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河上肇という人物

昭和八年十月、マルクス主義者河上肇は懲役五年の思想犯として小管刑務所に着いた。このとき五十五歳。この年にして三畳一間の生活に甘んじることになったわけだが、意外にも河上は明るかった。便所は水洗だ。この便器をイスにして、洗面台を机にして河上は日々の記録をつけ出す。「これが向こう三年間のおれの幽閉所か。よしよし持ちこたえてみせるぞ!」
獄中で河上が愛読したのは陶淵明の漢詩であった。繰り返し繰り返し低唱し、その詩の韻律を味わった。その後は陸放翁(陸游)の詩を愛す。陶淵明も陸放翁も愛国詩人とも呼ぶべき存在である。同郷の吉田松陰を生涯敬愛した河上にとって、マルクス主義と愛国主義は両立するものであった。
河上は晩年、『自叙伝』で「私はマルクス主義者として立っていた当時でも、曾て日本国を忘れたり日本人を嫌ったりしたことはない。寧ろ日本人全体の幸福、日本国家の隆盛を念とすればこそ、私は一日も早くこの国をソヴィエト組織に改善せんことを熱望したのである」。
河上にとって、ナショナリズムとマルクス主義は両立可能なものであり、最後までナショナリズムを捨てることはなかった。
「愛国心というものを忘れないでいて下さい」。
河上はかつて島崎藤村に説教したこともあった。留学先で出会ったときに藤村が「もっとよくヨーロッパを知ろうじゃないか」と話しかけられた時に、答えたのがそれである。ヨーロッパに憧れる藤村に、内心ムッとする河上の姿がよくわかる。

振り替えれば河上肇は『貧乏物語』で、「人はパンのみで生きるものではないが、パンなしで生きられるものでもない。経済学が真に学ぶべき学問であるのもこのためだ。一部の経済学者は、いわゆる物質文明の進歩―富の増殖―のみを以て文明の尺度とする傾向があるが、出来るだけたくさんの人が道を自覚することを以てのみ、文明の進歩であると信じている」という。河上は、富さえ増えればそれが社会の繁栄であり、これ以上喜ぶべきものはないという考え方を批判した。道徳を衰退させる経済思想では理想の社会を作ることはできないのである。
さらに遡れば河上肇は大学卒業後、農科大学の講師について横井時敬の指導を受けた。そのときに書いたのが『日本尊農論』である。河上肇はそこで農本主義的議論を展開していた。河上の原初は農本主義であった。
若い頃から尊皇的発言を繰り返し、天皇への私有財産への奉還を主張する。同胞愛を説き、貧しき人を救うために自分が着ている服まで寄附してしまう。
「いかに無告の民を救うか」。
そうした草莽の志が、河上の義侠心を支配していた。
そんな河上の説く経済が、貧富の格差を野放しにする「自由競争」に甘んじるはずがない。
ひょっとしたら中流層を厚くしていく経済政策よりも、一握りのアイデアに満ち溢れた企業家が経済を牽引し、残り大多数の人間は彼らの手足となって働く方が効率的で豊かになれるのかもしれない。だがそれで望ましい社会は手に入るだろうか。また、同胞愛はあるだろうか。同胞の窮状に心を痛めずして愛国が語れるのだろうか。同胞愛は自己利益を超えたところにある。単に物質的豊かさだけではなく、社会を構成する者として、各人が居場所を持つことは効率よりも重んじられるべきことだ。
河上肇の生きざまに共鳴できるか。これが「愛国」と「愛政権」を分けるカギであるかのように思える。

土を忘れた民

明治時代、ありとあらゆるものに所有権が確定されていき、共同的なものが奪われていった。入会地は廃止され、山林は富者や国の所有物となった。谷の風景は、養蚕やタバコ畑に置き換えられたが、それらはやがて倒産した。リンゴなどの果樹園や、スキースノーボード、温泉などのレジャースポットに代わったりしたが、それもどこまでもつか。皮肉めいた言い方をすれば、荒廃し誰が所有者だかもわからなくなってしまえば、あるいは山林は元の姿を取り戻すのかもしれない。

