行き詰まりの正体


既存の俗流経済論は、経済における政府権力の存在をほとんど無視することで成り立っている。政府権力は、時に国民を守り福祉を提供し格差を減少させるが、時に一部商人と結託して一部の人間の利権のために動くことがある。

社会福祉をおもんじる立場も市場競争をおもんじる立場も、どちらも物質的充足を人生の目的としていることは変わらない。だが、物質的充足は人生の手段であっても目的ではないのではないか。要は金銭的な意味でなく何を成したか、何を残したかが重要ではないか。
かつて労働とはそういう自己実現的側面があったが、分業化マニュアル化が進めば進むほど、労働は苦痛で生きるために仕方なくせざるをえないことに変わっていった。
戦後日本は自ら戦争を行う気概を失った。憲法前文及び九条は、平和主義の美名のもと実は米軍の保護下におかれる自己正当化にすぎない。しかし自ら国民を守る気概のない国が経済的にも国民生活を真剣に守るはずがない。そのような政府など信用に値しないが、政府への信頼が奪われてしまえば、人々はますます目先の自己保身に汲々とし、物質的利益に固執するようになってしまう。
資本主義だろうと共産主義であろうと、人々を土や文化から引き剥がそうとする。土や文化から離れた人間とは、共同性を失った人間である。都会も田舎も風景が等質化され、ふるさとはただの出身地でしかなく、郷愁をもたらす存在ではなくなってしまった。こうした事態をもたらしたのは開発を無条件によしとする発想であろう。開発は、利権にとらわれた政治家(つまり政府関係者)が進めてきたことである。
卵が先か鶏が先かの循環論法になってしまいがちだが、政府=人心=開発の関係をみていくことは重要であろう。そして政府=人心=開発の関係を支えているのが進歩主義である。進歩だ発展だとそんな軽薄な概念にうつつをぬかしている隙に、われわれの人間存在が希薄化してしまっている。現代の行き詰まりの正体は、およそこのようなものではあるまいか。

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