人生の行き先について


 人生は、旅に例えられる。生きていくことは、あてもなく果てしない道を歩いていくことである。どこを目指し旅を続けていくのか、誰かに決めてもらうことはできない。目指す場所があれば、何もなく放浪するよりははるかにその旅は有効なものになるに違いない。だが、目指す場所が何処かなど、どうして初めから知り得ることができるだろうか。あるいは、ここを目指すなどと明確に言い得るものが、本当に目指すに足る場所なのだろうか。わからないから知りたいと思うのであり、あらかじめわかっている場所にたどり着くことが人生の旅路の目的地であるとは思われない。人智で計り得ない深みに到達するしようと思うことこそ、心の旅ではないだろうか。

 だとすると、その目的地は人智では計り得ないのだから、永遠に到達しないということになる。到達し得ない目的のために、我々は日々さ迷い歩くのだろうか。

 世の多くの死は無駄死にであったかもしれない。「目的地」に到達し得た人生など、ごく限られたものだからだ。しかし、目的地に到達し得ない人生を無駄だと言ってしまうことには、やはり抵抗感が残る。

 人生には、苦しみや悲しみ、不安、憤るべき様々な出来事が絶え間なく襲い掛かってくる。喜びや楽しみなど、この苦しみや悲しみの合間にある束の間の平穏に過ぎないのかもしれない。
 自殺するか生きるかは、一息に死ぬか、真綿で首を絞められて死ぬのかの違いに過ぎないと、悲観的になる日もある。だが、真綿で首を絞められる人生の中でも、ふと人間の温かさや、先人の残した珠玉の一節に触れることで、まだ生きていけると思うことができる。そんな心の動きが、世知辛い灰色の風景の中の、一輪の鮮やかな花である。

 深海の底で誰にも生きているのか死んでいるのかも知られぬまま、ひっそりと暮らしていたい。私の存在など風に吹かれてどこかに吹き飛ばされる塵芥である。そんな思いは心の中に常にあり続けている。一方で、このままで終わりたくないという感情もまた、私の中にあり続ける。しかし、このままで終わらず、一体どこに行くというのだろうか。絶望しているのでも落ち込んでいるのでもない。ごく自然に疑問に思われて仕方ないのである。

 何か自分で行く先を決められるなどと言うのも、自力救済にかぶれた思い上がりに過ぎないのではないか。流れ着くままに流れて見せよ。流れ着いた先が、人生の旅路の目的地である。

「人生の行き先について」への2件のフィードバック

  1. 究極的には人生に目的などないですが、昔宮台真司が「終わりなき日常をまったり生きる」
    と賞賛した少女たちがみなメンヘラになつてしまつたやうに、何も目的がなければ感覚的刺激にまかせて刹那的に生きるしかなくなつてしまひます、それでは多くの人は耐へられないからこそあえて目的を作らうとするのでせう…、吾人は最近日本国家における国民を巻き込んだ大きな物語といふものの確立を考へていますが「神なき時代の宗教」といはれるだけあつてナショナリズム的なものも人間に目的と役割を与へてくれるものです、企業や組織での地位とちがひ、国民であればそのアクターになる資格があたへられるといつてもよいでせう、そのやうなまっとうな物語がなければナチズムや連合赤軍、最近では在特会のやうなグロテスクな物語が代替してしまひます…
    最後少し記事の趣旨とずれて申し訳ない。

  2. トライチケさん
    ナショナリズムは人間に目的と役割を与え、死を意味づけることで死者を永遠の存在とみなす側面があります。
    大きな物語の確立は、人間は即物的な利害関係のみに生きているわけではないという観点からも求められているのではないかと思います。

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