自由、民主主義、経済成長―。そんなものが無告の民にとってどれほどのものか。自由、民主主義、経済成長さえあれば世の問題のすべてが解決し、みな幸せになるかのような物言いに、傲慢さはないか。
どこまでいっても道は舗装され、土を踏みしめる機会は極端に減っている。土を忘れた民は、いまはいくら豊かでも早晩滅びる。そのことを胸に刻むよりないはずだ。

日本再建のために

愛国者を自認する人が増えてきたが、それは中国、韓国、北朝鮮に強硬な言辞を吐くことにしかなっておらず、真に祖国の風土や文化、信仰、歴史、共同体に想いを馳せることには繋がっていない。あまつさえ愛国の名のもとにヘイトスピーチを囀ずるなど論外で、かの国の「愛国無罪」を嗤うことはできない。

真の愛国を考えたときに思い当たる一冊に、片岡駿『日本再建法案大綱』がある。
片岡駿は明治三十七年に岡山県津山市に生まれた。大正十五年に上京し黒龍会に入門。満洲に渡ったあと帰朝し「大日本生産党」や「勤皇まことむすび」に参画。昭和八年の神兵隊事件を起こした一員でもあった。
戦後は笠木良明や三上卓らとともに地方からの愛国自治運動を展開した。
片岡は占領遺制によって確立された「自民党幕府」を打倒すべき対象とした維新運動を主張した。
『日本再建法案大綱』はその書名からも想像されるとおり北一輝『日本改造法案大綱』を意識し、似通った叙述方を取っている。しかしその中身は農本自治思想に立脚したものである。思想的系譜としては権藤成卿→長野朗→片岡駿という自治思想の流れがある。
倒幕維新のためには国民自身の力によって維新政権を樹立しなければならない。救国のすべは「名も無き民の力を合わせる」以外にない。
維新とは建国の理想と古制の趣旨にのっとりながら、日本の原点に立ち返らんとする運動である。維新即復古であり、日本民族の世界観や信仰にのっとろうとすることが重要なのである。
祖先は不死の精霊であり、先祖の霊に申し訳の立つべき道統によらなければならない。
言うまでもなく日本は天皇の国であるが、君民共治の国でもある。天皇大権と国民自治とは互いに犯すべからざるものである。天皇においては社稷をおもんばかり、国民においては皇室の宗廟を永遠ならしめる相互尊重の精神によって日本国体は培われた。こうした相互尊重によって宗廟と社稷は一体のものとなるのである。
国家を支えるのは民族の不覊独立の精神である。現在の日本は亡国の危機に瀕しているが、亡国とは国土の消滅や国民の全滅だけを意味するものではない。目に見えない民族の魂が失われることをも意味するのである。
日本は農耕文化の国であり農耕と自然環境は切っても切れない関係にある。自然環境の回復を求めるのは、単なるエコロジー的発想に基づくものではない。戦後の日本人が敬神忠孝を忘れたことと自然破壊は無縁ではない。八百万の神々や穀霊を無視し、ビジネスに変えていった歴史が即自然破壊の歴史だからだ。現代人の生活は土と太陽の恵みは忘れられ、カネとコンクリートに支配された人工生活である。自然と人間が同胞(はらから)として共存できることこそが本来の「生活」なのだ。
土地公有の原理を確立しなければならない。公有とは朝廷に属するということであり、今日的意味での国有とは異なる。
貧困を絶滅させるためには資本主義が当然としている利潤追求を批判し、物質的利便性の向上と貧富の格差を当然と見なす風潮を根元的に見直さなければならない。
核家族化は祖霊を疎外する個人主義に基づくものである。老親は祖霊を拝するのである。
外国にもそれぞれの文化に培われた国体があり、その国体は相互に尊重されなければならない。各国の独自性を否定するグローバリズムとリベラリズムの近代思想はそうした国体を軽んじるものであり否定されなければならない。

アマゾンレビュー 高橋清隆『山本太郎がほえる~野良犬の闘いが始まった』

高橋清隆著『山本太郎がほえる~野良犬の闘いが始まった』についてアマゾンレビューを投稿いたしたしたので下記転載いたします。
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政治に絶望しかけている人へ

