「思想について」カテゴリーアーカイブ

信仰と倫理

日本は皇室という中心を抱き、その周囲を隷従でも放縦でもなく国民が脇を固めることで成り立っている。この精神こそが古の明徳なのである。その意味で天皇と民は本然一体であり、民を軽んじ虐げる権力者は亡びるべきなのである。こうした君民一体の精神こそが重要だ。その精神は祭祀によって表現されたから、祭政一致とは単に神道を国家の国教に据えるということではなく、こうした「民を虐げない政治」を前面に打ち出す事でもあった。外国の圧力もありそれを放棄してしまったのが明治時代の負の側面である。

神道はそれ自体が信仰であるから、それを理解するにはその本質において存在する神々の霊感、冥応(平泉澄)に深入りしなければならない。
歴史を貫く冥々の力とは、楠木正成の魂が山崎闇斎を動かし、さらに闇斎の魂が橘曙覧を動かすといったたぐいのことである。
神道では祭りが行われるが、祭り自体形式的には昨年の繰り返しである。しかしそこに新しい祈りが込められる。それこそが重要なのだ。
若林強斎は「理ト云モノハ、活ニ活テ居ル物ノ、ホコホコアタヽカナ様ナルモノヽ、ナマグサキ様ナルモノナリ。コヽノ合点ガナケレバ、理ノツラヲ見知ラヌト云者ナリ。」(『雑話続録』)といったという。理は歴史の現実の中で悩み、苦しみ、悪戦苦闘する中で具体的行動として示された集積の中から生まれてくるのである。そうでなければ、理は単なる観念論に堕す。
闇斎が「人の一身、五倫備はる」と述べたように、人間には生まれながらに倫理的存在であるととらえていた。だからこそ神儒一致、神儒妙契でなければならないのであった。

同じく信仰と倫理について考えた人に竹葉秀雄がいる。竹葉秀雄は安岡正篤の弟子で、愛媛県の教育界に影響を与えた人物である。
竹葉秀雄は黒住宗忠に関心を持ち、「日本でなければ生まれない宗教家であり、今後世界的になるべき偉大な心境であり、宗教であると思います」と述べている。
『維新と興亜』同人の三浦夏南氏が竹葉氏の地元愛媛県の詳しい人に確認してくれたところ、「竹葉先生は弟子の近藤先生を伴ってほとんどの宗教団体での宗教的修行に取り組まれたそうです。体験せねば分からぬというのが竹葉先生のモットーだったみたいです。先生が出入りされなかったのは、創価学会くらいで、あらゆる宗教に通達されていたようです。その中でも強い感銘を受けられたのが黒住教であったと近藤先生からお聞きしたと言っておられました。また竹葉先生の地元の庄屋だった方が黒住教で、伊予鉄が株式会社になった時の社長であり、かなりの人物だったようで、先生の郷土三間にはやはり黒住教の教えが伝わっていたようです。」という回答であった。
明治維新の原動力となった下士、豪農層に維新の精神は浸透しており、その一環として黒住教があったことがうかがえる。黒住教は開祖黒住宗忠の出身地である岡山県を中心とした宗教であると思っていたが、それが愛媛県まで黒住教が広がっていたのは新発見であった。黒住教については『維新と興亜』第二号で片岡駿について書いた際に触れたが、天誅組に参加した藤本鉄石も黒住教徒であるし、いくつか黒住教関係の本を読みましたが良いものであった。片岡をはじめとした明治以降の維新派にも影響があったようである。

