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国粋主義と社会主義―『国体と経済思想』増補― 三

 そんな堺利彦の告別式に参列して貴族院で問題になった議員がいる。永井柳太郎である。
 永井柳太郎は幼少の貧苦から身を起した人物で、国民の生活を容易にすることは社会政策の最大の目的だという信念を持っていた。弱きもの、貧しきもの、虐げられたものに対し同情し、その苦境を放置している政府や社会に心から憤る人物であったという(永井柳太郎編纂会編『永井柳太郎』26頁)。同時に世界における白人の専制を打破する必要があるという思想にも立っており、アジア主義的な思想も持っていた。頭山満を「興亜の父」と称えている。頭山をたたえるような思想の人物が堺利彦の告別式に参列し、弱者救済を主張するはずがないなどというのは、冷戦期のつまらない「常識」でしかないことがわかる。
 永井柳太郎は中野正剛と共に並び称される存在で、政治的にも共に行動することもあったが、中野が民政党を脱した時、永井は途中まで同志関係にありながら結局脱党しなかった。
 戦時動員は国民化を強いるが、それに応じた人が一概に権力にこびた、堕落した人物だとは思わない。社会大衆党は昭和十二年の総選挙で大勝利し、議席を倍増させた。その後支那事変が激化すると社会大衆党は国体を強調するなど「右旋回」していく。それを堕落のように云う向きも当時も今もあるが、私はそうは思わない。永井も民政党を解党させ、大政翼賛会に合流させるのに大きな役割を演じていたが、永井は政党が選挙本位になる結果、財閥と結託して金権政治なることを憂いていた。また、永井は、アダム・スミスが各個人の利益を追求すれば、自然と利害関係が調整されて国家の利益となることを主張したことを批判し、各個人が最大の利益を追求しても国家の利益とは重ならないばかりか、むしろ国家の最大利益とは矛盾する旨主張していた(岩本典隆『近代日本のリベラリズム 河合栄治郎と永井柳太郎の理念をめぐって』263頁、註(6)~(13)参照)。
 永井や社会大衆党などは「自由」よりも「平等」を重んじ、それを達成するためには時に軍部と連携することも厭わない傾向があった。それは『暗黒日記』の清沢洌や「粛軍演説」「反軍演説」の斎藤隆夫など、戦前自由主義者と呼ばれている人が軍部に批判的である一方、往々にして経済格差の解消に冷淡だったことと好対照をなしている。

 経済格差や貧困に苦しむ同朋を救おうとする論調は左派的とみなされやすいが、階級闘争によってそれの解決を図ろうとするのか、それとも道徳や人々の連帯によって理想の社会を実現していこうとするのかによって、議論は大きく異なる。後者であった場合、左派調だという先入観を抜きにすれば、いわゆる保守派も共感できる議論となりうる。
 その代表例が賀川豊彦である。賀川は貧民窟で生活した体験を自伝的に『死線を超えて』という本にまとめて広くその思想が知られることになった。賀川は、階級闘争は民族自滅の近道であると考えていた。その思想からときに当時の無産政党や労働組合からも期待されているが、時期によって近づいたり距離を置いたり様々である。賀川は耶蘇教徒らしく人々の魂の救済を志したが、それは生活苦からの解放を後回しにすることではなかった。大東亜戦争には協力的で、皇室を敬う心も篤かった。
 余談ながら賀川豊彦には仏教や神道より耶蘇のほうが高尚であるといういやな側面も持っていたり、愛国者の割に国境なんかいらないと言い出したりするよくわからないところもある。

(続く)

国粋主義と社会主義―『国体と経済思想』増補― 二

 話を戻して、社会問題は格差によって生まれるのではなく、国民が格差を自覚することによって生まれるともいわれる。即ち社会問題は所得が改善すればよいというものでもなく、ひとえに満足感、公平感、納得感を社会にもたらすことが必要となる。社会問題は社会性の自覚ともいえる。故にその対応は難しいのである。