反ジャーナリストの高橋清隆氏の新著『山本太郎がほえる~野良犬の闘いが始まった』が刊行された。
高橋氏は「れいわ新選組」代表の山本太郎を「れいわブーム」が起こる前から全国津々浦々追い続けた人物である。
いくつかネタバレにならない程度に印象的だった一節をご紹介したい。
高橋氏が山本太郎に興味を持ったきっかけは、地元新潟での演説会であった。
高橋氏は両親の高齢化に伴い新潟に帰省していた。その際に山本太郎の演説をたまたま目にし、心打たれた。すぐに新潟での生活のための仕事をやめ、夜行バスで上京。山本太郎の遊説を追いかけはじめたのである。
高橋氏はビールケースに乗って演説する姿に、高橋氏の地元新潟県が生んだ政治家田中角栄との相似を見る。角栄も人が20人程度しか集まらないような雪深く交通の便が悪い場所でも、ビールケースに乗って演説を行った。YouTube等を活用する方が効率的であるにもかかわらず、あえて全国津々浦々遊説してまわる山本太郎の姿に、角栄の面影を感じたのだ。
現在のわが国では、「どうせ変わらない」という無力感が人々を支配している。「与党も支持できないが野党にも期待できない」という無党派層が多数派を占める。与党は経団連の使い走りであり、野党は連合の操り人形である。そんな中で、どこの団体の支持基盤も持たない、国民の支持だけが頼りの稀有な政治団体が登場したのである。それが山本太郎率いるれいわ新選組なのである。
日本人は、政治をあきらめていないか。しかし、政治でなければできないことはたくさんある。政治をあきらめかけている人にこそ、手に取っていただきたい一冊である。

いま日本精神を語る意義について

日本精神を語るとき、その日本精神論を説教的訓話とするのではなく、その日本精神にしたがって、日本をいかに再建するのかを見据えたものにしなければならない。

国家は政治、経済、道徳、歴史、信仰、文化、思想、風俗等の結節点である。国家は政府とは異なる。日本精神を取り戻すということは、こうした国家を取り戻すということでもある。
維新とは日本的変革であるが、それは日本の民族共同体の中心である天皇を戴く変革である。天皇を戴くということは単に大義名分を手にするということではない。ある階級だけではなく日本人全体を救うという証左になるのである。
日本人のための日本、アジア人のためのアジア、世界人のための世界でなくてはならない。グローバル大資本に専制される世界を認めるわけにはいかない。
日本の大地、日本の森、日本の海、そうしたものがもたらす恵みで生きていく。そうした自然との繋がりが希薄化した。地産地消への転換が急務である。
日本の変革は日本人を救うという偏執にとどまってはならず、ひいてはアジア、世界をも目指すべきものである。
AIの発達は人をどんどん雇わなくて良い方向に追いやる。その果てに待っているのは、AIが働き、その上前をピンハネする一部富裕層と、AIと競争しなければならない多数の貧民に分断された社会である。こうした時代の登場は、人間が本来持っている共同体機能を大幅に減少させる。
そうした時代風潮への防波堤として、各国の伝統精神に立ち返ることは重要なのである。

