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諸葛孔明の生きざまと日本人の精神

昭和四十五年二月、漢学者池田篤紀は延原大川を訪ねた。延原は黒住教の紹介者としても知られ、民族派とも親好を結んだ人物である。延原は池田を歓迎し酒席を共にすることとなった。そこで延原は土井晩翠の「秋風五丈原」を朗々と吟じたのである。「明治の生んだ最高の詩はこれである」。
孔明の、劉備玄徳の君恩に深く感じ入り、あくまで正統を重んじ忠義を尽くさんとしながら戦場で病に倒れた孔明の姿勢に感じ入ったのである。

諸葛孔明

池田はこれに深く感じ入り、「必ず孔明の評伝を書く」と約束した。

国の正統は領土人民の大小といった現実の力関係にあるのではない。あくまで漢朝の正統を重んじ、民族の文化伝統を正しく伝えている態度にこそ重んずべき価値はあるのだ。結社を禁じられつつもあえて桃園の誓いを果たし、孔明を迎え、力で支配する曹操に抗したところに劉備の真骨頂があった。
こうした蜀漢の姿勢は多くの日本人を感激せしめた。浅見絅斎は『靖献遺言』に諸葛亮を取り上げているし、平田篤胤は「篤胤は孔子以後唯孔明ありと思はるることでござる」(西籍概論)と述べた。
孔明自身の生き方が、一編の詩となり日本人を鼓舞したのである。
こうした生き方をできた人物は、他に大楠公を数えるばかりであろう。

思想という音叉

實行とならぬ思想は無價値だと云ふ言葉は屢々耳にするところである。併しこの言葉の意味は隨分粗雜で、その眞意を捕捉し難い。若し實行とは主觀が客觀(人及び物)に直接に働き掛ける事のみを意味するならば、或る種類の思想は本來實行となるまじき約束を持つてゐる。さうして實行とならずともその思想は決して無價値ではない。若し又實行とは主觀内の作用が他の主觀作用を――一つの思想感情が他の思想感情を――喚起する事をも意味するならば、凡ての眞實なる思想は必然的に實行となる。世界の何處にも實行とならぬ思想はあり得ない。
(三太郎の日記第二)

思想は音叉のようなもので、人から人へと共鳴していくものだ。仮に具体的な行動を要求するものであったなら、それはアジテーションであって思想ではないだろう。

「カネさえあれば」とついつい思ってしまうが、カネは道具であって目的ではない。すなわちカネをどう使うかが重要なのである。
ここ二、三十年で時代精神を問う「文学」がなくなり、ただ娯楽として消費するためだけの「小説」に置き換えられていった。そこでは正面から人生観や歴史観、社会への問いといったものは扱われない。
だが本当は国民社会なくして人生はなく、国土や自然、文化なくして国民社会はあり得ないのではないか。すなわち文学が社会への問いを失ったのは、社会が解体され市場に置き換えられたのと対応しているのである。農林水産業は人類がいる限り続くものであろうが、文化や信仰と一体になった「農」は、もはや現代社会で消えかかっている。土と血によって紡がれる共同文化は、「農」なくして存在しえないはずだ。
そうした近代主義への対抗として、自らが培った文化、信仰、伝統へと回帰しようという衝動こそ、アジア主義である。アジア主義は功利主義と唯物主義の双方の流れに抵抗した。
アジア主義の思想はいまも響いている。

忠と孝、そして東洋精神

忠と孝はともに儒教において重んじられた概念である。忠は主君に、孝は親につかえる概念であり、目上の者への隷従を強いるものだと批判されたこともあった。だが、本来の儒教における忠孝は、そのようなものではない。父母を愛するように、君主への敬意をもつ。君主も我が子に対するような慈愛をもって国民に対する。それによって世は治まるという考えである。

