柳宗悦は民芸復興運動や朝鮮美術の再評価などで知られているが、一般社会におけるその思想に対する理解は表面的なものにとどまっており、深いものになっていない。もちろんわたしも未熟な理解ではあるが、整理する観点から柳の政治思想を書きとめておきたいと思う。
柳は明治二十二年に海軍少将柳楢悦の三男として生まれた。旧制学習院高等科を経て東京帝國大学卒業。専攻はウィリアム・ブレイクやウォルト・ホイットマン等の英語圏の宗教哲学であった。柳は西洋宗教思想に対する論文が多かったが、ある時東洋思想に開眼し、東洋文化に対する論考を発表し始めた。
旧制学習院高等科から東京帝國大学在学中に、同人雑誌グループ白樺派に参加。生活に即した民芸品に注目して「用の美」を唱え、民藝運動を起こした。
東洋文化について論じはじめたのとほぼ同時期に、柳は朝鮮文化への関心を示すようになった。朝鮮民画など朝鮮半島の美術文化にも深い理解を寄せ、京城において道路拡張のため李氏朝鮮時代の旧王宮である景福宮光化門が取り壊されそうになると、これに反対抗議した。
その主張は文化に関する所にとどまらず、大正8年に朝鮮半島で勃発した三・一独立運動に対する朝鮮総督府の弾圧に対し、「反抗する彼ら(朝鮮人)よりも一層愚かなのは、圧迫する我々(日本人)である」と批判した。
あまり知られていないことではあるが、柳が関心を示したのは朝鮮文化だけではなかった。柳は世界中のありとあらゆる伝統的民芸品、工芸品に関心を持ち、その保存を訴えた。柳は、民芸や工芸の中に伝統が生活に息づいていた様を見たのである。「工藝の美は、傳統の美である。傳統に守られずして民衆に工藝の方向があり得たらうか。そこに見られる凡ての美は堆積せられた傳統の、驚くべき業だと云はねばならぬ。試みに一つの蟲を想へよ、その背後に、打ち續く傳統がなかつたら、あの驚嘆すべき本能があり得たらうか。其存在を支へるものは一つに傳統である。人には自由があると云ひ張るであらうか。だが私達には傳統を破壊する自由が與へられてゐるのではなく、傳統を活かす自由のみが許されてゐるのである。自由を反抗と解するのは淺な經驗に過ぎない。それが拘束に終らなかつた場合があらうか。個性よりも傳統が更に自由な奇蹟を示すのである。私達は自己より更に偉大なもののある事を信じていい。そうしてかかるものへの歸依に、始めて(ママ)眞の自己を見出す事を悟らねばならぬ。工藝の美はまざまざと此事を教へてくれる」(柳宗悦『民藝大鑑 第一巻』13頁。原文踊り字使用)。
柳は民芸品や工芸品、そして晩年に唱えた仏教的信仰を通して近代が失ったゲマインシャフト的共同性や、神聖なるものへの敬虔な感情を取り戻そうと論じていた。
柳宗悦の思想には、アジア的な多元的価値観を維持しようとする願いが込められている。多元的なものは多元的なままで一元的であるという発想が非常に強い。各自は各自の文化、歴史、伝統を維持していくことで世界は発展するという価値観を強く抱いていた。それは明治国粋主義と通ずるものである。それを理解しなければ柳の朝鮮への共感は理解できない。
ゲマインシャフト的社会と信仰とは密接不可分なものである。柳は「信仰の世界を只夢見る様な想像の世界だと思ふであらうか、否、信仰の世界よりも、より具像な世界を吾々は持つ事が出来ぬ」(柳宗悦「存在の宗教的意味」『柳宗悦全集』三巻9頁)という。信仰は、死者との対話である。死者が甦り、再び現世に影響を与えることを信じない者は、伝統を信じることができない。死者は、その残した事績や言葉に触れることで、何度でも甦るのである。祖国の運命を悠久のものにする力が、伝統や信仰にはある。美とは、この伝統や信仰の結晶と言ってよい。そこには、武力や金力に負けぬ力がある。
「伝統は一人立ちができないものを助けてくれる。それは大きな安全な船にも等しい。そのお蔭で小さな人間も大きな海原を乗り切ることが出来る。伝統は個人の脆さを救ってくれる。実にこの世の多くの美しいものが、美しくなる力なくして成ったことを想い起こさねばならない」(「美の法門」『柳宗悦全集』十八巻19頁)。ここまでくると伝統は「他力」に似てくる。自力救済を重んじる現代社会とは異質な発想であるが、そこに美を認めるのである。
個人の力などごく儚いものである。卑小な個が人生の荒波を超える際に、伝統は大きな助けとなる。伝統は古き良き生命の継承であって、現状維持でも過去の繰り返しでもない。古き良き生命が、自らの人生を支えてくれていることへの自覚である。柳は、「一切の偉大なる芸術は人生を離れて存在しない」と述べたが(「宗教家としてのロダン」『柳宗悦全集』一巻481頁)、それは芸術に限ったことではない。偉大なる事業は人生を離れて存在しない。即ち、伝統や信仰を離れて存在しないということである。人生は絶えず人間性の表現を追い求めている。敬虔な信仰を抜きにして、精神の深みを悟ることはできない。
柳は信仰や美に、乱れた世を清め美しくする力があると信じた。争いからは何も生まれない。人間が本来持っている情愛によって世を美しくできる。情愛は誰にも奪えないと考えた。
伝統は自らの意志で選ぶことのできない、不可避の選択である。不可避の選択とは先人からの声にいやおうなく拘束されるということだ。伝統は人間の感性に染みついている。卑小な欲望でなく、感性に委ねたとき、それは先人の声に身をゆだねることである。
柳の信仰や伝統文化への敬虔な態度をわれわれは今一度顧みる必要があるのではないか。