弱肉強食を是認しない価値観


 三原じゅん子議員の「八紘一宇」発言に対し、私が触れた記事に対し、以下のようなご意見をいただきました。

>あなたが、「八紘一宇は政治に当たるものは皇徳を実践し、人民のための政治を行い、人民は正しい心を養うことで、国中が団結することができるという意味が込められている」
 と八紘一宇を説明されたように、八紘一宇には単なる「国中が団結することが出来る、団結しようという言葉」ではないですね。
 その前に「皇徳を実践し」とあるように、そういう前提がある言葉です。

 つまり、皇孫神話を信じ敬い弘めるという実践によって、政治をすれば国中が団結することが出来る、という意味ですよね。
 天皇を中核とした家族国家観ということです。
 そうすると三原議員が、『八紘一宇とは、世界が一家族のようにむつみ合うこと。一宇、すなわち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。
 一番強いものが弱いものの為に働いてやる制度が「家」であるという意味』
 という説明は、意味半分ではないですか?

 その前文の大事なところの意味が抜けている。

 
 あなたは「三原議員の八紘一宇理解は正しい」と言いましたが、この意味半分で大事なところが抜けている理解を正しいと言えるのでしょうか?
 この後、あなたは、
 >「日本人は日本人が培った理念により、近代風の弱肉強食とは違った世界観を再構築することができる。戦前の高い理想に学びわが身を正す必要があるのではないか」
 と言っているように、「日本人が培った理念、世界観」という言い方をしている。
 つまりり、ここでも「皇徳の実践」と深い関係を持った言葉を使っている。

 そういう認識がありながら、どうして意味半分の三原議員の八紘一宇の説明を正しいと言えるのか?

 まず、三原議員の認識に対し、「正しい」という倫理的表現は誤解を招く可能性があったなと反省しております。「妥当である」とか「支持する」といった表現が適当であり、その認識に変わりはありません。

 「皇徳の実践」が八紘一宇の前提となっていることはもちろんですが、「皇徳」に何を託すかは論客によってある程度幅があります。皇室の神話を広める、と言う意味合いで捉える人もいれば、「弱肉強食をやめさせること」そのものが皇徳の実践であると捉える人間もいます。私が記事中で引用した陸羯南もそうですし、三原議員もそうである可能性が高いと思われます。

 陸は、「六合を兼ね、八紘をおおうとは国化を世界に広めて王道を世界に述べることである」とし、日本もしくは東洋を西洋に対して劣等の存在であるとみなす意見に大いに反発しました。国の発展とは人口や輸出入の増加のことではない。国の使命をいかにまっとうできたかが大事なのだとして、日本の使命を西洋一辺倒の世界文明としないことに置きました。三原議員がグローバル資本主義の跳梁を憂うるところから「八紘一宇」への共感に入っていったことは大きな意味があると思います。

 「八紘一宇」と分かちがたく結びついているのが「各々その処を得」という世界観です。これもルース・ベネディクトの『菊と刀』などにより、階層社会への信頼と強要という、誤ったレッテル張りをされた世界観ですが、要するに各人があるべき場所を得て、美質を発揮するといったものです。これは力で支配する「覇者」への反発からなるものです。ちなみに「各々その処を得」というのは論語に出典があります。

 「強者による一方的な搾取ではなく、各人の美質を発揮する統治を求めること」が、どうして「皇徳の実践」とつながるのでしょうか。それは、皇室が「覇者」ではなく、神話とつながった「王者」であることに由来するのではないでしょうか。即ち、武力、金力に優れたものがすべてを支配する世界観は「覇者」のものであり、皇室のよって立つ世界観とは異なります。したがってそれに服従せず、「王者」の治をたたえることが求められるのです。

 もちろん、あらゆる統治に於いて、武力や金力の支えなしに成り立つものなどあり得ないという現実はよくよく踏まえておく必要があるでしょう。しかしそれは覇者への迎合を容認する理由にはなりませんし、例えば企業においても経営者の報酬が低く抑えられているように、社会的価値観、世界観に何らかの影響を与えるものと考えるべきでしょう。

 話がそれてしまい、ご回答になっているか不安はありますが、以上のように私は考えております。

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