儒書の孝経は、儒教の基本的な本の一つであるが、諫言の理論的根拠となっている。臣下は君主が誤っているならば、必ず諫言をしなくてはならないのである。また、君主は己の地位に甘んじず、徳を磨くことを忘れてはならないとされた。
天皇の権威を笠に着てものをいうような態度は、儒教においても望ましい態度ではないのである。
また、孝経は古き良き東アジアに広がっていた死生観、宗教観と密接に関わっている。それが宗廟と社稷である。宗廟は君主が天地を祀ることであり、社稷は諸侯が土地や穀物の神々を祀ることである。どちらも食糧や祖先への感謝をあらわすものであり、重要視された。
祭祀にはそれにふさわしい時や場所がある。それでこそ神に誠を尽くせるのである。
「経世済民」とは、まさにこの君臣が相愛の感情で結ばれ、祭祀を重んじ、世が平穏に治まる状態を指したが、近代以降はエコノミーの訳語として「経済」が使われ、民どうしが相争い、金銭第一で祭祀はおろか社会も文化も考慮せず、水も自然も人も土地も、すべてのものに値札がつけられ売られることとなった。特にこの霊的側面が忘れられた。会社は公器ではなく、従業員、取引先、顧客を搾取し肥太るばかりの組織となった。
農を重んじ民生に配慮するのが天皇統治の基本ではなかったか。古代天皇の詔勅は忘れられたのか。
右派は政府のご用聞きに堕し、左派は国際共産党のために奉仕する存在に成り果てた。現在の日本はこれほどひどい状態にも関わらず、右派と左派は分断されたままである。足尾鉱毒事件に右派も左派も憤りともに運動を進めたり(谷干城、三宅雪嶺、陸羯南、幸徳秋水らが言論で訴え、田中正造の碑文は頭山満が書いた)、老荘会でともに意見交換をしたりすることはなくなった。亡国の兆しと言ってよかろう。
天地の義を明らかにして王道楽土の建設に貢献するのは、東洋思想の真髄である。東洋精神を忘れた現代社会のていたらくは、かえって古き良き東洋精神の素晴らしさを再確認する良い機会ではないか。

「アジア」と農・自然・信仰

「アジア」とは単に地理的な名称ではない。アジアには草花のにおいがする。土のにおいがする。土に対する愛情は人間の本能である。われわれは日本人の血をうけ日本人として生まれたがゆえに、日本の国土を愛する。そしてそこから育まれた文化や文物を愛する。しかし近代化はそうした愛着を捨て去る方向へと、人々を誘おうとする。都市化、資本主義化、機械化、電子化すればこそ、そこから切り捨てられていった文化に思いを引かれることになる。

