共産主義か資本主義かにかかわらず、近代はあらゆるものに世俗化、大衆化が進み、便利になる反面陳腐化していった。なかでも知識に対する蔑視感情は強く、そんなもの得たところで一円の得にもならないと教育をバカにする声は産業界を中心に起こっている。ならば中卒人材を採用すればいいだけの話なのだが、そうならないところが不思議でならない。
bounan2 のすべての投稿
思想という音叉
實行とならぬ思想は無價値だと云ふ言葉は屢々耳にするところである。併しこの言葉の意味は隨分粗雜で、その眞意を捕捉し難い。若し實行とは主觀が客觀(人及び物)に直接に働き掛ける事のみを意味するならば、或る種類の思想は本來實行となるまじき約束を持つてゐる。さうして實行とならずともその思想は決して無價値ではない。若し又實行とは主觀内の作用が他の主觀作用を――一つの思想感情が他の思想感情を――喚起する事をも意味するならば、凡ての眞實なる思想は必然的に實行となる。世界の何處にも實行とならぬ思想はあり得ない。
(三太郎の日記第二)
思想は音叉のようなもので、人から人へと共鳴していくものだ。仮に具体的な行動を要求するものであったなら、それはアジテーションであって思想ではないだろう。
保身の思想と売国
例えば中共には数々けしからん面がある。だが、中共はアジアの覇権や国際外交の席巻に向けて日々軍事外交努力を惜しんでいない。一方我が国は官民あげて移民や外国人観光客を呼ぶことばかり考え、外交は対米追従の姿勢を崩そうとしない。世界が中共をみることがあっても日本をみることがないのも当然だ。
忠と孝、そして東洋精神
忠と孝はともに儒教において重んじられた概念である。忠は主君に、孝は親につかえる概念であり、目上の者への隷従を強いるものだと批判されたこともあった。だが、本来の儒教における忠孝は、そのようなものではない。父母を愛するように、君主への敬意をもつ。君主も我が子に対するような慈愛をもって国民に対する。それによって世は治まるという考えである。
「アジア」と農・自然・信仰
「アジア」とは単に地理的な名称ではない。アジアには草花のにおいがする。土のにおいがする。土に対する愛情は人間の本能である。われわれは日本人の血をうけ日本人として生まれたがゆえに、日本の国土を愛する。そしてそこから育まれた文化や文物を愛する。しかし近代化はそうした愛着を捨て去る方向へと、人々を誘おうとする。都市化、資本主義化、機械化、電子化すればこそ、そこから切り捨てられていった文化に思いを引かれることになる。
カルロスゴーンの逮捕と外国人労働者問題
カルロスゴーンが捕まった。彼はルノーから送り込まれた人間で、日産の日本幹部の接待漬けにあい、贅沢を覚えさせられ、その裏でいつでも切れるよう証拠を握られていた。ゴーン追放万歳と手放しで喜ぶ訳にはいかない。大企業幹部の悪辣陰険な権力闘争の風潮はそのまま残された。
ゴーンが去ったところで、ゴーンが残したCEOに高額報酬が集中し、現場に低賃金を求める体質は変わらないだろう。これは日産や自動車業界に限らない、社会全体、世界全体の問題だからだ。日産にはこうしたわたしの見立てをいい意味で裏切ってくれることを期待したい。
歴史研究と百田尚樹『日本国紀』について
歴史において重要なのは先行研究を踏まえ、この研究にいかなる意味があるのか明らかにすることであろう。史料集は歴史ではない。ただし先行研究も何もないところから開拓しなければならないときもある。そのときは現代的関心も重要である。
行き詰まりの正体
既存の俗流経済論は、経済における政府権力の存在をほとんど無視することで成り立っている。政府権力は、時に国民を守り福祉を提供し格差を減少させるが、時に一部商人と結託して一部の人間の利権のために動くことがある。
現代の経済に関するメモ
・現代はあらゆることにリアリティーがない。信仰心も弱く、共同体は解体され、会社ではいつでもクビにされかねない部品でしかなく、家族はバラバラである。近代化が進むとともに、人生の選択肢は増えたが、その代わり人生に対する希望が失われていった。
田尻隼人『渥美勝伝』より
田尻隼人『渥美勝伝』の中に「戯曲桃太郎維新旗」が収録されている。その一節を引用する。
皆さん、わが国、今日の状態は、あらゆる方面から観察して、それが決して、有り得べき真の日本の姿ではないといふことを、痛感せずにはゐられないのであります。今や、仏教、儒教、キリスト教以外に明治初年以来、わが国に発達してきたところの物質文明あり、社会主義あり、資本主義あり、自由主義あり、自然主義あり、それらはもちろん、新時代のおのづからなる要求によつて発達したものであり、従つて採るべき長所の多々あつたことは云ふまでもないのでありますが、いづれも西洋流の個人主義に立脚するものであり、わが国情、伝統を抹殺して顧みないものがあるのであります。その余毒の及ぼすところ、つひに日本人が、日本人として持つべかりし本来のイノチ、タマシヒ、ミコトを失つてしまつたのであります。広瀬中佐は―おれの頭には、世に二つとない尊い守り本尊をいただいてゐるといはれたさうでありますが、キリスト教徒は、この守り本尊は、キリストの信仰であるといひ、仏教徒は釈迦の信仰であるといひ、儒教においては、これを仁の道であるといひます。またカントの流れを汲むものは、粛然たる良心の絶対命令であるといひます。唯物史観を奉ずるものは、功利的価値に帰せんとするものであります。各々おのれの信ずる主義、信仰の上に、これを持ち来ることは当然であつて、敢て怪しむに足らぬのであります、が、然し、日本民族本来の信念によりしますれば、この世に二つとない守り本尊なるものは、まことに畏れ多きことでありますが、 天皇陛下の大御稜威以外の何ものでもないのであります。(中略)日本臣民たるものが、この尊い守り本尊を私することは断じて許さないのであります。それと同様に、政治家が、政治を私し、財閥が財産を私し、労働者が労働を私しすることの許されないのは当然であります。(222~223頁)