 堺利彦は日本の社会主義運動の嚆矢にあたる人物である。その堺は儒教や神道、自由民権思想が影響を与えたことを書き残している(『堺利彦伝』中公文庫版92頁)。堺は徳富蘇峰の『国民之友』と三宅雪嶺の『日本人』に影響を受けたことを告白し(同125頁)、陸羯南とも親交のある高橋健三に会い「その気品に打たれ」、国粋主義の集会に出るようになり、国粋主義の「一雑兵」となっていたという(同167~168頁)。
 堺は大逆事件が起こり社会主義が冬の時代に入った時に、売文社という会社を興して自ら商売に手を染めた。それを思想的矛盾だと謗るのは易しい。だが同氏の窮状を救うためにあえて批判されることをやる堺という人物の懐の深さを同時に感じることができる。堺の社会主義はいわゆるイデオロギー的にものごとを裁断する類の性格を持つものではなかった。
 明治四十年、片山潜が主催した茶話会のことを山川均が書き残しているという。そこでは今後の戦術上の方針として、直接行動か議会政策かが論点になった。いつの時代も威勢のいい言葉を述べたがる人間が多いもので、直接行動派が多かったという。そんな中で堺は、「私はあくまで正統マルクス派の立場を守る」といい、どちらの側にも与しないと宣言したという(黒岩比佐子『パンとペン 社会主義者・堺利彦と売文社の闘い』講談社版171頁)。堺のこの態度は「煮え切らない」と批判を集めたようだが、むしろ同士の顔を立てた発言ではなかったか。正面から直接行動を批判しては同士の顔に泥を塗ることになる。そこで暗にマルクスの名前を出すことで思想的研究が先であることを示唆したのではないだろうか。
 大正十二年、第一次日本共産党の綱領を検討する席において、ソ連から送られてきた指令は、「天皇制の廃止」であった。いわゆる「22年テーゼ」である。その後出された悪名高き「32年テーゼ」と並んで、日本の共産主義史において外せない事項である。その両者において、堺利彦ら古参党員は皇室を打倒しろと言われることに迷惑がっていたと言われている。谷沢永一の『「天皇制」という呼称を使うべきでない理由』によると、この「22年テーゼ」が示された際には、佐野学が国家権力と君主制の廃止を討議の対象としたい旨発言すると、堺が「いたずらに犠牲を多く出すことになるから」と難色を示したという。「この問題を討議するなら僕は退場する」とまで述べたという。この後関東大震災の影響と官憲の弾圧により第一次日本共産党はほとんど何もなさず解党する。第一次日本共産党の解党後、堺や山川、荒畑寒村などの古参党員は、各人紆余曲折ありながらも第二次日本共産党に参加しなかった。彼らは後に所謂労農派の主力となっていく。谷沢は言う。「堺利彦も山川均も成り行きで、日本共産党に入ったのだが、彼らを社会主義者たらしめている根幹の理論はすべてお手製であり、何処か他所で発生した聖典に拠るのではない。彼らは正真正銘made in Japanの主義者である。ゆえに、日本の特殊事情を体得しており、ことさらに天皇制打倒を叫ぶ必要を認めていなかったのであろう」(『「天皇制」という呼称を使うべきでない理由』122頁)。堺はあくまで官憲の弾圧を招くから、と言った運動上の理屈から反対したのであって、思想的理由から反対したのではない。だがそれは調整役に回ることが多かった堺ならではの老獪さであり、本音は思想的にも距離があったのではないだろうか。
 
 ただ、堺も無謬の存在ではない。堺は明治三十九年の電車賃上げ反対闘争に於いて、共に運動を進めていた山路愛山をはめるような行動をとり、立場を超えた運動の連帯を妨げるような行動をとっている。こうした行動により堺ら共産党一派は孤立を深めていくことにもつながった。

(続く)

国粋主義と社会主義―『国体と経済思想』増補― 一

※以前『国体と経済思想』という連載を行ったが、本稿は、そこで言い忘れたことやその後の読書により知ったこと、考えたことなどをまとめたものである。一部同連載との重複もあることをご了承いただきたい。

 戦後日本における価値観の中で、「経済成長」という言葉の占める位置は大きい。敗戦によりナショナリスティックな価値観の挫折を経た日本社会の空白を埋めたのは、「経済成長」という言葉であった。だが、ある程度経済成長を達成した今、それは国家社会を統合する言葉とはならなくなってしまった。むしろ、「経済成長」による国の解体が懸念される事態となったのである。

 「生存競争と相互扶助とは共に人類の本能であり、正義に対するあこがれと力に対する依頼は、われらの心の中に併存する」(石原莞爾「最終戦争論に関する質疑回答」『最終戦争論』中公文庫版72頁)。野放図な競争の放任は、社会を世知辛くさせ、行き過ぎた相互扶助は社会を弛緩させる。その中でいかなる社会を作るかは、我々に常に問われていることであろう。
 人間はほぼ例外なく利己的な存在だ。それを否定することはできない。利己主義が社会に害をなすことがあったとしても、その利己性を否定さえすれば物事は解決すると考えるのは安直すぎる。例えば商売は売り手と買い手の間に等価交換されたら成り立たない代物である。極端な話本来百円の価値しかないものを百二十円で売っているのが商人だからだ。カネ貸しに至っては百万円を貸し付けて百二十万円返済させる、改めて考えると理不尽極まりない仕組みで成り立っているではないか。だがこれを非難するだけでは全くの非現実的意見となってしまう。人には利己性があり、すべてのことがボランティアで済むとは考えられないからだ。では利己心を擁護していればよいのか。そうではない。現に世の中は公正を求め、麻薬を売れば犯罪となり、不当な手段で利益を得れば詐欺として捕まるようになっているではないか。マタイ効果とも言われるが、格差は増長する傾向にあり、富める者はそれゆえにますます富むようになり、貧しきものはそれゆえに一層貧しくなる。同じスタートラインからの競争、「結果の平等ではなく機会の平等を」などという言説は全くの空想である。しかしそれを空想であると認めた瞬間に、「ではどういう再分配を理想とするべきなのか」という公正性の問題が再び頭をもたげるのである。利己主義と公正の両立は社会に突き付けられた課題と言えよう。