かつて戦前のアジア主義者は、日本・シナ・インドのアジア世界に共通する「基盤」を追い求め、研究を進めていた。それは自治、村治、スワラージという名前で呼ばれたものであった。新嘗祭のような収穫に感謝する祭りは、シナ、朝鮮、台湾、東南アジアに似通った形で存在している。実はそうした土着文化的基盤は、ロシアやヨーロッパ世界にさえ存在した、社会的連帯のようなものであった。このとき、アジア主義はアジア地域に限定されるものではなく、より人間の根幹に還っていこうという衝動となった。そうした思想が目指した共同社会は、アニミズム的で人と人との和を大切にし、助け合いや寛容といった美徳を持ち、自然とともに生きる敬虔さを重んじるものとなった。
アジアの共通基盤を考えてみよう。例えば「東洋医学」というものがある。近代医学が、病巣を手術で取り去ったり、ウイルスを殺したりするのに対して、東洋医学は体が本来持つ免疫作用を活性化させるものである。そういったものだから確たる定説はなく、具体的な治療は人によってさまざまな見解を持つことになったが、いずれにしても人間が本来持っている力への信頼が、そこにはある。私は医学に詳しくないのでこれがどれ程メジャーな意見かわからないが、東洋医学においては風邪すら忌むべきものと見ず、体が悪い状態から自然に立ち直ろうとするときに現れる一形態を「風邪」と見た。したがって風邪が治ったあとはむしろ風邪を引く前より体調は良くなっているのだと考えられた。これははるか昔の話ではない。今でも薬の大部分は漢方だというではないか。漢方は実は「漢」ではなく日本式だという意見もある。だがそれを「漢」に託した心情を思うべきではないか。
戦前に目を移せば、こうした東洋医学的な、人体や人間本来の力への賛美をやや神秘的に表現する人物がいた。三井甲之は「手のひら療治」といい、医者が手のひらをかざすことで患者の悪いところを治すという療法に傾倒し広めた。西川光二郎は断食療法や「土浴」することで健康になれると信じた。いささか怪しいカルト的なにおいがするが、いずれにせよ人間や自然が本来持っているはずの力に注目するなかで、こうした治療に傾倒することになったものと思われる。
そこまで突き抜けずとも、ひとりひとりが先祖から「いのち」をいただき、その神霊を子孫に伝えていくことは、神道でも儒教でも仏教でも言葉は違えど共通した理念といえよう。
人間として当然の道をつくすこととは何か。それは経済発展だけではないのではないか。他の生き方はないのか。家族は、社会は、国は?そうした問題意識が人をとらえた時代があったのである。戦前とは、ある意味真面目な時代であった。影山正治も葦津珍彦も赤尾敏も若い頃社会主義への強い関心を抱き、その後日本主義に還っている。義侠心を持つ青年のたどった経路である。赤尾は「自分たちは天に選ばれた公務員だ」と述べたそうだが、そういった自意識が彼らの行動を支えていた。
右翼も左翼も原始的な共同体に戻る想いが濃厚に存在している。にもかかわらず運動の過程でアメリカやソ連といった大国の意向に振り回されたり、活動資金確保のため営利に走ったり、カネを持つ機関の太鼓持ちに堕したり、大いに迷走することとなった。そのすきに近代化は着々と進んでいった。
戦前共産主義から日本主義まで幅広く思想が変転した人物に赤松克麿がいる。赤松が最後にたどり着いたのは「東洋」であった。そこでは近代文明の旗手ソ連とアメリカを同時に批判し、近代文明の病理を追及した。アメリカ文明とソ連文明は兄弟であり、どちらが勝っても人類社会に希望は現れない。資本主義も共産主義も、個人と個人、階級と階級が争う憎悪と闘争にみちた社会を作ろうとする。そこでは国家は調和されたひとつの協同体とならない。魂の救いは東洋思想にあると論じた。日本は明治維新そして敗戦で西洋文明を取り入れざるを得なくなり、いままで国民が持っていた内面的な感性が傷つけられた。人間社会の問題は、資本を私有から公有に変えれば済む問題ではない。人間悪は心のうちに存在する。金銭欲と権力欲から解放されない限り、真の人間性を獲得することはできない。
戦後日本人は東洋に生まれたにも関わらず東洋のことを軽視しすぎる。東洋思想はわれわれの思想的背景の根幹である。
いま人類社会は風邪を引いたも同然のひどい状況に立っている。しかしこれは人類が悪を克服する一過程であると捉えれば、希望がないわけではない。
してみればいまは人類が引いた近代という風邪を重篤にしてしまうか、本来の治癒力を発揮し近代を克服するか、まさに分水嶺に立っているといえよう。

月刊日本十二月号に拙稿が掲載されました

『月刊日本』十二月号に拙稿「ふるさとを復活させよう②観光立国とインバウンド依存経済の限界」が掲載されました。ご覧いただければ幸いです。

今回は観光地化と、爆買いなどの訪日消費需要に依存する現代日本の状況に警鐘を鳴らしたつもりです。

余談ながら、「観光」とはれっきとした儒教用語です。易経の「観国之光利用賓于王」(国の光を観る。もって王に賓たるによろし)から来ており、「他の地域を見分し、広く人材を探し、国を輝かせる人材に出合いもてなす」という意味があるようです(易経は解釈が難しく、諸説ある)。いずれにしても観光の目的は素晴らしい人物に出会うもしくは他国を学び自分が素晴らしい人物になることが目的にあります。
いまのレジャー志向とはまったく別物なのです。

