「アジア」とは単に地理的な名称ではない。アジアには草花のにおいがする。土のにおいがする。土に対する愛情は人間の本能である。われわれは日本人の血をうけ日本人として生まれたがゆえに、日本の国土を愛する。そしてそこから育まれた文化や文物を愛する。しかし近代化はそうした愛着を捨て去る方向へと、人々を誘おうとする。都市化、資本主義化、機械化、電子化すればこそ、そこから切り捨てられていった文化に思いを引かれることになる。
かつて戦前のアジア主義者は、日本・シナ・インドのアジア世界に共通する「基盤」を追い求め、研究を進めていた。それは自治、村治、スワラージという名前で呼ばれたものであった。新嘗祭のような収穫に感謝する祭りは、シナ、朝鮮、台湾、東南アジアに似通った形で存在している。実はそうした土着文化的基盤は、ロシアやヨーロッパ世界にさえ存在した、社会的連帯のようなものであった。このとき、アジア主義はアジア地域に限定されるものではなく、より人間の根幹に還っていこうという衝動となった。そうした思想が目指した共同社会は、アニミズム的で人と人との和を大切にし、助け合いや寛容といった美徳を持ち、自然とともに生きる敬虔さを重んじるものとなった。
アジアの共通基盤を考えてみよう。例えば「東洋医学」というものがある。近代医学が、病巣を手術で取り去ったり、ウイルスを殺したりするのに対して、東洋医学は体が本来持つ免疫作用を活性化させるものである。そういったものだから確たる定説はなく、具体的な治療は人によってさまざまな見解を持つことになったが、いずれにしても人間が本来持っている力への信頼が、そこにはある。私は医学に詳しくないのでこれがどれ程メジャーな意見かわからないが、東洋医学においては風邪すら忌むべきものと見ず、体が悪い状態から自然に立ち直ろうとするときに現れる一形態を「風邪」と見た。したがって風邪が治ったあとはむしろ風邪を引く前より体調は良くなっているのだと考えられた。これははるか昔の話ではない。今でも薬の大部分は漢方だというではないか。漢方は実は「漢」ではなく日本式だという意見もある。だがそれを「漢」に託した心情を思うべきではないか。
戦前に目を移せば、こうした東洋医学的な、人体や人間本来の力への賛美をやや神秘的に表現する人物がいた。三井甲之は「手のひら療治」といい、医者が手のひらをかざすことで患者の悪いところを治すという療法に傾倒し広めた。西川光二郎は断食療法や「土浴」することで健康になれると信じた。いささか怪しいカルト的なにおいがするが、いずれにせよ人間や自然が本来持っているはずの力に注目するなかで、こうした治療に傾倒することになったものと思われる。
そこまで突き抜けずとも、ひとりひとりが先祖から「いのち」をいただき、その神霊を子孫に伝えていくことは、神道でも儒教でも仏教でも言葉は違えど共通した理念といえよう。
人間として当然の道をつくすこととは何か。それは経済発展だけではないのではないか。他の生き方はないのか。家族は、社会は、国は?そうした問題意識が人をとらえた時代があったのである。戦前とは、ある意味真面目な時代であった。影山正治も葦津珍彦も赤尾敏も若い頃社会主義への強い関心を抱き、その後日本主義に還っている。義侠心を持つ青年のたどった経路である。赤尾は「自分たちは天に選ばれた公務員だ」と述べたそうだが、そういった自意識が彼らの行動を支えていた。
右翼も左翼も原始的な共同体に戻る想いが濃厚に存在している。にもかかわらず運動の過程でアメリカやソ連といった大国の意向に振り回されたり、活動資金確保のため営利に走ったり、カネを持つ機関の太鼓持ちに堕したり、大いに迷走することとなった。そのすきに近代化は着々と進んでいった。
戦前共産主義から日本主義まで幅広く思想が変転した人物に赤松克麿がいる。赤松が最後にたどり着いたのは「東洋」であった。そこでは近代文明の旗手ソ連とアメリカを同時に批判し、近代文明の病理を追及した。アメリカ文明とソ連文明は兄弟であり、どちらが勝っても人類社会に希望は現れない。資本主義も共産主義も、個人と個人、階級と階級が争う憎悪と闘争にみちた社会を作ろうとする。そこでは国家は調和されたひとつの協同体とならない。魂の救いは東洋思想にあると論じた。日本は明治維新そして敗戦で西洋文明を取り入れざるを得なくなり、いままで国民が持っていた内面的な感性が傷つけられた。人間社会の問題は、資本を私有から公有に変えれば済む問題ではない。人間悪は心のうちに存在する。金銭欲と権力欲から解放されない限り、真の人間性を獲得することはできない。
戦後日本人は東洋に生まれたにも関わらず東洋のことを軽視しすぎる。東洋思想はわれわれの思想的背景の根幹である。
いま人類社会は風邪を引いたも同然のひどい状況に立っている。しかしこれは人類が悪を克服する一過程であると捉えれば、希望がないわけではない。
してみればいまは人類が引いた近代という風邪を重篤にしてしまうか、本来の治癒力を発揮し近代を克服するか、まさに分水嶺に立っているといえよう。