真の意味で信仰を持つことは極めて政治的なことでもあり、倫理的なことでもある。倫理を突き詰めれば政治思想にもなり、信仰にも到達するのだ。

資本主義の自死と神道思想の復興の必要性

現在のような高度資本主義は、長く続けるわけにはいかないだろう。このまま行ったら、人類的自死が待っているように思えてならない。人類が持たないのか、あるいは地球が持たないのか、その帰結はまだ見えていないが、いずれにしても、資本主義の根幹である「自由競争」なるものは、結局勝者が勝ち続ける結果にしかならないし、ある一定の人々の犠牲なしには成り立たない排他的な仕組みである。「自由競争」が成り立つためには巨大な企業と、それに労働力を搾取される都市労働者の存在が不可欠であり、なおかつ個人自営業や農業などよりも都市労働者の方が生活が楽になるような政治面での政策支援も不可欠である。日本に限らず、あらゆる近代国家はその仕組みを作り上げることで繁栄してきた。そうした社会の登場は伝統主義者にとっても一つの危機であった。そうした危機を描いた小説の一つが、『夜明け前』だったといってよい。
『夜明け前』は平田国学の物語であるが、明治維新を齎した原動力の一つとなった平田国学が、文明開化を旨とする明治政府によってパージされていく様を描き、主人公青山半蔵は廃仏毀釈から「維新のやり直し」を目指すのだが、それはもはや狂人の所業としかみなされなかったという悲哀を描いたのである。青山半蔵が目指したのは「新しき古」であり、それは中世的(そして近代的)権力万能の世界観から脱し、自然と共に暮らしがあった素朴な古代的生活に還ろうというものだ。権藤成卿は「社稷」と言ったが、これらはそう大きな違いはない。東洋伝統思想には何か権力万能神話を破るアナーキー的情念を抱え込んでいるのである。
このように神道思想には、近代国家に収斂しえない、日本人の血肉になった情念のようなものを秘めている。それは、神道が農業や収穫といった近代産業に切り捨てられる側に土台を持っていることにも由来している。
神道における祭祀では神饌を奉献することが重要であるとされている。饌とは食事である。食事は自然がもたらす恵みを体内に取り込む行為であり、霊的な行為である。だから「食事をともにする」というのは単なる栄養補給をともに行ったこととは異なる、営為をともにする行為であり、性的な側面さえ連想されることもあるような所業なのである。収穫の一部を食事として神に捧げることで神の霊威は高められ、神と食膳を共にするという意味の直会(なおらい)を行うことで、神と人とは一体となるのだ。食事をカネで買っているという資本主義的世界観に立てば、「いただきます」「ごちそうさま」などという必要すらないし、食べ物に感謝を捧げる必要もないことになってしまう。現代は食品廃棄が異常に多い時代だが、生産効率ばかりが留意され食に感謝を捧げられないのは資本主義ならではというか、情けないことである。
話はそれたが神道的世界観の話に戻って、大嘗祭は各村で行っている秋の収穫を祝う祭りと類似し、天皇は農業信仰、神道信仰とも直結した存在を維持した。単に資本主義、産業主義を推し進めるだけではこうした日本文化、信仰、そしてその奥にいる天皇という存在との齟齬が生まれてくることになるのである。産土、祖霊、農業は日本人の血と信仰に結び付く存在ではあるが、資本主義と結びつく存在ではない。
ここで祖霊という言葉が出てきたので祖霊について述べよう。本居宣長は、人間は死ねば黄泉の国に行き、生者とは交わらないのだから死は悲しいのだと説いた。こうした世界観は唯物的というか、実に現世的なあっさりした世界観である。
それに対して平田篤胤は、人は生きては天皇の御民、死しては幽冥界に行き八百万の神の一つとなると説いた。しかもその幽冥界は生者の世界(顕界)と同じ空間にあり、ただ生者の目には見えないだけだとしたのである。つまり祖先は死者となってもわれわれの傍におり、われわれを見守ってくれていると説いた。この世界観の違いは重要だ。生者は世界を自分たちのものだと信じて疑わないが、しかし死者は生者とともにわれわれの日常を生きている。生者の周りにある死者との関係の構築、いうなれば祖霊を意識した形での生活を想定することが重要なのである。生者だけを重んじる世界観であれば自己利益的刹那的になっていくのも当然で、死者を意識した時に先祖代々から何を受け継ぎ、何を残していくかという発想にもなっていくのである。
本居宣長は自由競争的世界観に親和的で、そういった経済観も述べていたという話もあるくらいで、生者に依拠する唯物的世界観は資本主義と親和的である。しかし祖霊を信じる平田派の世界観はそうではない。平田国学からは続々と経世済民、農本主義を旨とし、商売を批判する論客が登場したのもそうした世界観と無縁ではない。宣長の世界観は平田派的自由競争否定とは対極的関係にある。
ご承知の通り平田篤胤は本居宣長の没後の門人と称し、夢の中で入門を許されたと自称したが、それは山っ気のあった篤胤の「営業上の論理」であって、真に宣長の世界観を受け継ぐ者とは思えない。
平田国学の世界観はむしろ(宣長入門以前に学んでいた)垂加派に近いのではないかと思えてならないのである。篤胤は神道に限らず、古史、天文、暦学、地理学、民俗学、兵学などあらゆる学問の総合商社で、そうした側面も垂加派と類似している。あくまで歌学と神道をもとに発展した国学とは違った側面を秘めている。篤胤は垂加神道を表面上結構厳しく批判しているのだが、その奥底の世界観が垂加派なのである。
なお、垂加神道と平田国学の世界観の類似については本ブログの過去記事に何度か書いているからそちらをご参照いただきたい。
わたしの「平田篤胤=(宣長派ではなく)垂加派」という理解はかなり偏った、牽強付会であるといわれかねない危うさがあることは自覚しているが、やはりどう考えても平田派の世界観は垂加神道に由来しているとしか思えないのである。少なくとも宣長からだけではどうしても生まれえない何かを秘めているというくらいは言えるだろう。
神道を「シントウ」と濁らずに読むのは、ありのままに素朴に率直で飾り気のない心持であるべきという世界観に基づくもので、神道思想者にある程度通底する世界観である。
神道を倫理道徳の基本として理解する世界観は、垂加派によってもたらされた。垂加派登場以前にもすでにあまたの神道思想によってその土台は準備されていたが、大きく花開いたのが垂加派の登場であったといってよい。垂加神道は儒家神道(儒教と神道の習合)などともいわれるが、それに収まらない日本人の原基となる世界観から花開いたものと見なければならない。
山村農村による自然と農業とともにある生活。それはそれを失った時代の人間によるロマンティックなあこがれの側面も否定できないが、とはいえ文化的に分断されかかった人々をまとめる知恵でもあった。資本主義はそれを破壊する刹那的唯物的世界観である。

