歴史研究と百田尚樹『日本国紀』について


歴史において重要なのは先行研究を踏まえ、この研究にいかなる意味があるのか明らかにすることであろう。史料集は歴史ではない。ただし先行研究も何もないところから開拓しなければならないときもある。そのときは現代的関心も重要である。

三宅雪嶺の祖父三宅芳渓は頼山陽の弟子であった。雪嶺本人の叙述にも頼山陽の影響はみられる。雪嶺の盟友陸羯南も頼山陽の影響を指摘されている。雪嶺や羯南といった幕末生まれの明治人は水戸学や頼山陽は当然の教養であったと思われる。彼ら明治の保守派には西洋保守主義や近代ナショナリズム論の影響を指摘するのが相場であるが、こうした江戸時代の思想の影響も無視できない。
百田尚樹『日本国紀』を読んだ。この本、古代から現代までを振り返っているのだが、第十一章大東亜戦争まで(正確にいえばその直前の南京大虐殺コラムまで)、高校の日本史教科書とウィキぺディアをまとめたレベルで、あえて日本通史にする必要があったのかという感じである。営業戦略以外なかったのではないか。おそらく百田氏は戦前右派や幕末の尊皇思想をほとんど知らず、興味もないのではないか。共産主義国憎しから始まる反共史観というか、その議論の寄せ集めだからその前の時代がとたんに何も語れなくなるのだ。この反共史観、最近では江崎道朗氏が盛んに論じている。江崎氏はあえて戦前右派と距離を置き、反共一本槍で歴史を組み立てている意図を感じるが、百田氏はどうか。
一部でこの本のあら探しをして糾弾する向きもあるが、百田氏らの「思想的根っこ」を考えるほうが生産的ではないか。
私自身は百田江崎らとは違って、戦前右派、幕末尊皇思想と思想的につながりたいと考えている。だからこそ昨今の新自由主義やグローバル経済批判もするし、そこから近代の超克的議論にもなる。むやみに競争をあおり、同国民で格差をつけたがる風潮にも納得いかない。チェゲバラやカストロに(意見の違いは感じつつも)共感したりもする。
百田江崎はそうではない。「共産主義国との歴史戦に負けるな」と旗を振るばかりで、現状変革の志は弱く、政権批判の態度もない。日本をどうしたいかという理想もないから政権批判など「国内で共産主義国に共感し、日本の足を引っ張る連中」程度の認識しかないだろう。彼らは体制派ではあるだろうが、果たして日本国体を守り継ぐ人間であるかは極めて疑問である。

「歴史研究と百田尚樹『日本国紀』について」への2件のフィードバック

  1. 江崎氏については、戦前の右派思潮についても、たとえば小田村寅二郎らが率いた日本学生協会や精神科学研究所については言及していたような(うろ覚えなので、間違っていたら申し訳ありませんが)。そして、小田村らの運動が、蓑田が顧問格の慶大精神科学研究会と関りが深く、原理日本社の流れも汲んでいる以上、伝統右派との関係性が皆無とまでは言えない気がします。反共=戦後的、非伝統右翼という理解は大筋では確かにそうかもしれないですが、日本学生協会や精神科学研究所のような「例外」もあるわけで、どう解釈するか難しいところだと思います。

  2. @名無しさん
    コメントありがとうございます。
    おっしゃるとおり江崎氏にも戦前思想への言及があると思いますので説明不足でした。
    簑田や小田村には尊皇思想の影響をもったうえでの反共ですが、江崎氏にはそういう思想の影響はほとんど感じられません。
    もっともこれは印象に過ぎませんので異論がある方もいるかもしれませんが。

コメントを残す