土を忘れた民


明治時代、ありとあらゆるものに所有権が確定されていき、共同的なものが奪われていった。入会地は廃止され、山林は富者や国の所有物となった。谷の風景は、養蚕やタバコ畑に置き換えられたが、それらはやがて倒産した。リンゴなどの果樹園や、スキースノーボード、温泉などのレジャースポットに代わったりしたが、それもどこまでもつか。皮肉めいた言い方をすれば、荒廃し誰が所有者だかもわからなくなってしまえば、あるいは山林は元の姿を取り戻すのかもしれない。

自由、民主主義、経済成長―。そんなものが無告の民にとってどれほどのものか。自由、民主主義、経済成長さえあれば世の問題のすべてが解決し、みな幸せになるかのような物言いに、傲慢さはないか。
どこまでいっても道は舗装され、土を踏みしめる機会は極端に減っている。土を忘れた民は、いまはいくら豊かでも早晩滅びる。そのことを胸に刻むよりないはずだ。

「土を忘れた民」への4件のフィードバック

  1. 全くもって仰る通りです。どうして民族の祖国を忘れて浮遊し続ける賊人の口八丁に耳を傾けては我々は足並みを揃えて進んで行かねばならないのでしょうか。その賊の子らが遂に復讐を受けることになるのは些末なことなのか。破滅は彼らにとっては哀しむべき未来ではないのだろうか。
    だとしたら、そのような愚か者には身の丈を超えた力があるべきではなく、時代の役目を終えたならば力は力の本来あるべきところへ還されねばなりません。僕には蛮神を信じる理由が全くない。
    厭世観が高まりますが、その憎悪に固執することなく何とか生きていきましょう!。日本人である自己は必ず死ぬことになるが、日本の命の源である大八洲は永遠に在り続けるという事実を確信して。

  2. >>1
    コメントありがとうございます。
    わたしは宮崎駿の「天空の城ラピュタ」を連想します。宮崎は左翼っぽい人物ですが、大事なテーマを語っています。ラピュタは地上より数段進んだ科学力を誇りますが、土を忘れたために滅びます。しかし滅んでゴーストタウン化したラピュタにも、草花や木々は生え、動物や昆虫は住むのです。
    科学力を誇るも滅ぶラピュタは現代社会の象徴でしょう。土を忘れた民を表現するために、ラピュタは空中に浮かばなくてはならなかったのです。

  3.  そういえば先年アフガニスタンで亡くなられた中村哲医師。
    彼は自ら重機を操り用水路を作って不毛の大地に水を引くという大事業を成し遂げた、まさに義と侠と土に生きた人でしたが、このような生き方は発展しきっていない外国だからこそできたのでしょうね。
    今の経済発展し農村が壊滅した日本では、村人と一丸となって用水路や堤防を築くということはできないし、共に田畑を耕すこともできない。道もコンクリで舗装されてますから、江戸の昔のように皆で道普請をすることもできない。
    義と侠に生き、土に生きるという生き方は、もはや外国でしか実現できないのが哀しいところです。

  4. >>3
    コメントいただきありがとうございます。
    たしかに国内ではそのような生き方を許す余地はないのかもしれません。悲しいことです。
    経済成長は、人を豊かで便利な方に向かわせることは間違いなく、わたし自身もその恩恵を受けていることは当然です。
    しかし中長期的目線でみたとき、果たして現在のような土から切り離す経済成長が絶対の真理と言えるのか、疑いの余地があります。

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