改めて国家とは何か 六(終)


 労働力は、それが人間存在と関わり合いが深い故に、元来商品になり得ないものだ。だが近代思想はそれを商品化することを要求する。労働力を商品とした人間は、家族、共同体、民族などから断絶させられる。即ち、人間らしくあることを失わされる。ナショナリズム、そして信仰はそれに対する抵抗の拠点となりうる。柄谷は「別の災禍をもたらす」とこうした考えに批判的だが(『世界共和国へ』151頁)、私にはこうしたナショナルなもの、そして信仰は人間存在の根幹であると考えており、失ってはならないと思う。

 資本主義、共産主義、そしてイデオロギーとしての民主主義は国境を超えることが前提となって動きつつある。したがって、その負の側面を防止しようという議論も国境を超えた観点から、となりがちである。ピケティが国際的な資産課税を主張することなどが典型である。しかし実際は国境の観念は厚く、有事になればすぐ国家の論理が顔をのぞかせる。グローバル市場などというのは平穏な時代のみ成立する幻想世界のようなものだ。規制緩和のような政府が自らその権力を放棄しようとする行為さえ、どの権力をどの産業に有利なように放棄しようかという政府権力の影響力を強めようという行為である。

 経済に係る世の問題は分配の問題だともいえる。社会における富をどう分配するのか。富を齎したものが多く受け取るのか。それとも社会の構成員が公平にその果実にあずかるのか。突き詰めればこの二つのどちらかに収斂される。また、今後得られるであろう富をどう分配するのかも含めて、このことは考えられなくてはならない。だが、そもそも「成果を分配できる」と考えること自体、個人主義が明確に確立していなければできるものではない。
 政府は富を再分配する。再分配は元来共同体でなされるべきものだ。共同体における再分配は互酬関係である。政府の再分配は人々の相互の互酬関係を立ち行かないものにする恐れがある。儒学は伝統的に政府が人々に干渉することを嫌い、税金すらも少ないことを理想とする。ではそれは今どきの「小さな政府」を志向するものであったか。全く異なる。「小さな政府」は分配を市場に期待するものだ。儒学的な善政は政府が干渉せず共同体の互酬関係にゆだねる思想である。これは政府による強権的な再分配を志向する欧州型社会民主主義とも全く異なるものだ。欧州型社会民主主義は政府が分配を容易にするために、金銭的な解決が図られやすい。要するに困っている人にはカネを配って援助しようというのである。直接的にカネを配る形式ではなくても、要するに金銭的に便宜を図るという姿勢は一貫している。だがそれは、拝金主義的態度であり、資本主義が孕む本質的問題を何一つ克服していない。そして、共同体を破壊するという大きな問題がある。
 儒学は、「人間と人間の関係を「仁」に基づいて建て直す」ものであり、「氏族共同体を回復する」ことであった(『世界史の構造』247頁)。それは同時に資本及び政府に破壊された共同体と互酬原理の回復を図る「ロマン主義」(『世界史の構造』342頁)とも目的を同じくするものであった。それは「資本」と「政府」を「ネーション」の観点から批判することにつながっていく。

 柄谷は、資本主義を国家を以て抑えようとする動きは、国家を強力にするが、自己存続のために国家は資本主義を呼び戻そうとする。その認識を踏まえて資本主義の揚棄は国家の揚棄をもたらすものでなければならないという(『世界史の構造』458頁)。たしかに柄谷の言う通り政府の力で資本主義を抑えようとしても、政府は自己存続のために資本主義を呼び戻そうとするのかもしれない。だが、政府が自己存続のために国の文化や歴史、民族の誇りや伝統的共同体を破壊しようとすれば、必ずそれらに報復され、揺り戻しを余儀なくされる。国家と政府を混同して、単なる統治機構だとみなしてしまえばこの原理はわからなくなる。国家が資本主義に傾きすぎることは単なる自己破壊であり、そのようなことはできるはずがないのだ。
 もちろん、伝統的共同体の再活性化は、政府、あるいは行政と言い換えてもいいが、そうした統治機関によるだけでなく人々が守り支えていくものである。行政に依存するだけではこうした伝統が再生されないことは言うまでもない。その意味で伝統を重んじるものは○○党がどうしたと言った政局的議論に収まらず、より広い次元で物事を論じていくべきではないかと思う。私もできているかどうかはわからないが、少なくともその必要性を認識するものである。
 一方で、民族文化は、権力により守られる存在である。文化だけの民族性などあり得ない。軍事力や経済力で保障されてこそ、民族文化は存続を許される。国家と国家は結局最後は力と力の争いになる。権力なくして文化や民族の誇りは、なかなか維持できないだろう。政府を持った歴史のない民族文化は、往々にして他の文化の支配を甘んじなければならなくなった。これは価値判断を挟む余地のない現実として受け止められなければならない。

 国家は共同体同士の関係の中で常に自他の線引きを確認させられるのであって、仮令鎖国をしていたとしても、他国とまったく無関係になることはできない。しかしそれは自国の文化や歴史を放棄することとは異なるはずだ。
 国民的連帯は、国際的連帯と対立するものではない。八紘一宇とは国際的連帯を説いたものであり、もちろん情勢にもよるが、国際的連帯を欠いた国民的連帯もなければ、国民的連帯を欠いた国際的連帯もあり得ないのである。
 むしろグローバリズムと称して自国の経済的動機を他国に押し付ける態度のほうがよほど国際的連帯性も、国民的連帯性も欠いている。

 今回私が書いてきたことは柄谷行人の国家論が大いに刺激となっている。だが本連載は柄谷の国家論の礼賛でも批判でもなく、柄谷の議論を触媒として私が想うことを記しておいたまでのことである。ご了承いただきたい。

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