 頭山満は高山彦九郎を豪傑とみなしていた、と松本健一は言う(『雲に立つ』19頁)。ここでいう豪傑とは、現代人が思い浮かべる豪快で強い人、という意味でもなければ、支那の原義のように才知あふれる人という意味でもない。たとえ志を果たし得ない場所にいたとしても、独り道を実践していく人のことだ。名利をもとめず、憑かれたように志の実現に邁進する「狂」の態度こそが豪傑の条件であった。この「狂」の感覚を松本は「原理主義」と呼ぶ。松本にとって「原理主義」とは、合理的で近代的な態度ではない、ある種の「狂」の感覚であった。そして松本は「右翼」にこの「原理主義」を見出した。右翼と左翼とはナショナリズムとコミュニズムではない。ある時期まで、右翼と左翼は分かちがたく一体であった。豪傑か否か、「狂」の感覚を持ち合わせるか否かだけが問題であった。冷戦が、「狂」の感覚を右翼と左翼に引裂いた。ここでいう「冷戦」とは、通例とは違い、ロシア革命間際に共産主義運動が盛んになった頃から始まる。
 「狂」の感覚、「原理主義」は社会の底流にマグマのように流れる土着的エネルギーの爆発を呼び覚ます。「原理主義」は文明への反抗である。あまりにも文明化された今日、「原理主義」はあまりにも忘れ去られてしまった。しかし、同時に冷戦が終わり引き裂かれた右翼と左翼が再び元の「狂」者に戻れば、あるいは近代思想からなる今日の堕落と利益社会のはびこりを改めるきっかけとなるかもしれない。

 中江兆民はルソーの社会契約論を日本に紹介した人として知られるが、その思想は儒学をもとにした理想的道徳を現代によみがえらせようというものであった。中江と頭山は交流があり、見解を同じくすることもあった。頭山を右翼の源流、中江を左翼の源流のように言われることもあるが、その「源流」は分かちがたいほどに共通している。

 木下半治『日本国家主義運動史』によれば、内田良平の黒龍会は労働宿泊所を設けたり、「自由食堂」を作るなど社会事業も行っていたという(慶應書房版10頁)。同書はこのほかにも、大川周明を会頭とする神武会が「一君万民の国風に基き私利を主として民福を従とする資本主義経済の搾取を排除し、全国民の生活を安定せしむべき皇国的経済組織の実現を期す」と謳っていること(99頁、旧字を改めた)や、石川準十郎の大日本国家社会党が「我等は現行資本主義の無政府経済組織を以て現下の我が国家及び国民生活を危うする(ママ)最大なるものと認め、公然の国民運動に依りこれが改廃を期す」と謳ったこと(242頁)など、国家主義団体が資本主義による格差に対抗しようとしたことが多く記されている。それこそが戦前昭和の「国家改造」の内実であった。

 現代、いわゆるカイカクだなんだと言ったところで、それはせいぜい商売の拡大に過ぎない。商売のために国の歴史や国策の自主決定権を明け渡すなど正気の沙汰ではない。それはただの無秩序でしかない。戦後の変革論はことごとく商売の為であった。即ち私利私欲の拡大であった。消費空間が演出する差異などちっぽけなものだ。しかしこの手の差異化に振り回され続けてきたのも戦後史であった。構造改革の騒ぎはその典型であったが、基本的に国家観を見失った戦後日本そのものが商売と恋愛のことしか考えられない、典型的な消費者社会である。余談ながら木下半治の戦後の右翼研究の著作は教条的に裁く傾向にあり、あまり得るところが多くない。

(続く)

企業経営者の世襲について

 大塚家具の騒動の際には、あまりにも創業者一家のことばかり考えているので批判する側に回り、織原さんとニコニコ生放送も行った。創業者一家が自分のことばかり考えている例は他にもある。例えばパナソニックでは、松下幸之助が細かい人事にまで介入し、ここも親子の対立(パナソニックの場合娘婿だが)があったために、人事がゆがめられ、組織風土が荒廃してしまったのである。この辺りは、岩瀬達哉『パナソニック人事抗争史』に詳しい。創業者一家の内紛が会社の人事抗争にまで及ぶのは、大塚家具ばかりではない。
 しかし、こうした一部例外を除けば、基本的に私は企業経営者が創業者一家などで世襲されることに肯定的である。

 資本主義が進めば進むほど、企業の寿命は短くなる。競争が厳しくなればなるほど、市場のニーズは多様化し、ニーズ自体の変化も激しくなるからだ。
 企業は資本主義の重要なプレイヤーであるが、人々の生活を担う機関でもある。企業の寿命が人々の労働可能年齢より短くなれば、様々な会社で勤めなければならず、人々の生活は不安定化する。雇用を維持することは企業の大きな社会的責任でもある。

 企業寿命を延ばすためには、自社の利益だけであなく業界や社会全体の利益を考えることが重要だ。自由競争じゃないかといって、利害関係者に配慮しない激しい競争は社会に害をなす。むしろ、お互いに利益があるような関係の構築を目指すべきであろう。競争が切磋琢磨ではなく淘汰となった時、社会は息苦しいものとなる。