その地域の人と触れ合い、その地域の素晴らしいところを学ぶ「観光」が一般的となることを願います。

竹内好の怒り

 60年安保では岸内閣の日米安全保障条約改定に反対する大規模なデモが発生している。その過程で、羽田空港で、アイゼンハワー大統領訪日の日程を協議するため来日したジェイムズ・ハガティー大統領報道官が空港周辺に詰め掛けたデモ隊に迎えの車を包囲されて動けなくなり、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救出されるという事件が発生した。ハガティーは「この人らは日本に対する忠誠心さえもない人たちである」とコメントした。
 この発言に怒ったのがいわゆる左翼的アジア主義者の竹内好である。竹内は、「本心は日本を独立国と思っていないのではないか。彼が『日本に対する忠誠心』というとき、その本意は『アメリカに対する忠誠心』と重なっているのではないか」と述べた。
 当時の英米世論は概してデモ隊に批判的であった。イギリスの新聞は、「東京の狂信的な若者ども」は「かつて真珠湾をたたき、シンガポールで同胞をいためた狂信者の子供である」と評した。アメリカでは「リメンバー・パールハーバー」、「日本人は、戦前とちっとも変っていない」と言ったという。
 これら英米世論やハガティーの人種差別的な反応には驚かされる。なるほど現代の目から見ればデモ隊がインターナショナルを歌っていたり、ソ連から金が出ていたことなど、その敵意はわからないでもない部分もある。だが、竹内が喝破したように、英米には日本人を自分たちの言うことを聞いて当然という意識がありありと見える。竹内が怒るのも当然だし、そこにはインターナショナル的な左翼思想に収まらない、いわば愛国的な側面も感じ取ることが出来よう。

参考:小熊英二『民主と愛国』540頁

バングラデシュのテロとアジア主義、維新

 バングラデシュで武装集団が外国人客らを人質に立てこもり、日本人も犠牲になる事件が発生した。実行犯は現地ではエリート層に属する青年であるとみられ、イスラム国との関連が取りざたされている。許しがたい事件ではある。
 しかし同時にわれわれの側にも見直すべきところはなかったのか。

 小泉内閣がイラク戦争に賛同し、戦争協力に踏み切ってからというもの、日本政府の態度は常にアメリカに寄り添うものであった。この間にわが国の総理大臣は何人も変わっているが、皆ほぼ一様に「テロとの戦い」等、アメリカ政府が述べる「戦争の大義」を繰り返したに過ぎなかった。そこには苦悩も感じられず、自らの言葉すらも失ってしまった姿がある。
 アメリカがイラク戦争でフセイン政権を倒したころから、イスラム世界には無秩序が一層広がり始めた。当時、ブッシュ政権は「フセイン政権を倒せばイスラム世界に民主化がドミノのように広がり始める」と薄甘い楽観論を述べていたが、ドミノのように広がったのは「民主化」ではなく「無秩序」や「憎しみ」の方であった。フセインを倒し、ビンラディンを倒し、カダフィを倒したが、中東から無秩序と憎しみの連鎖が断たれることはなかった。アルカイダの次はISILと、イスラム勢力は過激化する一方ではないか。アメリカは泥沼化した戦争に入り込んでしまったのである。グローバル資本に搾取された欧米のイスラム系移民の憎しみと、戦争により平穏な生活を失った中東・アフリカの憎しみが結びついて起きたのが一連のテロ行為である。
 日本はアメリカとともにイスラム世界に無秩序や憎しみをもたらした張本人であるということを忘れてはならない。しかも、さしたる使命感もなくただ保身のためだけにそのような選択をしたということを、胸に刻み付けるべきだ。

 しかも日本をはじめとした国際資本は、現地民を低賃金で使い捨てる縫製工場を乱立させ、いわゆる「ファストファッション」はバングラデシュをはじめとした低賃金労働によって支えられている。現地民は一日十二時間以上働き、休みも月に一、二回しかないと言う。また、工場からの汚染水や農薬による深刻な健康被害、川や海などの汚染による漁業被害が現地では起こっているという。こうした代償を払いながらも、肥え太るのは巨大資本だけであり、現地民を搾取している巨大資本には、もちろんわが国の資本も含まれている。

