商人は共同体と共同体の間にあって、各共同体の価値の差から利潤を生みだす存在である。即ち商人は異邦人であり、農業共同体から見れば、いかがわしく蔑視する存在だ(柄谷行人『世界共和国へ』85頁)。商人は本質的にグローバルなところがある。もちろん商売の中にはローカルの中で育まれる商売もある。しかし、そうした商人は、どこか公務員めいて見えることがある。例えば地方の路線バス会社などがそうだ。実は商人の多くはグローバルでも何でもない。だがそうした商人は往々にして大きなもうけを得ず、土着的共同体の中の一部としてその存在を認められたものである。普遍宗教が徐々に共同体の中に定着する様を柄谷は描くが(『世界共和国へ』98頁)、商人も同様である。
「お前は民主主義や資本主義を罵るようなことを書いてばかりいるが、対案はあるのか。まさかかつての共産主義国家を再現しようとしているわけではあるまいに」と言われてしまえば、私は口ごもらざるを得ない。おそらく民主主義や資本主義は対案が難しい考えの代表格であろう。それが日本社会に害をもたらすとして、その代わりにどういった制度を対置するのかと言うことに対する明確な考えは私にはない。だが同時に思うのは、対案がない、ということは害を放置する理由にはならない、ということだ。民主主義や資本主義は日本人の国民精神に根深い問題を与えていると確信しているからこそ批判しているのである。
民主主義とは、確かに、民意によって動く政治である。しかし、民意というものが人々の顔に書いてあるわけではないから、政党政治のもとでは、政党が政策を示し、それを「民意」が判断する、という手続きになる。そこで、たとえば、二大政党がそれぞれ政策を提示して、人々に選択権を与えれば、民意が反映されたことになるだろう。かくて、マニフェストによる政策選択が同時に政権選択になる、という理屈がでてくる。
この理屈に別に間違ったところはない。だが、ひとつ重要なことが隠されている。それは、「民意」は必ずしも「国」のことを考えるわけではない、ということだ。むろん、「民意」とは何か、というやっかいな問題があるが、今はそれは論じないことにしよう。民意とは、さしあたりは、多様な人々の意見や利益を集約したものだとしておこう。仮にそう定義しておいても、民意とは、まずは、人々の「私的」な関心事項の集まりなのである。
仮に人々が投票に臨むときに自己意識が「国のことを考える人」ではなく「消費者」であるならば、政策の正しさやその効果について勉強する必要はなくなる。それは政治家がわかりやすく説明すべきものであり、消費者はその「サービス」を享受する存在だからだ。もちろん政治家が説明するわかりやすさとやらが本当に正しいのかどうか検証する義務もなくなるのである。
「民主」には二つの意味が無自覚的にかそうでないかはわからないが、混同して使われている。つまり「選挙による代議政体、議会政体」という「政治体制」としての印象と「自由・平等・友愛」の「近代政治思想」的感覚である。
政治体制を「民主」とするならば、それは絶対的な真理ではなく、選択可能なものの中の一つということになる。従って「政治体制」としての「民主」に対義語はないが、「政治思想」としての「民主」は明らかに「独裁、抑圧」の対義語としての感覚もしくは主張をもっている。
(続)