処士横議、草莽崛起

先日『維新と興亜』を創刊した。

いただいた感想の中に、「処士横議」という言葉があった。もはや現代人には耳慣れない表現だが、いい言葉だと思った。
「処士横議」とは処士、志士が同志と語り合うことである。
志士とは国事に志を持つ人のことを指す。ここでいう国事とは政策論や政局論のことではない。より根元的な、社稷を愛し守り抜こうという意志に基づく国家論を指す。
在野の志士を草莽といい、処士という。草むらの陰でひっそりと暮らしつつ、国を憂い、天下のために立つ。こうしたカネも要らぬ、命も要らぬ志士こそ、時の権力者はもっとも恐れるのである。
こうした志士が、現代ではいかに少なくなったことか。志士が守るのは社稷であり、国の大本であるが、時の政権や政体ではない。こうしたことさえ現代人には見えなくなった。
民族の生死の基盤、そうしたものへの希求と葛藤が、現代人にもっとも欠けている。
草莽が守るべき社稷と農耕とは、切っても切れない関係にある。
例えば大嘗祭の祈願の主旨は順徳天皇の時代のものが残っており、国内の平安、五穀豊穣、人々の救済であった。
右翼左翼などというつまらぬ区分でなく、国の大本に思いを致す志士でありたいものだ。
垂加神道には、日本人の死後の世界を描いた側面があった。死後は無に帰すという儒教的合理主義でもなく、因果応報輪廻転生の仏教的世界観とも違う意義を打ち立てたのだ。日本人として生まれたからには朝廷を守護すべく生き、死んでは天照大神を中心とする八百万神の末席となる―。これこそが垂加神道の世界観である。垂加神道者は、この世界観を仏教や儒教と対比するなかで自覚的に唱えていった。こうした垂加神道の世界観を受け継ぎ発展させたのが平田国学であった。少なくとも闇斎の時代の垂加神道には、まだ儒教や陰陽五行説の要素が濃厚であった。篤胤神学にはそうした要素がそぎおとされ、洗練されている。
先祖の霊はわれわれの身のまわりにあって、われわれをいつも守ってくれている。篤胤国学の特徴は幽冥論だが、篤胤の幽冥論は垂加神道の影響なくして考えられない。
平田篤胤は本居宣長の没後の門人と称したが、国学を学ぶより前に垂加神道を学んでいた。あえて本居の門人と称したのは営業戦略、運動戦略的側面が秘められているように感じる。その機微を、篤胤より後の世代はあまり継承しなかっただろう。
篤胤の歳上の弟子佐藤信淵は、家学をもとに平田国学の世界観を加えて大成させた人物である。信淵の学問のなかには明らかに農政論と人々の救済の視点が多分に含まれている。
平田国学が目指した祭政一致の国体とは、天皇が神に五穀豊穣を祈ることで人々の安寧をもたらす世界観なのである、
先ほども述べたように篤胤以降の平田国学は(本居国学もそうだが)、主流派は師説の継承に重きをおき、現世をいかにせん、といった志を失っていった。
しかし篤胤の蒔いた種は、エートスのように人々に広まっていった。
木曽山脈の奥、中津の国学者島崎重寛(正樹)の挙げた祝詞には、世の最大の罪として「天皇に射向罪」「異邦に心帰る罪」「百姓を虐げる罪」が挙げられている。神に祈ることは、百姓の生活の安寧と収穫への感謝なのである。この島崎重寛(正樹)こそ、島崎藤村の父であり、『夜明け前』の主人公青山半蔵のモデルである。
篤胤の弟子の一人に生田万がいる。生田万は館林藩に生まれた。館林藩の藩学は崎門学である(ただし晩年に山崎闇斎を批判して去った佐藤直方の門流であり、生田万も藩学を評価していない)。藩学に飽きたらないものを覚えた。生田万は陽明学を学び、直方とは違う崎門派本流の浅見絅斎『靖献遺言』を愛読した。「武家政治を除く」ことも主張していたという。さらに江戸で平田国学を学び篤胤の私塾気吹舎で塾頭となる。生田万は幕政批判で悲憤慷慨するようになり、篤胤からたびたび注意を受けるようになった。生田万は篤胤のすすめ(厄介払い?)もあり帰藩する。そこで藩政意見書『岩むす苔』を提出する。内容は非常に農本的なものであった。生田万の意見は容れられず、藩から追放される。
後に藩から許され、帰藩の許可は出たが、家は弟が継いでおり、万の居場所はなかった。
万は平田一門のつてで柏崎を訪れ、そこで国学を講じて貧民に食料を分け与えたりしていた。天保八年に大塩平八郎の乱が起こると、万も柏崎でわずかな手勢とともに立ち上がった。多勢に無勢で失敗し、負傷し自刃した。
篤胤は厄介払いで生田万を追い出してはいるが、高く評価していたようで、万の著書の序文を書くなど、追い出したあとも関係を保っていた。篤胤の営業戦略的に反幕府的思想は避けなければならなかったが、心情では共感していたのかもしれない。篤胤は万の死に深く同情し、万の決起に尻込みした門弟には冷淡な態度を取った。
草莽崛起の時代はもうすぐそこまで迫っていた。
さて、翻って現代日本である。新自由主義がはびこり、何事もカネではかられる忌まわしき世である。
日本型経営で発展してきたのが戦後日本であった。だが、人間信頼と共同体の絆を取り戻すのは日本型雇用の回復では不充分だ。日本型雇用は所詮企業の専制と官僚の絶対優越あってのものに過ぎないからだ。そしてこの官僚主導の官治経済によって、農業軽視、文化祭祀軽視が行われてきたことを忘れるわけにはいかない。官治ではなく、自治の精神が重要なのだ。
処士横議し、草莽崛起する世は果たして現代に実現できるだろうか。