 本題に戻って企業経営者の世襲についてである。
 世襲の経営者は、業界や日本社会など、広くて時間的に長い視野で物事を考えることができる。自分の息子や娘などに、なるべく良い環境で引き継がなければならないからだ。サラリーマン社長は大概不文律的に任期が決まっていることが多く、長期的な視野で考えることは本人の利益にならないことが多い。短期的に利益を上げることに目線が向きがちになる。

 経営者は天下りで決まる場合がある。
 天下りは決して官僚だけの事象ではない。民間どうしにおいても、金融機関やメーカーなどの取引先から経営層が送り込まれることは決して珍しいことではない。
 この天下り社長が、出身元の方向ばかり見る(ことを求められる)人物だった場合、企業風土は一挙に荒廃する。出身元のために無茶をするのは大概この類であろう。

 ところで今、(倒産ではなく)廃業する企業の割合が高止まりしている。原因は高齢化で、中小企業の経営層が高齢になって体が思うように動かない状況の中で、引き継ぐ相手も見つからず、大きな借金等もないうちに廃業を選ぶのだという。日本の企業の9割は中小企業だが、特に小規模の企業がこのように廃業という道を選ぶのは悲しいことではある。利益がなかなか上がらない企業は、世襲であろうとそうでなかろうと、引き継ぐ相手すら見つからないという世の現実である。決して創業者一家だから甘い汁を吸っているわけではない。

 このブログでたびたび書いてきたように、資本競争そのものの問題点も見過ごすわけにはいかない。だがマルクス主義のように悪辣なブルジョワジーを除けば問題が解決するかのような短絡的な発想は誤りである。市場の側面と社会の側面、両面から考えなければならないのである。

弱肉強食を是認しない価値観

 三原じゅん子議員の「八紘一宇」発言に対し、私が触れた記事に対し、以下のようなご意見をいただきました。

>あなたが、「八紘一宇は政治に当たるものは皇徳を実践し、人民のための政治を行い、人民は正しい心を養うことで、国中が団結することができるという意味が込められている」
 と八紘一宇を説明されたように、八紘一宇には単なる「国中が団結することが出来る、団結しようという言葉」ではないですね。
 その前に「皇徳を実践し」とあるように、そういう前提がある言葉です。

 つまり、皇孫神話を信じ敬い弘めるという実践によって、政治をすれば国中が団結することが出来る、という意味ですよね。
 天皇を中核とした家族国家観ということです。
 そうすると三原議員が、『八紘一宇とは、世界が一家族のようにむつみ合うこと。一宇、すなわち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。
 一番強いものが弱いものの為に働いてやる制度が「家」であるという意味』
 という説明は、意味半分ではないですか?

 その前文の大事なところの意味が抜けている。

 
 あなたは「三原議員の八紘一宇理解は正しい」と言いましたが、この意味半分で大事なところが抜けている理解を正しいと言えるのでしょうか?
 この後、あなたは、
 >「日本人は日本人が培った理念により、近代風の弱肉強食とは違った世界観を再構築することができる。戦前の高い理想に学びわが身を正す必要があるのではないか」
 と言っているように、「日本人が培った理念、世界観」という言い方をしている。
 つまりり、ここでも「皇徳の実践」と深い関係を持った言葉を使っている。

 そういう認識がありながら、どうして意味半分の三原議員の八紘一宇の説明を正しいと言えるのか?

 まず、三原議員の認識に対し、「正しい」という倫理的表現は誤解を招く可能性があったなと反省しております。「妥当である」とか「支持する」といった表現が適当であり、その認識に変わりはありません。

 「皇徳の実践」が八紘一宇の前提となっていることはもちろんですが、「皇徳」に何を託すかは論客によってある程度幅があります。皇室の神話を広める、と言う意味合いで捉える人もいれば、「弱肉強食をやめさせること」そのものが皇徳の実践であると捉える人間もいます。私が記事中で引用した陸羯南もそうですし、三原議員もそうである可能性が高いと思われます。

 陸は、「六合を兼ね、八紘をおおうとは国化を世界に広めて王道を世界に述べることである」とし、日本もしくは東洋を西洋に対して劣等の存在であるとみなす意見に大いに反発しました。国の発展とは人口や輸出入の増加のことではない。国の使命をいかにまっとうできたかが大事なのだとして、日本の使命を西洋一辺倒の世界文明としないことに置きました。三原議員がグローバル資本主義の跳梁を憂うるところから「八紘一宇」への共感に入っていったことは大きな意味があると思います。

 「八紘一宇」と分かちがたく結びついているのが「各々その処を得」という世界観です。これもルース・ベネディクトの『菊と刀』などにより、階層社会への信頼と強要という、誤ったレッテル張りをされた世界観ですが、要するに各人があるべき場所を得て、美質を発揮するといったものです。これは力で支配する「覇者」への反発からなるものです。ちなみに「各々その処を得」というのは論語に出典があります。

