明治時代の薩長藩閥有司専制政治も誉められたものではなかったが、大正時代のデモクラシーもあまり望ましいものではなかった。政党政治は容易に党利党略の政治となり、権力の腐敗は改善しなかった。大正時代から昭和初期にかけて、政党政治とはいいながら依然元老が暗躍し、西園寺詣ではやむことがなかった。国を憂うる誠なしとも言うべき情勢であった。
一方でロシア革命以降共産主義が過激化し、ソ連によるソ連的な革命煽動が激しくなった。それまでは左翼も天皇のもとで日本的抜本改革を目指すものであったが、そうした思考はむしろ右派の猶存社系のものとなった。
その他の右派は反共的となり、政権への批判力を失っていった。一方で反共化した右派も、西洋文明の模倣に明け暮れた近代日本のあり方自体に根底的な疑義を持ち、「天皇」「やまとごころ」に日本文明のあるべき姿を昇華させるところがあった。こうした考え方をとった中心人物が三井甲之であり蓑田胸喜であった。その意味でこの時代の反共右派は戦後や現代の低俗な「保守」言論人などよりよほど上等であったと言えよう。なにせ思想的なことはバークだのオークショットだのと横書きを縦書きにするだけで恥じないのだから。いくら「保守的」とされている論客だろうが、歴史的経緯を抜きにして外国の思想を日本に導入できると無邪気に信じていること自体が左翼の発想なのである。
いずれにしても明治時代においては右翼と左翼は同根であり、それが右派と左派に引き剥がされてしまったことこそ不幸な歴史であった。
現代は冷戦が終わり、グローバリズム対ナショナリズムの時代に移行している。グローバリズムは資本主義の精神を媒介に効率化の名のもとに文化の違いを破壊しようとする。
だがそうした近代主義は限界がある。「より早く、より遠く、より効率的に」というグローバリズムはフロンティアがなければ成立しない。だがそのフロンティアは地上から消えつつある。そのときグローバリズムは生き残ることができるのか。そして、グローバリズムに無批判でいたとき、果たして自然と信仰が同居する日本人の世界観は残せるのか。エゴイズムだけでは市場は成立しても社会は成立し得ない。市場論理を超えた倫理が必要とされるゆえんである。
戦前の思想家にはそれがあった。バークなど学ぶ暇があるなら、まずは自国の歴史と思想を学ぶことからはじめてはいかがか。