資本主義は人類の文化の自死に繋がる。神道思想の復興によって文化的崩壊を妨げるべきなのである。

明日の草莽を奪う市場

わが国は皇室を中心とする国体であることは疑いようがないが、この基底には国をしたから支え続ける草莽の存在がある。彼等は八百万神の末裔であり、尽忠報国の士である。ところが、資本主義はこうした草莽をただの消費者に変えてしまった。
垂加神道は八百万神を皇室の祖先であり、草莽の祖先であるとした。天皇はシナの皇帝とは異なる存在だ。シナの皇帝の上には天があるが、天皇の上には天はない。天皇こそが天そのものなのであって、天皇の勅命はすなわち天命であり絶対に従うべきものであると捉えた。
それは草莽を単なる奴隷とみなしているのではない。天からの命は具体的な行動を規定するものではなく、精神のあり方を問うものである。天からの命をいかに実現していくか。それは一人ひとりの判断に委ねられている。現実的に天命を果たすことが不可能ならば、可能になるような状況に展開させればよい。そのために力を尽くすのが草莽の使命である。
われわれは抽象的、無国籍的世界に生きているのではない。日本に生まれ、社会生活を送り、死んでいく。日本人の一員としてときには政治に参加し、ときには友人と遊び、ときには仕事に精を出す。そうした生活のひとつひとつを見失い、GDPの成長率だの株価だの数字が独り歩きしてしまえば、その政治は国民生活から遊離した軽薄なものになる。
市場の競争原理による自然淘汰こそがリアルなのであって、そうでない議論は「きれいごと」であると、市場経済論者はいう。だが市場による損得勘定のみの世界には、そもそも積極的に参与しなければならない大義に欠ける。
市場経済には明日の草莽が躍動する余地はあるか。大義なき世の新たな国是は、市場経済からは生まれようがない。

商人ナショナリズムを打破し、土と太陽に帰れ

現在の国家の仕組みは、グローバル資本に都合の良いように作り替えられている。FTAなどの自由貿易協定しかり、マニュアル化、機械化、AI化する労働しかりである。こうした資本の動きに対抗するには、資本の論理によらない部分を守り育てていくよりない。国の伝統であるとか、共同性であるとかは、そういう観点からも見直されるべき存在だ。

