう少しで追いつめる、といふ瞬間、ふつとすべてが消えてしまふ。我々本来の在り方を損ふ不純物をあくまで取り除き、純粋な「日本人であること」を発掘しようと掘り下げてゐて、ふと気が付くと、「日本人であること」は、その取り除いたゴミの山のほうにうもれてゐる」(同8頁)のだと言う。「自分は「日本人であること」といふこの根本の事実にしっかりと目をすゑて生きよう、と決意する。と、まさにその決意そのものによつて、その人は知らぬ間に「日本人であること」から逸脱してしまふのである」(同19頁)。長谷川はこうした日本人の思想的特徴を、漢字を受け入れたことに求める。漢字を受け入れたということは当時の中華文明と言う「異言語による支配」を受ける恐れがあったことに他ならないが、それを徹底的に拒絶して国が保てるはずもなかった。日本人は「訓読」を発明することで、かろうじてこの文化的危機から脱したのだという。しかしそれには、「いやしくも漢字で書かれたものはすべて中国語である」という原則を無視することによって成り立っている。「漢心は単純な外国崇拝ではない。それを特徴づけてゐるのは、自分が知らず知らずの内に、外国崇拝に陥つてゐるといふ事実に、頑として気付かうとしない、その盲目ぶりである」(同53頁)と言う。同様に、明治の「文明開化」の時代にも、欧化政策なのではなく文明を学ぶのだ、と信じ込むことによって危機の脱出に成功したのだと言う。それは「西欧化」ではなく「文明化」だと文化の国境を見ないことで成り立ったのだ。だとすればひたすら「文明化」を主張した福沢諭吉のような人間と、国粋主義者は同じということになってしまうのだろうか。陸羯南のように、生き残るための「文明開化」が一応一段落した時期に日本の国粋主義を主導した人間が、いかなる理屈で「文明」を正当化し、批判したのであろうか。

 福沢諭吉は『文明論之概略』で、文明を「人の精神発達」(岩波文庫版9頁)と捉え、決してそれを地縁によるものであるとは認めなかった。陸の『自由主義如何』もまた、その論理の中にある。両者の違いは、福沢が漢学や国学を馬鹿にするところがあったのに対して、陸はそうではなかったということだろう。というのも、文明を人間の精神の発達と捉える議論は、儒学や国学の中にも明白に見出せるからであろう。
 余談ながら少し『文明論之概略』について語ろう。福沢も漢学や国学を馬鹿にして一掃してやろうと思っていた。にも関わらず、『文明論之概略』の読者層を五十歳以上で視力が衰えた人間を想定し、太平記などと同様の体裁に印刷したという(『文明論之概略』岩波文庫版297頁、富田正文による後記より)。漢学や国学で自己の思想形成をした層に向けて書かれたのが『文明論之概略』だというのだ。これは「儒学や国学なんか学んできた憐れな連中に文明とは何かを教えてやろう」という福沢の尊大な風を感じなくもないが、洋学に凝り固まり、何事も西洋風をまねようとする人間を「開化先生」と揶揄してやまなかった福沢にしてみれば、開化先生のような救いがたい愚か者よりは、漢学や国学を純朴に学んだ世代のほうがまだ救いがあると考えていたのかもしれない。

