陸羯南と増鏡


神ますと あふぎしみれば ます鏡 わが真心の 影のうつれる 

羯南の詠んだ和歌である。 
「神様が宿っていらっしゃると仰いでみると、増鏡には私の真心が映っている」といった意味であろうか。
 王朝の勢いが衰微し、力の強い者ばかりがはびこった後鳥羽上皇から後醍醐天皇までの時代を、あえて公家社会の側から描いた『増鏡』に、羯南は自分の真心をなぞらえたのである。
増鏡は南北朝時代の成立と言われているが、鎌倉時代の武家政権の跳梁跋扈を嘆く調子は一貫している。
建久元年、源頼朝が右大将になるもすぐに返上し、その代わりに全国に地頭を配置する。増鏡はそれを「日本国の衰ふるはじめこれよりなるべし」と厳しい評価をくだしている。武家政権が朝廷での名誉ではなく、実権を欲したことを嘆くのである。
承久の変では、「口をしきわざなり」と後鳥羽上皇方に心情的共感を隠さない。土御門上皇が自発的に四国に移られたことも、深く賛嘆するのである。
承久の変以降の皇統は、鎌倉幕府は後鳥羽上皇の兄である後高倉院の系統に継承させてきた。その後高倉院の系統が絶えたとき、なんとしても後鳥羽上皇の系統には皇統を継がせたくないという鎌倉幕府の政策は破綻した。そこで幕府は、比較的穏和であった土御門上皇の系統に継がせることにする。増鏡は「くじ引きによる神意」としながらも、その狼狽をそれとなく示している。
亀山上皇の、政治に積極的に取り組む姿勢を記している。後醍醐天皇の親政にも好意的である。
このような一貫した皇室尊崇、幕府政治否認の態度こそ、羯南が自分の「まごころ」を託したものであろう。
もっとも、増鏡は皇室尊崇的姿勢ではあるものの、そうなっていない鎌倉時代の政治を終始嘆くばかりで、それを打倒しようという気概に欠ける。公家文化に好意的な武士は好意的に描いてしまったり、結局公家である作者(作者は不詳だが家格の高い公家ではないかと比定されている)の都合が見えかくれする点も気にかかる。
羯南が神皇正統記などの類書ではなくなぜ増鏡を選んだのか、その理由はわからない。単純に和歌を作る上での字数、レトリック(影のうつれる)の問題かもしれないし、それ以外の強い理由があるのかもしれない。
いずれにしても、羯南にもまた尊皇思想の強い影響と、斥覇の志があった証と言えよう。

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