クリスマスの馬鹿騒ぎとアメリカリベラリズムの終焉

クリスマスはキリスト教的由来がほとんどない、ただの資本主義的な祭りである。ハロウィンも同様である。

クリスマスはキリストの誕生日とされているが、それに何の根拠もない。ただ冬至の祭りにあわせてローマ教会がそうしただけのことである。ここまではよくある話で、これで終わるのであれば何もうるさく言わなくてもということになるだろう。
日本(世界でも大抵そうだが)ではなぜかキリスト教と関係のないサンタクロースが子供たちにプレゼントを持ってくる。サンタのあの姿はヨーロッパの土俗信仰が合わさる形でああなったのだが、それが一層定着したのはコカ・コーラの広告によるものである。
ちなみに戦前日本でもクリスマスは伝わっていた。最初に三越が明治四十年に贈答品としてクリスマスの広告を打った。大正時代にはラジオ放送でさらに広まっていった。
だが大正天皇が崩御されたのが十二月二十五日だったことで異論も噴出した。昭和二年には上杉慎吉が「大正天皇が崩御された日にメリークリスマスと祝うなど不謹慎だ」と述べ、柳田国男は「今年に限って自粛するのは賛成」と述べている。
戦前においてはクリスマスは馬鹿騒ぎする日であり、家族や恋人と過ごす日ではなかった。ちょうどいまのハロウィンがそれに近い。急に恋人めいてくるのは戦後の女性誌の登場による。そこで「恋人とデートする日」だと煽りたてられ、高度経済成長やバブルの風潮にのって一気に「そういう日」になってしまった。
潮目が変わるのはバブル崩壊である。バブル崩壊により不況が常態化し、豪勢に恋人と過ごす雰囲気は衰えつつある。
代わって盛んになってきたのはハロウィンである。もとは子供がお菓子をねだりにいく日だったはずだが、なぜかそうしたことは忘れ去られ、仮装して馬鹿騒ぎする日になってしまった。
クリスマスもハロウィンも由来なんか怪しいもので、商業的動機から捏造され宣伝されるに過ぎないので、その時々の商売ニーズによって節操なく変えられていく。
こうした商売的馬鹿騒ぎが必要とされるのは、生地を捨てて都市に集結するリベラリズムと資本主義のあわせわざによる鬱憤の捌け口が必要とされたからであろう。もう少し閉じた共同体であればこれが村祭りがその機能を担ったであろう。
近代的リベラリズムを体現するアメリカの凋落が著しいが、こうした商売的馬鹿騒ぎはいつまで続くのであろうか。

自然と信仰に生きる生活―農本主義的世界観

農本主義を唱える者は、実際に農業を営むべきなのかもしれない。学者でもないのに農本主義研究を行い、農本主義に共感するからこそ、その自問自答は消えない。
一方で現代は、アグリビジネスとしての農業はともかく、農本的世界観の実践の場としての農業は滅びつつある。
そういう意味では思想的に世界観を問うことにも一定の意義はあるだろう。

日本人のみならず現代の人類は、自然を破壊し自然の摂理に逆らって文明の進歩発展・経済発展の道をひた走ってきた。こうした進歩発展的世界観が忘れてきたのは、資源は有限であるということだ。一部の怪しい環境活動家が跋扈する現代の状況は望ましいものではないが、環境問題が深刻になってきていることは否定しがたいだろう。
化石燃料が有限であるということは指摘されてきた。それだけではなく土壌もまた有限なものである。農作物を生産できる土壌は限られている。農地でない場所で作物を生産するためには、何年もの月日を経るか、化学肥料漬けにしなくてはならない。だが化学肥料を作るには大量の化石燃料が必要だし、化学肥料を使ってしまえば、細菌が営む土壌の機能は低下し、土地はますます痩せてしまう。また、化学肥料の蔓延は、機械化とともに農業の金銭産業化を促進させた。工業化された農業は、農村から人を追い出し、都市貧困層に加わらざるをえなくしている。大地に抱かれ信仰とともにあった農村の生活はなくなり、農民心理は商人心理に変化した。一にも二にもカネを求める農村は、ただの不便な都会と化した。アスファルトとコンクリートで固めた都会(都市化した農村を含む)には生き物の臭いがしない。都会そのものが無機質な工場だ。農業あっての都市であり、あくまで本分は農業におくべきである。