 そうした対米追従の外交とグローバル資本による搾取が、テロの直接的原因ではないだろうが、遠因となっていることは否定できないだろう。

 歴史を近く見たときのアメリカニズム、長く見たときの西洋近代の価値観、そういったものを根源的に見直さなくてはならない。各国がそれぞれ培った伝統文化に回帰することが、それへの強力なアンチテーゼになるとわたしは考えている。そしてそれを主張した人達こそ、戦前のアジア主義者たちであった。

 アジア主義は確かに列強の植民地政策に対する反発と言う側面もあった。しかし彼らはそこからさらに一歩哲学的に踏み込んで、西洋近代の価値観の根本的な見直しにまで言及していた。『大亜細亜』の創刊の辞でも、「メッカ巡礼を二度敢行した興亜論者田中逸平は、「大亜細亜」の「大」とは領土の大きさでなく、道の尊大さを以て言うとし、大亜細亜主義の主眼は、単なる亜細亜諸国の政治的外交的軍事的連帯ではなく、大道を求め、亜細亜諸民族が培った古道(伝統的思想)の覚醒にあると喝破した。大道への自覚と研鑽、伝統の回復こそが大亜細亜の志なのである。國體の理想に基づき国内維新を達成し、亜細亜と道義を共有していくことが、我らが目指す道なのではなかろうか。それが「八紘為宇の使命」にほかならない。」と謳われている。

 わたしの個人的見解だが、例えばかつて民主党政権時に持ち上がったような「東アジア共同体」構想のようにアジア各国との単純な政治経済的連帯、EUの東アジア版を作るような構想ではダメで、そこに「国際資本の規制、撲滅(アジア域内であっても)」と「各国の伝統への回帰」がなければならない。そしてそれを実現させるためにはあらゆる政権を打倒しなければならないぐらいの困難な道が待っていることくらいは自覚しているつもりである。
 そのためにまず大アジア主義発祥の地日本で、維新が為されなければならない。維新とは単に政府転覆を意味するのではなく、しつこく述べるように、「国際資本の規制、撲滅」と「伝統への回帰」への国民の自覚と覚醒が目指されなくてはならないのである。単に政策の問題ではなく、「自覚と覚醒」が必要だというところが重要な要素なのだ。

大アジア研究会発行『大亜細亜』創刊

 わたしも参加している「大アジア研究会」の機関紙『大亜細亜』が創刊されました(リンク先ご参照)。

 わたしは「陸羯南のアジア認識―『国際論』を中心として」と、「時論 価値観外交の世界観から興亜の使命へ」の2本を書かせていただきました。

 ご参照いただけたら幸いです。

大亜細亜創刊号

左の画像からも『大亜細亜』の閲覧が可能です。是非ご覧ください。

柳宗悦のアジア主義

 柳宗悦は民芸復興運動や朝鮮美術の再評価などで知られているが、一般社会におけるその思想に対する理解は表面的なものにとどまっており、深いものになっていない。もちろんわたしも未熟な理解ではあるが、整理する観点から柳の政治思想を書きとめておきたいと思う。

 柳は明治二十二年に海軍少将柳楢悦の三男として生まれた。旧制学習院高等科を経て東京帝國大学卒業。専攻はウィリアム・ブレイクやウォルト・ホイットマン等の英語圏の宗教哲学であった。柳は西洋宗教思想に対する論文が多かったが、ある時東洋思想に開眼し、東洋文化に対する論考を発表し始めた。
 旧制学習院高等科から東京帝國大学在学中に、同人雑誌グループ白樺派に参加。生活に即した民芸品に注目して「用の美」を唱え、民藝運動を起こした。

 東洋文化について論じはじめたのとほぼ同時期に、柳は朝鮮文化への関心を示すようになった。朝鮮民画など朝鮮半島の美術文化にも深い理解を寄せ、京城において道路拡張のため李氏朝鮮時代の旧王宮である景福宮光化門が取り壊されそうになると、これに反対抗議した。
 その主張は文化に関する所にとどまらず、大正8年に朝鮮半島で勃発した三・一独立運動に対する朝鮮総督府の弾圧に対し、「反抗する彼ら(朝鮮人)よりも一層愚かなのは、圧迫する我々(日本人)である」と批判した。

