『表現者』系のピケティ議論に思う


ピケティについては、これまでも「ピケティ礼賛論に思う」「再びピケティについて論ず」で触れてきた。ピケティの議論に対する私の感覚を一言で述べれば、「気持ち悪い」ということに尽きると思う。同じ感覚をトニー・ジャットに抱き、そのことも「トニー・ジャットを読んで~根なし草のコスモポリタン~」という記事に書いたことがある。

 いわゆる欧米的知識人に、私は無国籍性を見出し、それを気持ち悪いと思う傾向にある。国籍や文化、歴史の軽視と、グローバルでリベラルな民主主義への過度な信頼に、理屈の前に感性の段階でどうにも受け入れられない思いを抱く。

 最近『表現者』系メディアでピケティについて取り上げているので、改めてピケティのことを思い起こし、取りまとめておこうと思った次第である。『表現者』第60号では「資本主義の砂漠」と題しピケティ特集を組んでいる。また、TOKYO MXの「西部邁ゼミナール」においても3週にわたり、「ピケティ騒ぎの後始末」と題し、ピケティについて触れている。

 

 上記特集に於いても、私がブログ記事で書いてきた、「ピケティは現代資本主義に鋭い批判を向けているようでいて、実は新自由主義やグローバリズムの潮流にある意味乗っかっている部分がある」「ピケティは資産課税をすることで世襲による富の継承には批判的だが、自由競争の結果による格差にはあまり批判を向けない」という点は触れられており、それはいくら強調してもしすぎることはない。

 上記『表現者』系の議論で触れられるかと思ったが一度も触れられなかった点に、ピケティのアップル創業者スティーブ・ジョブズへの共感がある。一言指摘しておきたい。『トマ・ピケティの新・資本論』278~282頁に「ジョブズのようにみんな貧乏」という一節がある。ピケティはそこで、ジョブズがビル・ゲイツの1/6の資産しかないことを嘆き、ましてやフランスの資産家の一人リリアンヌ・ペタンクールの1/3であることに不満を抱く。そのうえで、「競争原理にはいまなお改善の余地がある」と言うのである。
 この一節こそ、ピケティが貧しい人を救うためでも、中流階級を分厚く、生活しやすくするためでもなく、競争原理を機能させるために発言している事を端的に示す一節ではないだろうか。

 なお、『表現者』系ではピケティの世襲嫌いを「文化破壊の野蛮な行為」であると見る。私も同様の思いである。世襲により受け継ぐのは必ずしも財産のように見えるものだけではなく、むしろ見えないもののほうが大事なのだが、それでも世襲は文化、歴史の連続性を分かりやすく示す証ともなるものだ。世襲嫌いの視線は常に「今」しかない。過去から何を受け継ぎ、それを未来にどう残すか、という発想に欠けている。言葉は過去からやって来るし、知識とはすなわち過去であるというのに。

 もしあなたがピケティを左派風だと思っているとしたら、それは忘れた方が良い。

「『表現者』系のピケティ議論に思う」への4件のフィードバック

  1. このピケティの一種の不徹底さが「いや、ピケティはマネタリスト、金融緩和至上主義を否定はしていないんではないか?」という日本国内にいるリフレ派経済人を誤解させた原因かもしれませんね。
    現在はさすがにいませんが、ピケティが出てきた時点で、相当「ピケティは私と同じことを言っている」と言っていたリフレ派経済人いましたから。

  2. 織原さん
    私はピケティの本国での政治的立ち位置は詳しくありませんが、いわゆる最左派とは違うのではないでしょうか。
    リフレ派と言うのが誰を指すのか私にはよくわからないですが、高橋洋一氏もピケティの解説本を出していますし、その意味ではさまざまな立場の人に受け入れられる力を持つと同時に、妖しさも持ち合わせている、と言ったところでしょうか。

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