話を戻して、社会問題は格差によって生まれるのではなく、国民が格差を自覚することによって生まれるともいわれる。即ち社会問題は所得が改善すればよいというものでもなく、ひとえに満足感、公平感、納得感を社会にもたらすことが必要となる。社会問題は社会性の自覚ともいえる。故にその対応は難しいのである。
堺利彦は日本の社会主義運動の嚆矢にあたる人物である。その堺は儒教や神道、自由民権思想が影響を与えたことを書き残している(『堺利彦伝』中公文庫版92頁)。堺は徳富蘇峰の『国民之友』と三宅雪嶺の『日本人』に影響を受けたことを告白し(同125頁)、陸羯南とも親交のある高橋健三に会い「その気品に打たれ」、国粋主義の集会に出るようになり、国粋主義の「一雑兵」となっていたという(同167~168頁)。
堺は大逆事件が起こり社会主義が冬の時代に入った時に、売文社という会社を興して自ら商売に手を染めた。それを思想的矛盾だと謗るのは易しい。だが同氏の窮状を救うためにあえて批判されることをやる堺という人物の懐の深さを同時に感じることができる。堺の社会主義はいわゆるイデオロギー的にものごとを裁断する類の性格を持つものではなかった。
明治四十年、片山潜が主催した茶話会のことを山川均が書き残しているという。そこでは今後の戦術上の方針として、直接行動か議会政策かが論点になった。いつの時代も威勢のいい言葉を述べたがる人間が多いもので、直接行動派が多かったという。そんな中で堺は、「私はあくまで正統マルクス派の立場を守る」といい、どちらの側にも与しないと宣言したという(黒岩比佐子『パンとペン 社会主義者・堺利彦と売文社の闘い』講談社版171頁)。堺のこの態度は「煮え切らない」と批判を集めたようだが、むしろ同士の顔を立てた発言ではなかったか。正面から直接行動を批判しては同士の顔に泥を塗ることになる。そこで暗にマルクスの名前を出すことで思想的研究が先であることを示唆したのではないだろうか。
大正十二年、第一次日本共産党の綱領を検討する席において、ソ連から送られてきた指令は、「天皇制の廃止」であった。いわゆる「22年テーゼ」である。その後出された悪名高き「32年テーゼ」と並んで、日本の共産主義史において外せない事項である。その両者において、堺利彦ら古参党員は皇室を打倒しろと言われることに迷惑がっていたと言われている。谷沢永一の『「天皇制」という呼称を使うべきでない理由』によると、この「22年テーゼ」が示された際には、佐野学が国家権力と君主制の廃止を討議の対象としたい旨発言すると、堺が「いたずらに犠牲を多く出すことになるから」と難色を示したという。「この問題を討議するなら僕は退場する」とまで述べたという。この後関東大震災の影響と官憲の弾圧により第一次日本共産党はほとんど何もなさず解党する。第一次日本共産党の解党後、堺や山川、荒畑寒村などの古参党員は、各人紆余曲折ありながらも第二次日本共産党に参加しなかった。彼らは後に所謂労農派の主力となっていく。谷沢は言う。「堺利彦も山川均も成り行きで、日本共産党に入ったのだが、彼らを社会主義者たらしめている根幹の理論はすべてお手製であり、何処か他所で発生した聖典に拠るのではない。彼らは正真正銘made in Japanの主義者である。ゆえに、日本の特殊事情を体得しており、ことさらに天皇制打倒を叫ぶ必要を認めていなかったのであろう」(『「天皇制」という呼称を使うべきでない理由』122頁)。堺はあくまで官憲の弾圧を招くから、と言った運動上の理屈から反対したのであって、思想的理由から反対したのではない。だがそれは調整役に回ることが多かった堺ならではの老獪さであり、本音は思想的にも距離があったのではないだろうか。
ただ、堺も無謬の存在ではない。堺は明治三十九年の電車賃上げ反対闘争に於いて、共に運動を進めていた山路愛山をはめるような行動をとり、立場を超えた運動の連帯を妨げるような行動をとっている。こうした行動により堺ら共産党一派は孤立を深めていくことにもつながった。
(続く)