近代的世界観が世界を覆ったことで、個人主義的となり、共同体の絆や信仰の力が弱まってしまった。金銭的価値だけで世を図ろうとする自由貿易、国際分業、グローバリズムの推進は大きな禍根を残した。
農業は、単なる食料を世に届ける生産基地ではない。自然と深く関わり、環境保全や景観の維持、そして地域共同体を支える営為なのである。わが国の農業は、神道の信仰と深く結びついてきた。収穫への感謝が新嘗祭、大嘗祭というかたちで宮中祭祀の重要祭祀とされていることからもそれはうかがい知ることができる。わが国は稲作を営むことにより、米と文化、信仰が密接に絡んだ世界観を作りあげてきた。米とともに粟などの畠作も重要な役割を担ってきた。
余談ながら「畠」という字は国字で、水田の周りに存在する、水を入れない乾いた耕地を意味する。焼畑を連想させる「畑」とは違った概念である。
近代以後、科学技術の進歩発展によって、人間生活が快適になると共に、自然を崇拝し畏れる心が希薄になってしまった。自然を征服しようという近代的世界観が世を支配した。それに対抗するためには、地産地消する流れを促進する意識を持つことが重要だ。里で、山で、浜で、それぞれの土地にあったものが作られ、食されること。これこそが地産地消の発想であり、自然自治の思想である。

自然自治は、自然の中に宿る生命と人間の生命とが一体であるという心を大切にすることによって実現するのである。
都市化を切望するのは資本主義の必然である。そしてそれこそが資本主義がもたらす害悪なのである。
資本主義の負の側面を是正するのは、人々の共同の力である。それは農業、地域共同体、共同組合によって担われる。わが国の共同組合のルーツは、頼母子講などの伝統組織を経つつ賀川豊彦の主導で始められた共済事業や生協である。しかしこうした事業にはクリスチャン賀川豊彦によって担われたこともあり、日本の伝統信仰に基づく意識が希薄である。自然と共に生きるという日本人の信仰を回復し、自然と人間に宿る生命を護る態度を養うことが大切である。
日本人は祖先の魂が自然と一体になる信仰を持っている。祖先の御霊はふるさとに残っている。それを破壊し続けてきたのが資本主義だ。なぜ右翼、保守派が資本主義に甘いのか。それは冷戦によるものでしかない。もはや冷戦が終わって久しいのに、いまだに左翼攻撃しかできない右翼保守派の惨めさは眼をおおうばかりである。ましてや権力の太鼓持ちと化し、下劣なヘイトスピーチや権力への異議申し立てをする人を罵るだけの人間など論ずるに値しない。安倍政権が退潮するに伴って、こうした愚劣な輩も一掃されることであろう。

今年も台風により大規模な被害がもたらされた。地球温暖化によってか、台風が日本列島にやってくるルートが変わってきたのかもしれない。自然との共生、信仰の回復、農の精神の再興は急務である。あらためて日本の伝統的価値観を取り戻すことが重要なのである。