 「強者による一方的な搾取ではなく、各人の美質を発揮する統治を求めること」が、どうして「皇徳の実践」とつながるのでしょうか。それは、皇室が「覇者」ではなく、神話とつながった「王者」であることに由来するのではないでしょうか。即ち、武力、金力に優れたものがすべてを支配する世界観は「覇者」のものであり、皇室のよって立つ世界観とは異なります。したがってそれに服従せず、「王者」の治をたたえることが求められるのです。

 もちろん、あらゆる統治に於いて、武力や金力の支えなしに成り立つものなどあり得ないという現実はよくよく踏まえておく必要があるでしょう。しかしそれは覇者への迎合を容認する理由にはなりませんし、例えば企業においても経営者の報酬が低く抑えられているように、社会的価値観、世界観に何らかの影響を与えるものと考えるべきでしょう。

 話がそれてしまい、ご回答になっているか不安はありますが、以上のように私は考えております。

『表現者』系のピケティ議論に思う

ピケティについては、これまでも「ピケティ礼賛論に思う」「再びピケティについて論ず」で触れてきた。ピケティの議論に対する私の感覚を一言で述べれば、「気持ち悪い」ということに尽きると思う。同じ感覚をトニー・ジャットに抱き、そのことも「トニー・ジャットを読んで~根なし草のコスモポリタン~」という記事に書いたことがある。

 いわゆる欧米的知識人に、私は無国籍性を見出し、それを気持ち悪いと思う傾向にある。国籍や文化、歴史の軽視と、グローバルでリベラルな民主主義への過度な信頼に、理屈の前に感性の段階でどうにも受け入れられない思いを抱く。

 最近『表現者』系メディアでピケティについて取り上げているので、改めてピケティのことを思い起こし、取りまとめておこうと思った次第である。『表現者』第60号では「資本主義の砂漠」と題しピケティ特集を組んでいる。また、TOKYO MXの「西部邁ゼミナール」においても3週にわたり、「ピケティ騒ぎの後始末」と題し、ピケティについて触れている。

 

 上記特集に於いても、私がブログ記事で書いてきた、「ピケティは現代資本主義に鋭い批判を向けているようでいて、実は新自由主義やグローバリズムの潮流にある意味乗っかっている部分がある」「ピケティは資産課税をすることで世襲による富の継承には批判的だが、自由競争の結果による格差にはあまり批判を向けない」という点は触れられており、それはいくら強調してもしすぎることはない。

 上記『表現者』系の議論で触れられるかと思ったが一度も触れられなかった点に、ピケティのアップル創業者スティーブ・ジョブズへの共感がある。一言指摘しておきたい。『トマ・ピケティの新・資本論』278~282頁に「ジョブズのようにみんな貧乏」という一節がある。ピケティはそこで、ジョブズがビル・ゲイツの1/6の資産しかないことを嘆き、ましてやフランスの資産家の一人リリアンヌ・ペタンクールの1/3であることに不満を抱く。そのうえで、「競争原理にはいまなお改善の余地がある」と言うのである。
 この一節こそ、ピケティが貧しい人を救うためでも、中流階級を分厚く、生活しやすくするためでもなく、競争原理を機能させるために発言している事を端的に示す一節ではないだろうか。

 なお、『表現者』系ではピケティの世襲嫌いを「文化破壊の野蛮な行為」であると見る。私も同様の思いである。世襲により受け継ぐのは必ずしも財産のように見えるものだけではなく、むしろ見えないもののほうが大事なのだが、それでも世襲は文化、歴史の連続性を分かりやすく示す証ともなるものだ。世襲嫌いの視線は常に「今」しかない。過去から何を受け継ぎ、それを未来にどう残すか、という発想に欠けている。言葉は過去からやって来るし、知識とはすなわち過去であるというのに。

 もしあなたがピケティを左派風だと思っているとしたら、それは忘れた方が良い。

人生の行き先について

 人生は、旅に例えられる。生きていくことは、あてもなく果てしない道を歩いていくことである。どこを目指し旅を続けていくのか、誰かに決めてもらうことはできない。目指す場所があれば、何もなく放浪するよりははるかにその旅は有効なものになるに違いない。だが、目指す場所が何処かなど、どうして初めから知り得ることができるだろうか。あるいは、ここを目指すなどと明確に言い得るものが、本当に目指すに足る場所なのだろうか。わからないから知りたいと思うのであり、あらかじめわかっている場所にたどり着くことが人生の旅路の目的地であるとは思われない。人智で計り得ない深みに到達するしようと思うことこそ、心の旅ではないだろうか。

 だとすると、その目的地は人智では計り得ないのだから、永遠に到達しないということになる。到達し得ない目的のために、我々は日々さ迷い歩くのだろうか。

 世の多くの死は無駄死にであったかもしれない。「目的地」に到達し得た人生など、ごく限られたものだからだ。しかし、目的地に到達し得ない人生を無駄だと言ってしまうことには、やはり抵抗感が残る。