 あまり知られていないことではあるが、柳が関心を示したのは朝鮮文化だけではなかった。柳は世界中のありとあらゆる伝統的民芸品、工芸品に関心を持ち、その保存を訴えた。柳は、民芸や工芸の中に伝統が生活に息づいていた様を見たのである。「工藝の美は、傳統の美である。傳統に守られずして民衆に工藝の方向があり得たらうか。そこに見られる凡ての美は堆積せられた傳統の、驚くべき業だと云はねばならぬ。試みに一つの蟲を想へよ、その背後に、打ち續く傳統がなかつたら、あの驚嘆すべき本能があり得たらうか。其存在を支へるものは一つに傳統である。人には自由があると云ひ張るであらうか。だが私達には傳統を破壊する自由が與へられてゐるのではなく、傳統を活かす自由のみが許されてゐるのである。自由を反抗と解するのは淺な經驗に過ぎない。それが拘束に終らなかつた場合があらうか。個性よりも傳統が更に自由な奇蹟を示すのである。私達は自己より更に偉大なもののある事を信じていい。そうしてかかるものへの歸依に、始めて(ママ)眞の自己を見出す事を悟らねばならぬ。工藝の美はまざまざと此事を教へてくれる」(柳宗悦『民藝大鑑 第一巻』13頁。原文踊り字使用)。
 柳は民芸品や工芸品、そして晩年に唱えた仏教的信仰を通して近代が失ったゲマインシャフト的共同性や、神聖なるものへの敬虔な感情を取り戻そうと論じていた。

 柳宗悦の思想には、アジア的な多元的価値観を維持しようとする願いが込められている。多元的なものは多元的なままで一元的であるという発想が非常に強い。各自は各自の文化、歴史、伝統を維持していくことで世界は発展するという価値観を強く抱いていた。それは明治国粋主義と通ずるものである。それを理解しなければ柳の朝鮮への共感は理解できない。

 ゲマインシャフト的社会と信仰とは密接不可分なものである。柳は「信仰の世界を只夢見る様な想像の世界だと思ふであらうか、否、信仰の世界よりも、より具像な世界を吾々は持つ事が出来ぬ」(柳宗悦「存在の宗教的意味」『柳宗悦全集』三巻9頁)という。信仰は、死者との対話である。死者が甦り、再び現世に影響を与えることを信じない者は、伝統を信じることができない。死者は、その残した事績や言葉に触れることで、何度でも甦るのである。祖国の運命を悠久のものにする力が、伝統や信仰にはある。美とは、この伝統や信仰の結晶と言ってよい。そこには、武力や金力に負けぬ力がある。

 「伝統は一人立ちができないものを助けてくれる。それは大きな安全な船にも等しい。そのお蔭で小さな人間も大きな海原を乗り切ることが出来る。伝統は個人の脆さを救ってくれる。実にこの世の多くの美しいものが、美しくなる力なくして成ったことを想い起こさねばならない」(「美の法門」『柳宗悦全集』十八巻19頁)。ここまでくると伝統は「他力」に似てくる。自力救済を重んじる現代社会とは異質な発想であるが、そこに美を認めるのである。
 個人の力などごく儚いものである。卑小な個が人生の荒波を超える際に、伝統は大きな助けとなる。伝統は古き良き生命の継承であって、現状維持でも過去の繰り返しでもない。古き良き生命が、自らの人生を支えてくれていることへの自覚である。柳は、「一切の偉大なる芸術は人生を離れて存在しない」と述べたが(「宗教家としてのロダン」『柳宗悦全集』一巻481頁)、それは芸術に限ったことではない。偉大なる事業は人生を離れて存在しない。即ち、伝統や信仰を離れて存在しないということである。人生は絶えず人間性の表現を追い求めている。敬虔な信仰を抜きにして、精神の深みを悟ることはできない。

 柳は信仰や美に、乱れた世を清め美しくする力があると信じた。争いからは何も生まれない。人間が本来持っている情愛によって世を美しくできる。情愛は誰にも奪えないと考えた。
 伝統は自らの意志で選ぶことのできない、不可避の選択である。不可避の選択とは先人からの声にいやおうなく拘束されるということだ。伝統は人間の感性に染みついている。卑小な欲望でなく、感性に委ねたとき、それは先人の声に身をゆだねることである。