地方の衰退と自治の精神

明治時代以来、わが国は立身出世、富国強兵をスローガンに国を営んできた。その結果何が起こったか?地方の衰退である。それは人口減少に突入したいま、より顕著な課題としてわれわれに迫ってきた。
手入れがなされない里山は土砂崩れや獣害のリスクに直面している。地域共同体は最大のセーフティネットだったが、資本主義の論理を無邪気に適用するだけでは安心も幸福も手に入らない。山水の恵みは、人間社会に必要なものなのだ。
かつてアジアには「社稷」という発想があった。社稷は土地の神と穀物の神であり、王が祭祀権を持ったことで王の祖先神的性格を有したが、共同体共通の神であった。社稷は政府より上位の存在とされ、人民の生活の象徴である。新嘗祭などにも社稷の影響が感じられるものである。わが国では五・一五事件に思想的影響力を持った権藤成卿が社稷を重んじたことが知られる。また平田国学、佐藤信淵にも農本主義的側面があった。佐藤信淵は平田国学と出会い家学を発展させたのであるが、それは農政で万民の困窮を救うもので、幕府や藩といった小さな枠にはまるものではなかった。社倉のような共同備蓄にも深い関心を有していた。
戦後、こうした思想は「農本ファシズム」と嘲笑されるようになり、いつしか嘲笑すらされず忘れ去られることとなった。開発主義、経済成長絶対に対するアンチテーゼは生まれなかった。その結果が地方の軽視となった。
そんななか、田中角栄は地方に対する思いのある政治家であった。だが角栄の日本列島改造論は、要は地方に道路や鉄道を通すというものでしかなく、結果として地方の人間をますます都市部に送り込むかたちになってしまった。地方再生には、回復には、山水と共同体の力が必要なのではないか。
機械化によって忘れ去られているが、元来農業は共同労働の側面を持つ。家族や地域で連携して食物を植え、雑草を取り、収穫を行うのである。「社稷」は「家稷」であり、人の生きる意味を与えるものなのである。これこそが「自治」である。
近代文明は資本主義のアクセルのもと、暴走し続けてきた。それは確かに人々の所得レベルを引き上げはしたが、それと引き換えに自然や共同性を破壊し続けた。カネに依存しカネがなければ生きられない生活に陥れられた現代人は本当に豊かなのか。問われなければならない。

バークを学ぶ前に

明治時代の薩長藩閥有司専制政治も誉められたものではなかったが、大正時代のデモクラシーもあまり望ましいものではなかった。政党政治は容易に党利党略の政治となり、権力の腐敗は改善しなかった。大正時代から昭和初期にかけて、政党政治とはいいながら依然元老が暗躍し、西園寺詣ではやむことがなかった。国を憂うる誠なしとも言うべき情勢であった。

一方でロシア革命以降共産主義が過激化し、ソ連によるソ連的な革命煽動が激しくなった。それまでは左翼も天皇のもとで日本的抜本改革を目指すものであったが、そうした思考はむしろ右派の猶存社系のものとなった。
その他の右派は反共的となり、政権への批判力を失っていった。一方で反共化した右派も、西洋文明の模倣に明け暮れた近代日本のあり方自体に根底的な疑義を持ち、「天皇」「やまとごころ」に日本文明のあるべき姿を昇華させるところがあった。こうした考え方をとった中心人物が三井甲之であり蓑田胸喜であった。その意味でこの時代の反共右派は戦後や現代の低俗な「保守」言論人などよりよほど上等であったと言えよう。なにせ思想的なことはバークだのオークショットだのと横書きを縦書きにするだけで恥じないのだから。いくら「保守的」とされている論客だろうが、歴史的経緯を抜きにして外国の思想を日本に導入できると無邪気に信じていること自体が左翼の発想なのである。
いずれにしても明治時代においては右翼と左翼は同根であり、それが右派と左派に引き剥がされてしまったことこそ不幸な歴史であった。
現代は冷戦が終わり、グローバリズム対ナショナリズムの時代に移行している。グローバリズムは資本主義の精神を媒介に効率化の名のもとに文化の違いを破壊しようとする。
だがそうした近代主義は限界がある。「より早く、より遠く、より効率的に」というグローバリズムはフロンティアがなければ成立しない。だがそのフロンティアは地上から消えつつある。そのときグローバリズムは生き残ることができるのか。そして、グローバリズムに無批判でいたとき、果たして自然と信仰が同居する日本人の世界観は残せるのか。エゴイズムだけでは市場は成立しても社会は成立し得ない。市場論理を超えた倫理が必要とされるゆえんである。
戦前の思想家にはそれがあった。バークなど学ぶ暇があるなら、まずは自国の歴史と思想を学ぶことからはじめてはいかがか。