 陸は「自由主義如何」で以下のように書いている。
 「日本における自由主義は吾輩その起源を探るに難からず。明治維新の大改革は啻に封建制の破壊のみならず、また啻に王権制の回復のみならず、この改革は実に日本人民をして擅圧制の内より脱して自由制の下に移らしめたり。即ち維新の改革は日本における自由主義の発生と言うも不可あらず。しからば自由主義は福沢先生の『西洋事情』より出たるにもあらず。中村先生の『自由之理』より来たれるにもあらず。当時洋学者の機関たる『明六雑誌』によりて現らわれたるにもあらず。征韓論を名として袂を払いたる民選議員の建白書によりて生出したるにもあらず。これらの事実は自由主義の誘導者たりしに相違なしといえども、日本の自由主義は維新の改革に先立ち早く既に日本有識者の脳裏に感染したるや明らかなり。ああ自由主義、汝は日本魂の再振と共に日本帝国に発生せしにあらざるか。日本の有識者は欧米人の来航に当り、早くも既に日本国の独立及び振興を策したり。日本の愛国心即ち日本魂は大八洲の威武名誉を海外に輝かさんと欲し、その籌策を探りてついに最も剴切かつ公平なる良謀を発見し得たり。国家権力の統一と個人智能の発達とは、日本の独立に已むべからざるの大政義なりし。日本魂を有するの識者はみなこれを認めて維新の大改革を成就せしめ、しかして自由主義は日本に発動を始めたり」(岩波文庫版『近時政論考』90~91頁)。日本の自由主義は、福沢諭吉がもたらしたのでもなく、中村敬宇(正直)でもなく、明六雑誌でもなく、維新志士の行動によるのだという。自分の国の進路を自分で決める、これが自由主義なのだと言うのだ。
 これは吉田松陰に通じるものがある。松陰は佐久間象山の甥に書簡でこう語っている。「独立不羈三千年来の大日本、一朝人の羈縛を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。那波列翁(ナポレオン)を起してフレーへード(自由)を唱へねば腹悶医し難し」(奈良本辰也編『吉田松陰著作選』421頁)。三千年もの間独立を保ってきた日本が外国人に縛られる様子は見るに忍びない。ナポレオンのようにクーデターを起こして自由を唱えなければ腹中の悶々とした思いは癒せそうにない、と言った意味だろう。松陰が自ら起すべき行動をナポレオンになぞらえるなどとても新鮮だが、陸の自由主義論もこの松陰の考えの延長線上にいることは理解できよう。陸には松陰の弟子品川弥次郎との関係があった。谷干城や近衛篤麿との関係は公にされていたが、品川との関係は伏せられていた。品川との関係はむしろ谷などより古く、重要な関係であったことが伺える。陸が品川からこの吉田松陰の書簡について教えられていたかどうかはわからないし、「自由主義如何」を書いたときに松陰が念頭にあったかどうかもわからないが、品川を通じて松陰の考えが陸に入ったことも考えられる。

 一方で陸は明治維新後、自由主義がはびこることで格差が開き、拝金主義的な堕落が起こったことをつぶさに見ていた。したがって陸は簡単に自らを「自由主義者」に任ずることはなかった。陸羯南は『自由主義如何』で、「しかれども吾輩は単に自由主義を奉ずる者にあらず、即ち自由主義は吾輩の単一なる神にあらざるなり。吾輩は或る点につきて自由主義を取るものなり。故に吾輩は自由主義もとよりこれに味方すべし。しかれども吾輩の眼中には干渉主義もあり、また進歩主義もあり、保守主義もあり、また平民主義もあり、貴族主義もあり、各々その適当の点に据え置きて吾輩は社交及び政治の問題を截断すべし」(岩波文庫版『近時政論考』103~104頁)と言う。これは恐ろしいほどの楽観である。プラグマティズムとも言えるのかもしれないが、要するにそれが日本人にとって有用であるならば、干渉でも自由でも何でもよろしいと言っているのである。だが、この恐ろしいまでの楽観は、猫の手も借りなければ日本は到底独立を維持できないという悲観のなかから生まれたものとも言える。
 「祖国の興隆に役に立つならどんな思想だって共存して唱える」と言う態度は無節操とは異なる。「良い」と評価する人間(=羯南)がおり、その評価軸を「祖国の興隆」においていることを明言しているからである。

(続く)