現在の右翼は、反共反中反韓一点張りで、そのためなら権力ともつるむことに痛みも感じない、ただの堕落したちんどん屋にすぎないが、戦前及び一部戦後の右翼には、むしろ現代に通じる深い問題意識があった。

大東塾の影山正治は岸内閣の日米安保に反対し、警官隊との衝突で亡くなった樺美智子を、「彼女こそ日本のために亡くなった愛国者だ」と哀悼の意を表した。
津久井龍雄は共産中国に赴き、共産中国を一定程度評価する『右翼開眼』を著したりした。背景には、占領政策や政権与党に迎合する戦後右翼の思想的不毛に対する不信感があった。津久井は左派とも語り合い、その活動事務を支えた人の中には、日本共産党員もいた。超党派で訴えていたのだ。この姿勢は後に鈴木邦男などに受け継がれていく。ちなみに『右翼開眼』を出版したのは、後にラジオ関東社長となる遠山景久の経営する拓文館であった。
日本共産党がソ連や中共との関係を断ち独自路線を進めていることを指摘するまでもなく、日本の左派もまた愛国者であった。特に戦前の左派はそうであった。幸徳秋水、河上肇、岩佐作太郎など、名前を挙げればきりがない。
政権が垂れ流す商人的ナショナリズムに騙されてはならない。それは権力を重んじ、歴史や伝統、文化を軽んじるものだ。安倍政権になって靖国神社にも行かない、拉致被害者も帰ってこない、憲法改正は意味不明な加憲論、やったのはTPPや安保法制だ。これで安倍総理が「保守派」と言える神経を疑う。安倍総理は野党と同レベルかそれ以下の愛国心しか持ち合わせていない人物である。心にあるのは己の保身だけだ。
人間は経済によって生かされ、何程かをなそうとする存在なのであって、経済に使役されるだけの存在ではないはずだ。土と太陽とともに生きた、古き良き世界観を取り戻すのだ。すべてはそこから始まる。

いま日本精神を語る意義について

日本精神を語るとき、その日本精神論を説教的訓話とするのではなく、その日本精神にしたがって、日本をいかに再建するのかを見据えたものにしなければならない。

国家は政治、経済、道徳、歴史、信仰、文化、思想、風俗等の結節点である。国家は政府とは異なる。日本精神を取り戻すということは、こうした国家を取り戻すということでもある。
維新とは日本的変革であるが、それは日本の民族共同体の中心である天皇を戴く変革である。天皇を戴くということは単に大義名分を手にするということではない。ある階級だけではなく日本人全体を救うという証左になるのである。
日本人のための日本、アジア人のためのアジア、世界人のための世界でなくてはならない。グローバル大資本に専制される世界を認めるわけにはいかない。
日本の大地、日本の森、日本の海、そうしたものがもたらす恵みで生きていく。そうした自然との繋がりが希薄化した。地産地消への転換が急務である。
日本の変革は日本人を救うという偏執にとどまってはならず、ひいてはアジア、世界をも目指すべきものである。
AIの発達は人をどんどん雇わなくて良い方向に追いやる。その果てに待っているのは、AIが働き、その上前をピンハネする一部富裕層と、AIと競争しなければならない多数の貧民に分断された社会である。こうした時代の登場は、人間が本来持っている共同体機能を大幅に減少させる。
そうした時代風潮への防波堤として、各国の伝統精神に立ち返ることは重要なのである。

