近代への抵抗


共産主義か資本主義かにかかわらず、近代はあらゆるものに世俗化、大衆化が進み、便利になる反面陳腐化していった。なかでも知識に対する蔑視感情は強く、そんなもの得たところで一円の得にもならないと教育をバカにする声は産業界を中心に起こっている。ならば中卒人材を採用すればいいだけの話なのだが、そうならないところが不思議でならない。

私自身は心ならずも会社員として働いているが、働かないことに対してまるで犯罪者のように捉える風潮は根強い。「働かざる者食うべからず」はレーニンの言葉だったが、資本主義共産主義共通の世界観である。
本当は山で木の実をとったり、川で魚をとったりしてぶらぶらと暮らしてもよいはずだが、そういう生き方を政府も社会も許さない。農林水産業というひとつの事業者としてくくりたがる。そこから溢れたものは浮浪者として排除する。浮浪者だと安定しない、冬は寒いし夏は暑い、といったリスクを甘受するならば一つの選択肢といってもよいはずだが、なぜだか排除したがるのである。会社員の方が浮浪者よりえらい人間であるかのような空気がある。
浮浪者も排除したし、歴史を動かさんとする浪人をも排除した。個々の利益を追求するのに夢中で、社会の根本的変革を望む者、社会からあぶれる者を置き去りにした。
あぶれ者を厚遇しろなどと言っているわけではない。無理やり警察権力で排除する必要はないのではないかということだ。
近代的価値観は行き詰まりをみせている。その反省が必要である。権力からも遠く、民衆からも日陰者のようにみなされる浪人あるいは草莽の生きざまにこそ、注目しなければならない。

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