田尻隼人『渥美勝伝』の中に「戯曲桃太郎維新旗」が収録されている。その一節を引用する。
皆さん、わが国、今日の状態は、あらゆる方面から観察して、それが決して、有り得べき真の日本の姿ではないといふことを、痛感せずにはゐられないのであります。今や、仏教、儒教、キリスト教以外に明治初年以来、わが国に発達してきたところの物質文明あり、社会主義あり、資本主義あり、自由主義あり、自然主義あり、それらはもちろん、新時代のおのづからなる要求によつて発達したものであり、従つて採るべき長所の多々あつたことは云ふまでもないのでありますが、いづれも西洋流の個人主義に立脚するものであり、わが国情、伝統を抹殺して顧みないものがあるのであります。その余毒の及ぼすところ、つひに日本人が、日本人として持つべかりし本来のイノチ、タマシヒ、ミコトを失つてしまつたのであります。広瀬中佐は―おれの頭には、世に二つとない尊い守り本尊をいただいてゐるといはれたさうでありますが、キリスト教徒は、この守り本尊は、キリストの信仰であるといひ、仏教徒は釈迦の信仰であるといひ、儒教においては、これを仁の道であるといひます。またカントの流れを汲むものは、粛然たる良心の絶対命令であるといひます。唯物史観を奉ずるものは、功利的価値に帰せんとするものであります。各々おのれの信ずる主義、信仰の上に、これを持ち来ることは当然であつて、敢て怪しむに足らぬのであります、が、然し、日本民族本来の信念によりしますれば、この世に二つとない守り本尊なるものは、まことに畏れ多きことでありますが、 天皇陛下の大御稜威以外の何ものでもないのであります。(中略)日本臣民たるものが、この尊い守り本尊を私することは断じて許さないのであります。それと同様に、政治家が、政治を私し、財閥が財産を私し、労働者が労働を私しすることの許されないのは当然であります。(222~223頁)