処士横議、草莽崛起

先日『維新と興亜』を創刊した。

いただいた感想の中に、「処士横議」という言葉があった。もはや現代人には耳慣れない表現だが、いい言葉だと思った。
「処士横議」とは処士、志士が同志と語り合うことである。
志士とは国事に志を持つ人のことを指す。ここでいう国事とは政策論や政局論のことではない。より根元的な、社稷を愛し守り抜こうという意志に基づく国家論を指す。
在野の志士を草莽といい、処士という。草むらの陰でひっそりと暮らしつつ、国を憂い、天下のために立つ。こうしたカネも要らぬ、命も要らぬ志士こそ、時の権力者はもっとも恐れるのである。
こうした志士が、現代ではいかに少なくなったことか。志士が守るのは社稷であり、国の大本であるが、時の政権や政体ではない。こうしたことさえ現代人には見えなくなった。
民族の生死の基盤、そうしたものへの希求と葛藤が、現代人にもっとも欠けている。
草莽が守るべき社稷と農耕とは、切っても切れない関係にある。
例えば大嘗祭の祈願の主旨は順徳天皇の時代のものが残っており、国内の平安、五穀豊穣、人々の救済であった。
右翼左翼などというつまらぬ区分でなく、国の大本に思いを致す志士でありたいものだ。
垂加神道には、日本人の死後の世界を描いた側面があった。死後は無に帰すという儒教的合理主義でもなく、因果応報輪廻転生の仏教的世界観とも違う意義を打ち立てたのだ。日本人として生まれたからには朝廷を守護すべく生き、死んでは天照大神を中心とする八百万神の末席となる―。これこそが垂加神道の世界観である。垂加神道者は、この世界観を仏教や儒教と対比するなかで自覚的に唱えていった。こうした垂加神道の世界観を受け継ぎ発展させたのが平田国学であった。少なくとも闇斎の時代の垂加神道には、まだ儒教や陰陽五行説の要素が濃厚であった。篤胤神学にはそうした要素がそぎおとされ、洗練されている。
先祖の霊はわれわれの身のまわりにあって、われわれをいつも守ってくれている。篤胤国学の特徴は幽冥論だが、篤胤の幽冥論は垂加神道の影響なくして考えられない。
平田篤胤は本居宣長の没後の門人と称したが、国学を学ぶより前に垂加神道を学んでいた。あえて本居の門人と称したのは営業戦略、運動戦略的側面が秘められているように感じる。その機微を、篤胤より後の世代はあまり継承しなかっただろう。
篤胤の歳上の弟子佐藤信淵は、家学をもとに平田国学の世界観を加えて大成させた人物である。信淵の学問のなかには明らかに農政論と人々の救済の視点が多分に含まれている。
平田国学が目指した祭政一致の国体とは、天皇が神に五穀豊穣を祈ることで人々の安寧をもたらす世界観なのである、
先ほども述べたように篤胤以降の平田国学は(本居国学もそうだが)、主流派は師説の継承に重きをおき、現世をいかにせん、といった志を失っていった。
しかし篤胤の蒔いた種は、エートスのように人々に広まっていった。
木曽山脈の奥、中津の国学者島崎重寛(正樹)の挙げた祝詞には、世の最大の罪として「天皇に射向罪」「異邦に心帰る罪」「百姓を虐げる罪」が挙げられている。神に祈ることは、百姓の生活の安寧と収穫への感謝なのである。この島崎重寛(正樹)こそ、島崎藤村の父であり、『夜明け前』の主人公青山半蔵のモデルである。
篤胤の弟子の一人に生田万がいる。生田万は館林藩に生まれた。館林藩の藩学は崎門学である(ただし晩年に山崎闇斎を批判して去った佐藤直方の門流であり、生田万も藩学を評価していない)。藩学に飽きたらないものを覚えた。生田万は陽明学を学び、直方とは違う崎門派本流の浅見絅斎『靖献遺言』を愛読した。「武家政治を除く」ことも主張していたという。さらに江戸で平田国学を学び篤胤の私塾気吹舎で塾頭となる。生田万は幕政批判で悲憤慷慨するようになり、篤胤からたびたび注意を受けるようになった。生田万は篤胤のすすめ(厄介払い?)もあり帰藩する。そこで藩政意見書『岩むす苔』を提出する。内容は非常に農本的なものであった。生田万の意見は容れられず、藩から追放される。
後に藩から許され、帰藩の許可は出たが、家は弟が継いでおり、万の居場所はなかった。
万は平田一門のつてで柏崎を訪れ、そこで国学を講じて貧民に食料を分け与えたりしていた。天保八年に大塩平八郎の乱が起こると、万も柏崎でわずかな手勢とともに立ち上がった。多勢に無勢で失敗し、負傷し自刃した。
篤胤は厄介払いで生田万を追い出してはいるが、高く評価していたようで、万の著書の序文を書くなど、追い出したあとも関係を保っていた。篤胤の営業戦略的に反幕府的思想は避けなければならなかったが、心情では共感していたのかもしれない。篤胤は万の死に深く同情し、万の決起に尻込みした門弟には冷淡な態度を取った。
草莽崛起の時代はもうすぐそこまで迫っていた。
さて、翻って現代日本である。新自由主義がはびこり、何事もカネではかられる忌まわしき世である。
日本型経営で発展してきたのが戦後日本であった。だが、人間信頼と共同体の絆を取り戻すのは日本型雇用の回復では不充分だ。日本型雇用は所詮企業の専制と官僚の絶対優越あってのものに過ぎないからだ。そしてこの官僚主導の官治経済によって、農業軽視、文化祭祀軽視が行われてきたことを忘れるわけにはいかない。官治ではなく、自治の精神が重要なのだ。
処士横議し、草莽崛起する世は果たして現代に実現できるだろうか。

