思想という音叉


實行とならぬ思想は無價値だと云ふ言葉は屢々耳にするところである。併しこの言葉の意味は隨分粗雜で、その眞意を捕捉し難い。若し實行とは主觀が客觀(人及び物)に直接に働き掛ける事のみを意味するならば、或る種類の思想は本來實行となるまじき約束を持つてゐる。さうして實行とならずともその思想は決して無價値ではない。若し又實行とは主觀内の作用が他の主觀作用を――一つの思想感情が他の思想感情を――喚起する事をも意味するならば、凡ての眞實なる思想は必然的に實行となる。世界の何處にも實行とならぬ思想はあり得ない。
(三太郎の日記第二)

思想は音叉のようなもので、人から人へと共鳴していくものだ。仮に具体的な行動を要求するものであったなら、それはアジテーションであって思想ではないだろう。

「カネさえあれば」とついつい思ってしまうが、カネは道具であって目的ではない。すなわちカネをどう使うかが重要なのである。
ここ二、三十年で時代精神を問う「文学」がなくなり、ただ娯楽として消費するためだけの「小説」に置き換えられていった。そこでは正面から人生観や歴史観、社会への問いといったものは扱われない。
だが本当は国民社会なくして人生はなく、国土や自然、文化なくして国民社会はあり得ないのではないか。すなわち文学が社会への問いを失ったのは、社会が解体され市場に置き換えられたのと対応しているのである。農林水産業は人類がいる限り続くものであろうが、文化や信仰と一体になった「農」は、もはや現代社会で消えかかっている。土と血によって紡がれる共同文化は、「農」なくして存在しえないはずだ。
そうした近代主義への対抗として、自らが培った文化、信仰、伝統へと回帰しようという衝動こそ、アジア主義である。アジア主義は功利主義と唯物主義の双方の流れに抵抗した。
アジア主義の思想はいまも響いている。

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