 人生には、苦しみや悲しみ、不安、憤るべき様々な出来事が絶え間なく襲い掛かってくる。喜びや楽しみなど、この苦しみや悲しみの合間にある束の間の平穏に過ぎないのかもしれない。
 自殺するか生きるかは、一息に死ぬか、真綿で首を絞められて死ぬのかの違いに過ぎないと、悲観的になる日もある。だが、真綿で首を絞められる人生の中でも、ふと人間の温かさや、先人の残した珠玉の一節に触れることで、まだ生きていけると思うことができる。そんな心の動きが、世知辛い灰色の風景の中の、一輪の鮮やかな花である。

 深海の底で誰にも生きているのか死んでいるのかも知られぬまま、ひっそりと暮らしていたい。私の存在など風に吹かれてどこかに吹き飛ばされる塵芥である。そんな思いは心の中に常にあり続けている。一方で、このままで終わりたくないという感情もまた、私の中にあり続ける。しかし、このままで終わらず、一体どこに行くというのだろうか。絶望しているのでも落ち込んでいるのでもない。ごく自然に疑問に思われて仕方ないのである。

 何か自分で行く先を決められるなどと言うのも、自力救済にかぶれた思い上がりに過ぎないのではないか。流れ着くままに流れて見せよ。流れ着いた先が、人生の旅路の目的地である。

改めて国家とは何か 六(終)

 労働力は、それが人間存在と関わり合いが深い故に、元来商品になり得ないものだ。だが近代思想はそれを商品化することを要求する。労働力を商品とした人間は、家族、共同体、民族などから断絶させられる。即ち、人間らしくあることを失わされる。ナショナリズム、そして信仰はそれに対する抵抗の拠点となりうる。柄谷は「別の災禍をもたらす」とこうした考えに批判的だが(『世界共和国へ』151頁)、私にはこうしたナショナルなもの、そして信仰は人間存在の根幹であると考えており、失ってはならないと思う。

 資本主義、共産主義、そしてイデオロギーとしての民主主義は国境を超えることが前提となって動きつつある。したがって、その負の側面を防止しようという議論も国境を超えた観点から、となりがちである。ピケティが国際的な資産課税を主張することなどが典型である。しかし実際は国境の観念は厚く、有事になればすぐ国家の論理が顔をのぞかせる。グローバル市場などというのは平穏な時代のみ成立する幻想世界のようなものだ。規制緩和のような政府が自らその権力を放棄しようとする行為さえ、どの権力をどの産業に有利なように放棄しようかという政府権力の影響力を強めようという行為である。

 経済に係る世の問題は分配の問題だともいえる。社会における富をどう分配するのか。富を齎したものが多く受け取るのか。それとも社会の構成員が公平にその果実にあずかるのか。突き詰めればこの二つのどちらかに収斂される。また、今後得られるであろう富をどう分配するのかも含めて、このことは考えられなくてはならない。だが、そもそも「成果を分配できる」と考えること自体、個人主義が明確に確立していなければできるものではない。
 政府は富を再分配する。再分配は元来共同体でなされるべきものだ。共同体における再分配は互酬関係である。政府の再分配は人々の相互の互酬関係を立ち行かないものにする恐れがある。儒学は伝統的に政府が人々に干渉することを嫌い、税金すらも少ないことを理想とする。ではそれは今どきの「小さな政府」を志向するものであったか。全く異なる。「小さな政府」は分配を市場に期待するものだ。儒学的な善政は政府が干渉せず共同体の互酬関係にゆだねる思想である。これは政府による強権的な再分配を志向する欧州型社会民主主義とも全く異なるものだ。欧州型社会民主主義は政府が分配を容易にするために、金銭的な解決が図られやすい。要するに困っている人にはカネを配って援助しようというのである。直接的にカネを配る形式ではなくても、要するに金銭的に便宜を図るという姿勢は一貫している。だがそれは、拝金主義的態度であり、資本主義が孕む本質的問題を何一つ克服していない。そして、共同体を破壊するという大きな問題がある。
 儒学は、「人間と人間の関係を「仁」に基づいて建て直す」ものであり、「氏族共同体を回復する」ことであった(『世界史の構造』247頁)。それは同時に資本及び政府に破壊された共同体と互酬原理の回復を図る「ロマン主義」(『世界史の構造』342頁)とも目的を同じくするものであった。それは「資本」と「政府」を「ネーション」の観点から批判することにつながっていく。

 柄谷は、資本主義を国家を以て抑えようとする動きは、国家を強力にするが、自己存続のために国家は資本主義を呼び戻そうとする。その認識を踏まえて資本主義の揚棄は国家の揚棄をもたらすものでなければならないという(『世界史の構造』458頁)。たしかに柄谷の言う通り政府の力で資本主義を抑えようとしても、政府は自己存続のために資本主義を呼び戻そうとするのかもしれない。だが、政府が自己存続のために国の文化や歴史、民族の誇りや伝統的共同体を破壊しようとすれば、必ずそれらに報復され、揺り戻しを余儀なくされる。国家と政府を混同して、単なる統治機構だとみなしてしまえばこの原理はわからなくなる。国家が資本主義に傾きすぎることは単なる自己破壊であり、そのようなことはできるはずがないのだ。
 もちろん、伝統的共同体の再活性化は、政府、あるいは行政と言い換えてもいいが、そうした統治機関によるだけでなく人々が守り支えていくものである。行政に依存するだけではこうした伝統が再生されないことは言うまでもない。その意味で伝統を重んじるものは○○党がどうしたと言った政局的議論に収まらず、より広い次元で物事を論じていくべきではないかと思う。私もできているかどうかはわからないが、少なくともその必要性を認識するものである。
 一方で、民族文化は、権力により守られる存在である。文化だけの民族性などあり得ない。軍事力や経済力で保障されてこそ、民族文化は存続を許される。国家と国家は結局最後は力と力の争いになる。権力なくして文化や民族の誇りは、なかなか維持できないだろう。政府を持った歴史のない民族文化は、往々にして他の文化の支配を甘んじなければならなくなった。これは価値判断を挟む余地のない現実として受け止められなければならない。

