忠と孝はともに儒教において重んじられた概念である。忠は主君に、孝は親につかえる概念であり、目上の者への隷従を強いるものだと批判されたこともあった。だが、本来の儒教における忠孝は、そのようなものではない。父母を愛するように、君主への敬意をもつ。君主も我が子に対するような慈愛をもって国民に対する。それによって世は治まるという考えである。
儒書の孝経は、儒教の基本的な本の一つであるが、諫言の理論的根拠となっている。臣下は君主が誤っているならば、必ず諫言をしなくてはならないのである。また、君主は己の地位に甘んじず、徳を磨くことを忘れてはならないとされた。
天皇の権威を笠に着てものをいうような態度は、儒教においても望ましい態度ではないのである。
また、孝経は古き良き東アジアに広がっていた死生観、宗教観と密接に関わっている。それが宗廟と社稷である。宗廟は君主が天地を祀ることであり、社稷は諸侯が土地や穀物の神々を祀ることである。どちらも食糧や祖先への感謝をあらわすものであり、重要視された。
祭祀にはそれにふさわしい時や場所がある。それでこそ神に誠を尽くせるのである。
「経世済民」とは、まさにこの君臣が相愛の感情で結ばれ、祭祀を重んじ、世が平穏に治まる状態を指したが、近代以降はエコノミーの訳語として「経済」が使われ、民どうしが相争い、金銭第一で祭祀はおろか社会も文化も考慮せず、水も自然も人も土地も、すべてのものに値札がつけられ売られることとなった。特にこの霊的側面が忘れられた。会社は公器ではなく、従業員、取引先、顧客を搾取し肥太るばかりの組織となった。
農を重んじ民生に配慮するのが天皇統治の基本ではなかったか。古代天皇の詔勅は忘れられたのか。
右派は政府のご用聞きに堕し、左派は国際共産党のために奉仕する存在に成り果てた。現在の日本はこれほどひどい状態にも関わらず、右派と左派は分断されたままである。足尾鉱毒事件に右派も左派も憤りともに運動を進めたり(谷干城、三宅雪嶺、陸羯南、幸徳秋水らが言論で訴え、田中正造の碑文は頭山満が書いた)、老荘会でともに意見交換をしたりすることはなくなった。亡国の兆しと言ってよかろう。
天地の義を明らかにして王道楽土の建設に貢献するのは、東洋思想の真髄である。東洋精神を忘れた現代社会のていたらくは、かえって古き良き東洋精神の素晴らしさを再確認する良い機会ではないか。