国粋主義と社会主義―『国体と経済思想』増補― 三


 そんな堺利彦の告別式に参列して貴族院で問題になった議員がいる。永井柳太郎である。
 永井柳太郎は幼少の貧苦から身を起した人物で、国民の生活を容易にすることは社会政策の最大の目的だという信念を持っていた。弱きもの、貧しきもの、虐げられたものに対し同情し、その苦境を放置している政府や社会に心から憤る人物であったという(永井柳太郎編纂会編『永井柳太郎』26頁)。同時に世界における白人の専制を打破する必要があるという思想にも立っており、アジア主義的な思想も持っていた。頭山満を「興亜の父」と称えている。頭山をたたえるような思想の人物が堺利彦の告別式に参列し、弱者救済を主張するはずがないなどというのは、冷戦期のつまらない「常識」でしかないことがわかる。
 永井柳太郎は中野正剛と共に並び称される存在で、政治的にも共に行動することもあったが、中野が民政党を脱した時、永井は途中まで同志関係にありながら結局脱党しなかった。
 戦時動員は国民化を強いるが、それに応じた人が一概に権力にこびた、堕落した人物だとは思わない。社会大衆党は昭和十二年の総選挙で大勝利し、議席を倍増させた。その後支那事変が激化すると社会大衆党は国体を強調するなど「右旋回」していく。それを堕落のように云う向きも当時も今もあるが、私はそうは思わない。永井も民政党を解党させ、大政翼賛会に合流させるのに大きな役割を演じていたが、永井は政党が選挙本位になる結果、財閥と結託して金権政治なることを憂いていた。また、永井は、アダム・スミスが各個人の利益を追求すれば、自然と利害関係が調整されて国家の利益となることを主張したことを批判し、各個人が最大の利益を追求しても国家の利益とは重ならないばかりか、むしろ国家の最大利益とは矛盾する旨主張していた(岩本典隆『近代日本のリベラリズム 河合栄治郎と永井柳太郎の理念をめぐって』263頁、註(6)~(13)参照)。
 永井や社会大衆党などは「自由」よりも「平等」を重んじ、それを達成するためには時に軍部と連携することも厭わない傾向があった。それは『暗黒日記』の清沢洌や「粛軍演説」「反軍演説」の斎藤隆夫など、戦前自由主義者と呼ばれている人が軍部に批判的である一方、往々にして経済格差の解消に冷淡だったことと好対照をなしている。

 経済格差や貧困に苦しむ同朋を救おうとする論調は左派的とみなされやすいが、階級闘争によってそれの解決を図ろうとするのか、それとも道徳や人々の連帯によって理想の社会を実現していこうとするのかによって、議論は大きく異なる。後者であった場合、左派調だという先入観を抜きにすれば、いわゆる保守派も共感できる議論となりうる。
 その代表例が賀川豊彦である。賀川は貧民窟で生活した体験を自伝的に『死線を超えて』という本にまとめて広くその思想が知られることになった。賀川は、階級闘争は民族自滅の近道であると考えていた。その思想からときに当時の無産政党や労働組合からも期待されているが、時期によって近づいたり距離を置いたり様々である。賀川は耶蘇教徒らしく人々の魂の救済を志したが、それは生活苦からの解放を後回しにすることではなかった。大東亜戦争には協力的で、皇室を敬う心も篤かった。
 余談ながら賀川豊彦には仏教や神道より耶蘇のほうが高尚であるといういやな側面も持っていたり、愛国者の割に国境なんかいらないと言い出したりするよくわからないところもある。

(続く)

コメントを残す