バークを学ぶ前に

明治時代の薩長藩閥有司専制政治も誉められたものではなかったが、大正時代のデモクラシーもあまり望ましいものではなかった。政党政治は容易に党利党略の政治となり、権力の腐敗は改善しなかった。大正時代から昭和初期にかけて、政党政治とはいいながら依然元老が暗躍し、西園寺詣ではやむことがなかった。国を憂うる誠なしとも言うべき情勢であった。

一方でロシア革命以降共産主義が過激化し、ソ連によるソ連的な革命煽動が激しくなった。それまでは左翼も天皇のもとで日本的抜本改革を目指すものであったが、そうした思考はむしろ右派の猶存社系のものとなった。
その他の右派は反共的となり、政権への批判力を失っていった。一方で反共化した右派も、西洋文明の模倣に明け暮れた近代日本のあり方自体に根底的な疑義を持ち、「天皇」「やまとごころ」に日本文明のあるべき姿を昇華させるところがあった。こうした考え方をとった中心人物が三井甲之であり蓑田胸喜であった。その意味でこの時代の反共右派は戦後や現代の低俗な「保守」言論人などよりよほど上等であったと言えよう。なにせ思想的なことはバークだのオークショットだのと横書きを縦書きにするだけで恥じないのだから。いくら「保守的」とされている論客だろうが、歴史的経緯を抜きにして外国の思想を日本に導入できると無邪気に信じていること自体が左翼の発想なのである。
いずれにしても明治時代においては右翼と左翼は同根であり、それが右派と左派に引き剥がされてしまったことこそ不幸な歴史であった。
現代は冷戦が終わり、グローバリズム対ナショナリズムの時代に移行している。グローバリズムは資本主義の精神を媒介に効率化の名のもとに文化の違いを破壊しようとする。
だがそうした近代主義は限界がある。「より早く、より遠く、より効率的に」というグローバリズムはフロンティアがなければ成立しない。だがそのフロンティアは地上から消えつつある。そのときグローバリズムは生き残ることができるのか。そして、グローバリズムに無批判でいたとき、果たして自然と信仰が同居する日本人の世界観は残せるのか。エゴイズムだけでは市場は成立しても社会は成立し得ない。市場論理を超えた倫理が必要とされるゆえんである。
戦前の思想家にはそれがあった。バークなど学ぶ暇があるなら、まずは自国の歴史と思想を学ぶことからはじめてはいかがか。

平田篤胤神学と農業、日本文化

インターナショナル、グローバルなものにろくなものはない。故郷を失い、断片化したものからは真に深いものは生まれてこない。「技術革新」と「効率化」は文化や人間性を緩やかに破壊する。そして一度破壊されてしまえばそれはなかなか元に戻らない。