 柳の信仰や伝統文化への敬虔な態度をわれわれは今一度顧みる必要があるのではないか。

テロとホームグロウン

 今、東洋・西洋をおおう世界史的動揺は、イスラム過激派がもたらしたものである。彼らは各地でテロ事件を起こし、世を騒がせている。しかも最近では、テロを起こす張本人はイスラム過激派の本拠地である中東世界から来たのではない。ホームグロウンと呼ばれる、移民の子孫がテロを起こしているのである。彼らを単純な過激派とみなすのは物事の表層しか見ない態度である。彼ら移民の子孫をイスラム過激思想に結びつけるものへの考察が必要だろう。

わたしはイスラム過激派に賛同する者ではない。彼らは取り締まられるよりないだろう。だが一方で「テロとの戦い」だと無条件にイスラム過激派を悪とみなす人間にも違和感を感じる。イスラム過激派が処罰されることを認めるためには、以下の三条件を認めることが不可欠ではないだろうか。

 一つ目は欧州の近代化以来の帝国主義による植民地争いが問題の出発点であることを認めることである。中東からアフリカにかけて、欧州の植民地争いにより歴史や文化と無関係に国境線が引かれることになった。それに伴う紛争の歴史はこの地域に大きな混迷をもたらしたことを認めなくてはならない。それが中東から北アフリカに至るまでを紛争の火薬庫とさせているのである。
 二つ目はグローバリズム、資本主義がホームグロウンによるテロをもたらした根本原因であることを認めることである。移民の子孫が自国社会に適応できず疎外され、低賃金労働につかざるを得なくなっている。移民一世では本国よりは生活状態が良くなることや、本国への仕送りの使命感から労働に甘んじることができるが、二世以降はそうではない。言葉もセミリンガル化し高度な事象を理解することは難しく、将来の展望もない彼らが過激思想に染まることも不思議とすべきではないのである。もちろん外国人が即犯罪者であるかのような偏見は慎むべきなのであろうが、それは問題の根本原因をおおい隠すことになってはならない。
 三つめは、わが国に限って言えば、戦後の対米従属体質、特にイラク戦争以後の対米隷属的外交により、わが国も世界に混迷をもたらした張本人となってしまったということを認め、深刻な反省をすることである。アメリカの外交に唯々諾々と従ってきたことで、わが国はフセイン、アルカイダ、ISISと過激化する一方の中東情勢に火をつけた当事者となったのだ。

 資本主義の発達はグローバリズムをもたらしたが、このグローバリズムは人々を故郷喪失の憂き目にあわせた。それは移民により故郷から引きはがされた人々を指すのはもちろん、資本主義的開発で故郷が様変わりし、すっかり民族の面影を破壊されてしまったことをも示す。祖国の共同体が機能しなくなってきたことが、資本主義即ちグローバリズムがもたらした負の側面である。ホームグロウンの問題はその極端な事例として注目されるべきであろう。

 移民も定着してしまえば、低賃金労働を生まれながらに押し付けられなければならない理由を持たない。その不満にテロ組織が忍び寄り、心の隙間を利用するのだ。大事なのはその「心の隙間」をもたらしている資本主義、グローバリズムに対する疑念を持つことである。

 逆に考えれば移民の心の隙間に漬け込む過激派がもしいるならば、ことはイスラム過激派に限定されないということである。例えば今後、日本の支那人移民二世、三世が支那本国の反日思想に共鳴し、ホームグロウンテロを起したとしたら…。たびたび言うが、外国人への単純な偏見は慎むべきである。だが、同時に根本原因が解決されないのならばそういったことも起こる可能性があるのではないか。もちろんこれはわたしの妄想であることを願ってはいるが…。

 根本原因に目を向けることなく、目先の武力によりテロ組織を壊滅させるだけでは何の解決にもならない。「テロとの戦い」を叫ぶ前に、「なぜ彼らがテロに走ったか」、思いをはせるべきではないだろうか。