世界文明のために

 日本文化を重んじるということはむやみに外来のものを排するということではない。もちろん日本が元来有しているものを大切にすべきだが、「日本らしさ」を重んじるということは何もかも外来のものを排するということではない。飛鳥時代、聖徳太子による憲法十七条や三経義疏、法隆寺の仏教文化も外来の単純な模倣ではなく、独自の日本精神による当時の世界文化の選択であった。明治時代の文化も西洋の模倣と見られがちであるが、大日本帝国憲法を初めとして、外来を学びつつも改めて日本的自覚を身につけた時代であった。このことを指摘したのは蓑田胸喜であるが、まさに正しい見方といえよう。
むしろこうした強い自覚による外国からの文化の吸収ではなく、浮ついた外国崇拝と自国に対する軽蔑感情を基にした外国文化の模倣が行われたのは大正時代であり戦後であった。此の二つの時代に共通することは資本主義と共産主義と言う、国境を無視する二つのグローバル思想のどちらかを信奉しなければならないかのように考えられた時代だと言うことだ。
 戦後日本はアメリカの従属下に置かれてきたが、一方で経団連などの巨大資本や自民党の政治家などを筆頭に、アメリカに自ら進んで従属してきた部分を見逃すわけにはいかない。財界や自民党はアメリカと「持ちつ持たれつ」の関係を築き、憲法を改めず、日米同盟体制を温存し、TPPに参加するなど、日本を自ら売り渡し続けた。それは彼らの思想的信念から行われたのではない。彼等は自己利益にしか関心がなかった。自己利益に有利と見れば平気で国を売り渡すし、不利と見ればかつての繊維交渉のように国益を振りかざし立ち向かうのである。彼等は所詮自分たちの利権を守る存在であり、国を守る存在ではない。
次の陸羯南の言葉は当たり前のことを言っているに過ぎない。だがその当たり前が通用しない時代だからこそ新鮮に響く。

「世界と国民との関係はなお国家と個人との関係に同じ。個人と言える思想が国家と相い容るるに難からざるが如く、国民的精神は世界即ち博愛的感情ともとより両立するに余りあり。(中略)国民天賦の任務は世界の文明に力を致すにありとすれば、この任務を竭さんがために国民たるものその固有の勢力とその特有の能力とを勉めて保存し及び発達せざるべからず」(『近時政論考』)

 日本が日本らしくあることが世界文明に対する貢献なのである。

陸羯南と言論

 五百木良三という人物の回想に以下のようなものがある。この話は大学にいたころから知っていたが、なかなか原文にあたれなかったので今まで書けずにいた。

 或日、羯南翁は其卓子に肱を乗せて、恁う言た。
 「区役所から吾輩の戸籍を調べに来たが、職業を何と書いたら可かろうと随分困つたよ」
 「何と書かれましたか」と誰かゞ言た。
 「無職と書いた」と羯南翁が言た。
 「新聞記者は?」
 「新聞記者は職業ではないよ。これは浪人に属するものだ」
 「はッはッはッ」(原文踊り字:引用者註)
 一同は俄かに笑ひ出した。其時私は卓子の一隅にあつて此の話を聞いて居たが、新聞記者が果して職業でないかに就て疑を起した。すると、傍らに居たある人は言た。
 「併し、これで飯を食つている以上は職業といふべきだらうと思ひますが」
 「飯を食ふといふ点から考へると、さうかも知れないが」と羯南翁は筆を指の間に挟んだ手を原稿紙の上に乗せて「併し飯が食へなくても、文章を書かなきやならんからな」
 私は初めて先生の意のある所が解つた。飯が食へても食へなくとも社会の指導者として筆を執るのが新聞記者の任務であつて、これが商売といふべきものでもなければ、「業」(職業)といふべきものでもないのだ。
 (昭和十二年の)今日此説を持ち出したら、若き新聞記者達は一驚を喫するだらう。浪人に属するものだといふに至ては、到底今の人には理解が出来まい。

 松本健一『原敬の大正』67~68頁からの孫引き

 若干芝居がかった逸話であり、五百木の創作ではないかという疑問もあるが、似たようなことはあったのであろう。陸羯南の言論にかける思いがよく伝わってくる。

 陸羯南はその言論活動を行う中で、営利性も党派性も放棄すると言う実現困難な命題に立ち向かわなければならなかった。なぜそうしなければならなかったのか。それは自分は自己利益の為に発言しているのでもなければ、特定の政治勢力を支援するために書いているわけでもない。自分は日本の為に書いているのだ、という強い矜持があったからに他ならない。
 陸は、新聞記者は利益を得る手段ではなく「公職」であると説く。その上で「眼中に国家を置き自ら進んで其の犠牲になる覚期」が必要だとした。ある党派に属しその党派の勢力を広めるために言論活動を行うものを「機関新聞」、営利を得てそれを増進するために書くものを「営利新聞」と呼び、自らをそのどちらにも属さない「独立新聞」だとした。「独立新聞の頭上に在るものは唯だ道理のみ、唯だ其の信ずる所の道理のみ、唯だ国に対する公義心のみ。」己の信じる義、国に対して奉仕する心、それ以外の何物にも動かされてはならないのである。