日本人としての中心を己に構築しなければ、異国の文明にたぶらかされることになる。中心さえ確立していれば異国の文明はむしろ自国文化を進歩させる糧にもなりうる。
平田篤胤がキリスト教からインスピレーションを得て自身の教学に活用していたことは有名である。それまでの国学と違い、死後の世界、そして人間存在を語ることを目指していた篤胤の国学にとってキリスト教の存在は大いに刺激になったのであろう。
篤胤は日本神話に「青人草」を見いだした。人民もまた神々から生まれたものだという。この篤胤神学は決してご都合主義的に人民を見だし語ったのではないことは、篤胤門下から生田万、佐藤信淵、宮負定雄ら民政を重んじた人々が続出したことからも伺える。篤胤は生田万の過激に走る性質をいさめつつも、いざ生田万が決起を起こすとその志に共感し、生田万を崇高だと称えている。
篤胤は宣長の死後の門人と称したが、宣長以前の国学とは一線を画しているようにわたしには思える。宣長以前の国学は幕府関係者などにパトロンを抱えたエスタブリッシュのための学問だ。篤胤は国学よりも前に八歳から崎門学を学んだ人物で、篤胤の国学を支えたのは地方の神主であった。国学は篤胤を経てはじめて土の匂いのする学問となった。
日本は泥の文化の国である。豊葦原瑞穂国という名前からもわかるとおり、葦や稲が茂る国であった。高地など稲作にむかない土地では、同じイネ科の粟などを育てた。社倉義倉で米や粟を備蓄したのは、もちろん災害に備えた非常食といった実用面もあるが、それだけでなくさまざまな土地の神々の恵みをお供えし、人々に放出するという文化共同性の証でもあった。
欧米には雑草という概念が薄い。日本の高温多湿な風土は、雑草生い茂る風土でもある。そういう意味では雑草は農業の足枷でしかないはずだが、日本では「雑草文化」「雑草魂」などと良い意味で使われる。篤胤神学の青人草概念と対比しても興味深い。日本では、神も人も自然の一員なのである。それは日本人が長年の歴史のなかで培った文化であるが、自覚的に論じたのは篤胤神学が最初であろう。
近代文明は土をコンクリートやアスファルトで覆い隠し、日本人が培った文化に基づく生活を贅沢なものに変えてしまった。わたし自身近代的生活にすっかり染まってしまっているが、もはやよほどの金持ちでもなければ古き良き伝統に基づく生活を送ることはできまい。それこそが近代の問題点である。
大嘗宮が金銭的問題から茅葺きではなく板葺きになってしまったが、われわれが古来の生活を捨ててしまっているからこそ、茅葺き職人が少なくなり、高くつくようになってしまった側面を忘れてはならない。
日本文化は、あるいは皇室も神道も五穀を抜きにして語ることはできない。農業を大規模化、効率化することしか考えていない現代農業政策で果たして日本文化は維持できるのか。われわれに問われているのはこうした問題なのである。

土民思想とはなにか

石川三四郎『農本主義と土民思想』には次のような一節がある。

土民は土の子だ。併しそれは必ずしも農民ではない。鍛冶屋も土民なら、大工も左官も土民だ。地球を耕し――単に農に非ず――天地の大芸術に参加する労働者はみな土民だ。土民とは土着の民衆といふことだ。鍬を持つ農民でも、政治的野心を持つたり、他人を利用して自己の利慾や虚栄心を満足するものは土民ではない。土民の最大の理想は所謂立身出世的成功ではなくて、自分と同胞との自由である。平等の自由である。

石川三四郎は農本主義と土民思想を対比的に捉えている。それ自体は石川の思想を考える上では重要なのだろうが、ここでは措く。
農本主義は農家の圧力団体的思想ではなく、むしろ農を中心とした自然と共生する生活を通して、競争と利欲にまみれた世界からの脱却を目指したものだ。その意味では確かに「農本主義」というより「土民思想」というほうが分かりやすい。
さらに、風土論も加えられたらいうことない。国固有の風土、文化、土着に基づく思想こそ必要だ。

書評  荒谷卓『サムライ精神を復活せよ!』

いつからだろう。「グローバルスタンダードに従え」と当たり前のように叫ばれるようになったのは。

いつからだろう。市場が要求するルールが、まるで絶対的規範であるかのように大手を振るうようになったのは。
現代社会はとにかく経済成長しなくてはならないと、何か脅迫観念のようなものに取りつかれている。
競争原理に支配された世ではふるさともすべて都市に変えられた。そして、私もそうだが、本当の田舎をしらない子どもが量産された。
だが、アイデンティティのない人間は存在しない。グローバリズムはアイデンティティと齟齬をきたし、世界中で軋轢が表面化しはじめた。
「現実的」な政策の次元ではなく、もっと根元的な価値観から改めていかねばならないのではないか。