垂加神道(崎門派)と国学の関係


平田篤胤は「神胤」という概念を使って、天皇と民を結びつけた。本居宣長までの国学は、基本的に天皇と神々の関係に終始することが多かったが、篤胤は祝詞なども活用して、庶民もまた「神胤」であると位置付け、庶民をも尊皇思想にいざなっていった。

平田国学のこうした概念は、山崎闇斎を始祖とする垂加神道に学ぶところがあったのだと思われる。垂加神道には、日本人の死後の世界を描いた側面があった。死後は無に帰すという儒教的合理主義でもなく、因果応報輪廻転生の仏教的世界観とも違う意義を打ち立てたのだ。日本人として生まれたからには朝廷を守護すべく生き、死んでは天照大神を中心とする八百万神の末席となる―。これこそが垂加神道の世界観である。垂加神道者は、この世界観を仏教や儒教と対比するなかで自覚的に唱えていった。
垂加神道が興ったころは仏教全盛時代で、自然議論は廃仏に流れ儒家神道を確立することとなった。しかし時代が下った際に、宣長や篤胤からその儒教的世界観をこじつけ的であると批判されることとなった。
一方で、垂加神道は神道だけで成立するものではなく、神儒兼学を旨とした。それは尊皇絶対の大義名分を明らかにするためには、儒学的世界観が不可欠であったからだ。特に親幕的な宣長は、神道としての純粋性を高めたものの、現実政治への批判精神を欠くところがあった。
篤胤の高弟生田万は、やはり崎門派の儒教性を厳しく批判している。万の属した館林藩は崎門の門流を藩学とはしていたが、それは闇斎の神道化を批判し破門された佐藤直方の門流であった。平田系の国学は、前述の世界観から、独特の「青人草」概念を生み出すなど、庶民の救済を政治的にも主張するようになっていった。万も館林藩に『岩にむす苔』を上表し、却下されている。そこでは弱者救済を訴えているが、おくびにもださないもののその政治論には儒教的善政概念が影響を与えているように思われる。
万も垂加派を批判しつつも『靖献遺言』を愛読するという矛盾が起こっている。
表面上は厳しく批判しつつも、篤胤一派の世界観は儒学的大義名分論と無縁ではないのである。

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