 国家は共同体同士の関係の中で常に自他の線引きを確認させられるのであって、仮令鎖国をしていたとしても、他国とまったく無関係になることはできない。しかしそれは自国の文化や歴史を放棄することとは異なるはずだ。
 国民的連帯は、国際的連帯と対立するものではない。八紘一宇とは国際的連帯を説いたものであり、もちろん情勢にもよるが、国際的連帯を欠いた国民的連帯もなければ、国民的連帯を欠いた国際的連帯もあり得ないのである。
 むしろグローバリズムと称して自国の経済的動機を他国に押し付ける態度のほうがよほど国際的連帯性も、国民的連帯性も欠いている。

 今回私が書いてきたことは柄谷行人の国家論が大いに刺激となっている。だが本連載は柄谷の国家論の礼賛でも批判でもなく、柄谷の議論を触媒として私が想うことを記しておいたまでのことである。ご了承いただきたい。

改めて国家とは何か 五

 民主主義とはもともと民衆が貴族を打ち倒すために編み出された革命のイデオロギーでしかなく、したがって輿論政治とは別物である。民主と世襲は相反する概念である。むしろ世襲を安易に「独裁につながる」と決めつけ攻撃する原動力になったのが、「民主」である。イデオロギーとしての「民主」は、明らかに人は皆平等で質的に同じであるという前提に立っている。だがそのようなことはあり得るのだろうか。誰もが同じ権利を持ち、平等に扱われる。それはとても良いことのようにも聞こえるが、人間の文化的異質性を考慮に入れていないという恐ろしさを併せ持っている。

 その本質が如実にどこの世界の議会にも出ているではないか。議会は多数決で決まる。民主主義が話し合いとして理解されるためにはそこで「一定数の議論があり」、「数名が意見を変える可能性が担保」されており、「議論の結果国民の納得が得られる」状態になければならない。だが実際は多数党の方針がそのまま通ることがほとんどであり、議会では官僚答弁ばかりであり、国民の納得はおろか政党の党利党略で国民が振り回される事態となっている。根本的に民主主義が「多数者の専制」政治でしかないという点では革命のときから何も変わっていない。

 多数決によって決まる議会は論理の正しさでなく、多数派を形成したものが勝利する。党派の論理が、議論の正しさを上回るのである。
 上杉愼吉は、晩年は普通選挙運動にも取り組んだが、上杉にとって普通選挙とは一君万民の政治の証であった。だがその世論は多数決によって決まるというよりは、天皇の大御心によって救いあげられるものであった。「皆物ノ鏡ニ映スルカ如ク、大御心之ヲ知ロシメテ、国家ノ理想ヲ実行シタマフ」のである(上杉愼吉『新稿憲法述義』91~92頁、林尚之『主権不在の帝国』34頁からの孫引き)。
 世論(せろん)とは「世の中で一般に言われていること」である。輿論(よろん)は「国を背負う責任を持った意見、議論」である。両者は全く別物であった。民主は世論調査のような無責任な国民の意見により成立している。しかし実際は、国は歴史と伝統を身につけ、国を支える気概を持ったものによってこそ動かされるべきものである。上杉はその証を大御心に求めたのである。
 大御心に公共性の淵源を求めた上杉の考えは、国政の過ちが即天皇陛下の過ちとみなされがちになる点で、議論の余地があるだろう。だが単に多数派の意見を採用すれば文句あるまいという「多数派の専制」は避けねばなるまい。だがそれを保障するだけの思想的裏付けがないのである。むしろ「多数派にゆだねれば勝つのは王侯貴族ではなく庶民に決まっている」という安直で楽観的な革命イデオロギーが顔をのぞかせるのである。

