処士横議、草莽崛起


先日『維新と興亜』を創刊した。

いただいた感想の中に、「処士横議」という言葉があった。もはや現代人には耳慣れない表現だが、いい言葉だと思った。
「処士横議」とは処士、志士が同志と語り合うことである。
志士とは国事に志を持つ人のことを指す。ここでいう国事とは政策論や政局論のことではない。より根元的な、社稷を愛し守り抜こうという意志に基づく国家論を指す。
在野の志士を草莽といい、処士という。草むらの陰でひっそりと暮らしつつ、国を憂い、天下のために立つ。こうしたカネも要らぬ、命も要らぬ志士こそ、時の権力者はもっとも恐れるのである。
こうした志士が、現代ではいかに少なくなったことか。志士が守るのは社稷であり、国の大本であるが、時の政権や政体ではない。こうしたことさえ現代人には見えなくなった。
民族の生死の基盤、そうしたものへの希求と葛藤が、現代人にもっとも欠けている。
草莽が守るべき社稷と農耕とは、切っても切れない関係にある。
例えば大嘗祭の祈願の主旨は順徳天皇の時代のものが残っており、国内の平安、五穀豊穣、人々の救済であった。
右翼左翼などというつまらぬ区分でなく、国の大本に思いを致す志士でありたいものだ。
垂加神道には、日本人の死後の世界を描いた側面があった。死後は無に帰すという儒教的合理主義でもなく、因果応報輪廻転生の仏教的世界観とも違う意義を打ち立てたのだ。日本人として生まれたからには朝廷を守護すべく生き、死んでは天照大神を中心とする八百万神の末席となる―。これこそが垂加神道の世界観である。垂加神道者は、この世界観を仏教や儒教と対比するなかで自覚的に唱えていった。こうした垂加神道の世界観を受け継ぎ発展させたのが平田国学であった。少なくとも闇斎の時代の垂加神道には、まだ儒教や陰陽五行説の要素が濃厚であった。篤胤神学にはそうした要素がそぎおとされ、洗練されている。
先祖の霊はわれわれの身のまわりにあって、われわれをいつも守ってくれている。篤胤国学の特徴は幽冥論だが、篤胤の幽冥論は垂加神道の影響なくして考えられない。
平田篤胤は本居宣長の没後の門人と称したが、国学を学ぶより前に垂加神道を学んでいた。あえて本居の門人と称したのは営業戦略、運動戦略的側面が秘められているように感じる。その機微を、篤胤より後の世代はあまり継承しなかっただろう。
篤胤の歳上の弟子佐藤信淵は、家学をもとに平田国学の世界観を加えて大成させた人物である。信淵の学問のなかには明らかに農政論と人々の救済の視点が多分に含まれている。
平田国学が目指した祭政一致の国体とは、天皇が神に五穀豊穣を祈ることで人々の安寧をもたらす世界観なのである、
先ほども述べたように篤胤以降の平田国学は(本居国学もそうだが)、主流派は師説の継承に重きをおき、現世をいかにせん、といった志を失っていった。
しかし篤胤の蒔いた種は、エートスのように人々に広まっていった。
木曽山脈の奥、中津の国学者島崎重寛(正樹)の挙げた祝詞には、世の最大の罪として「天皇に射向罪」「異邦に心帰る罪」「百姓を虐げる罪」が挙げられている。神に祈ることは、百姓の生活の安寧と収穫への感謝なのである。この島崎重寛(正樹)こそ、島崎藤村の父であり、『夜明け前』の主人公青山半蔵のモデルである。
篤胤の弟子の一人に生田万がいる。生田万は館林藩に生まれた。館林藩の藩学は崎門学である(ただし晩年に山崎闇斎を批判して去った佐藤直方の門流であり、生田万も藩学を評価していない)。藩学に飽きたらないものを覚えた。生田万は陽明学を学び、直方とは違う崎門派本流の浅見絅斎『靖献遺言』を愛読した。「武家政治を除く」ことも主張していたという。さらに江戸で平田国学を学び篤胤の私塾気吹舎で塾頭となる。生田万は幕政批判で悲憤慷慨するようになり、篤胤からたびたび注意を受けるようになった。生田万は篤胤のすすめ(厄介払い?)もあり帰藩する。そこで藩政意見書『岩むす苔』を提出する。内容は非常に農本的なものであった。生田万の意見は容れられず、藩から追放される。
後に藩から許され、帰藩の許可は出たが、家は弟が継いでおり、万の居場所はなかった。
万は平田一門のつてで柏崎を訪れ、そこで国学を講じて貧民に食料を分け与えたりしていた。天保八年に大塩平八郎の乱が起こると、万も柏崎でわずかな手勢とともに立ち上がった。多勢に無勢で失敗し、負傷し自刃した。
篤胤は厄介払いで生田万を追い出してはいるが、高く評価していたようで、万の著書の序文を書くなど、追い出したあとも関係を保っていた。篤胤の営業戦略的に反幕府的思想は避けなければならなかったが、心情では共感していたのかもしれない。篤胤は万の死に深く同情し、万の決起に尻込みした門弟には冷淡な態度を取った。
草莽崛起の時代はもうすぐそこまで迫っていた。
さて、翻って現代日本である。新自由主義がはびこり、何事もカネではかられる忌まわしき世である。
日本型経営で発展してきたのが戦後日本であった。だが、人間信頼と共同体の絆を取り戻すのは日本型雇用の回復では不充分だ。日本型雇用は所詮企業の専制と官僚の絶対優越あってのものに過ぎないからだ。そしてこの官僚主導の官治経済によって、農業軽視、文化祭祀軽視が行われてきたことを忘れるわけにはいかない。官治ではなく、自治の精神が重要なのだ。
処士横議し、草莽崛起する世は果たして現代に実現できるだろうか。

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