 しつこく民主主義批判を書いてきたが、民主主義も資本主義も基本的に「多くの者に支持されるものは正しい」という思想に乗っかってきた。「本来デモクラシイは、人民全体が残らず協同して政治をすれば、誰れも不平を云ふ筈が無いと云ふことを原理とする政治である」(『日の本』316~317頁、竹村民郎編『経済学批判への契機』所収上杉聰彦「公法学者上杉愼吉における社会学=相関連続の研究」221頁からの孫引き)。だが「多数派に支持されるものは皆正しい」ことを認めがたいとするならば、やはり「多数派に支持される」ということ以外に何か公共性の由来を見つけなければならないのではないだろうか。それを見つけるためにも、上杉はクロポトキンの生存競争にもっともよく生き残るものは強き者でも賢き者でもなく弱者も愚者も助け合うすべを知るものだという議論まで参考にしている(同「上杉愼吉社会学遺稿(抜粋)」247頁)。「多数派に支持される」以上の公共性、それはやはり国家が持つ共同性ではないだろうか。冒頭の柄谷行人の「資本=ネーション=ステート」で言えば「ネーション」である。資本は多数決である。ステートも選挙、世論政治が定着した今となっては多数決であろう。だが「ネーション」は多数決ではない。「ネーション」は地位や所得の高低に関わらず誰もが生まれもつ民族文化である。民族文化は多数決を拒否する。民族文化の声に耳を傾けることを要求する。民族文化は相互扶助を要求する。確かに民族文化の声は政府権力による格差是正を求めるが、それだけではない。家族や地域のつながりは政府が指示するものではない。ましてやそれをすればカネ儲けにつながるわけでもない。さらには過去から伝統文化の恵沢を受け、後世に引き継ごうとする精神は「資本」や「ステート」の現代にのみ留まっている視点を大きく超えて過去から未来に果てしなく広がっていく。

 日本は本来、古くから人間性とか美、連帯について豊富な土壌を持ってきた。人工と自然の調和、自制の深さ、季節の折り目を大切にする風土を築いてきた。「資本」とか「ステート」には集団的エゴイズムを重要視して、そういうものを軽視している部分がある。近代思想にはそういうところがある。ただ、近代思想をある程度受容しながらも、集団的エゴイズムだけでない文化を模索したのも日本近代、あるいは明治ナショナリズムの姿であった。「日本画」とか「日本美術」を生み出したのは明治の国粋主義者であった。それらは伝統的な日本の技法を取り入れながらも、新たな美を模索するものであった。

(続)

改めて国家とは何か 四

 商人は共同体と共同体の間にあって、各共同体の価値の差から利潤を生みだす存在である。即ち商人は異邦人であり、農業共同体から見れば、いかがわしく蔑視する存在だ(柄谷行人『世界共和国へ』85頁)。商人は本質的にグローバルなところがある。もちろん商売の中にはローカルの中で育まれる商売もある。しかし、そうした商人は、どこか公務員めいて見えることがある。例えば地方の路線バス会社などがそうだ。実は商人の多くはグローバルでも何でもない。だがそうした商人は往々にして大きなもうけを得ず、土着的共同体の中の一部としてその存在を認められたものである。普遍宗教が徐々に共同体の中に定着する様を柄谷は描くが(『世界共和国へ』98頁)、商人も同様である。

 「お前は民主主義や資本主義を罵るようなことを書いてばかりいるが、対案はあるのか。まさかかつての共産主義国家を再現しようとしているわけではあるまいに」と言われてしまえば、私は口ごもらざるを得ない。おそらく民主主義や資本主義は対案が難しい考えの代表格であろう。それが日本社会に害をもたらすとして、その代わりにどういった制度を対置するのかと言うことに対する明確な考えは私にはない。だが同時に思うのは、対案がない、ということは害を放置する理由にはならない、ということだ。民主主義や資本主義は日本人の国民精神に根深い問題を与えていると確信しているからこそ批判しているのである。

 民主主義とは、確かに、民意によって動く政治である。しかし、民意というものが人々の顔に書いてあるわけではないから、政党政治のもとでは、政党が政策を示し、それを「民意」が判断する、という手続きになる。そこで、たとえば、二大政党がそれぞれ政策を提示して、人々に選択権を与えれば、民意が反映されたことになるだろう。かくて、マニフェストによる政策選択が同時に政権選択になる、という理屈がでてくる。
 この理屈に別に間違ったところはない。だが、ひとつ重要なことが隠されている。それは、「民意」は必ずしも「国」のことを考えるわけではない、ということだ。むろん、「民意」とは何か、というやっかいな問題があるが、今はそれは論じないことにしよう。民意とは、さしあたりは、多様な人々の意見や利益を集約したものだとしておこう。仮にそう定義しておいても、民意とは、まずは、人々の「私的」な関心事項の集まりなのである。
 仮に人々が投票に臨むときに自己意識が「国のことを考える人」ではなく「消費者」であるならば、政策の正しさやその効果について勉強する必要はなくなる。それは政治家がわかりやすく説明すべきものであり、消費者はその「サービス」を享受する存在だからだ。もちろん政治家が説明するわかりやすさとやらが本当に正しいのかどうか検証する義務もなくなるのである。

 「民主」には二つの意味が無自覚的にかそうでないかはわからないが、混同して使われている。つまり「選挙による代議政体、議会政体」という「政治体制」としての印象と「自由・平等・友愛」の「近代政治思想」的感覚である。
 政治体制を「民主」とするならば、それは絶対的な真理ではなく、選択可能なものの中の一つということになる。従って「政治体制」としての「民主」に対義語はないが、「政治思想」としての「民主」は明らかに「独裁、抑圧」の対義語としての感覚もしくは主張をもっている。

(続)