愛国者を自認する人が増えてきたが、それは中国、韓国、北朝鮮に強硬な言辞を吐くことにしかなっておらず、真に祖国の風土や文化、信仰、歴史、共同体に想いを馳せることには繋がっていない。あまつさえ愛国の名のもとにヘイトスピーチを囀ずるなど論外で、かの国の「愛国無罪」を嗤うことはできない。
真の愛国を考えたときに思い当たる一冊に、片岡駿『日本再建法案大綱』がある。
片岡駿は明治三十七年に岡山県津山市に生まれた。大正十五年に上京し黒龍会に入門。満洲に渡ったあと帰朝し「大日本生産党」や「勤皇まことむすび」に参画。昭和八年の神兵隊事件を起こした一員でもあった。
戦後は笠木良明や三上卓らとともに地方からの愛国自治運動を展開した。
片岡は占領遺制によって確立された「自民党幕府」を打倒すべき対象とした維新運動を主張した。
『日本再建法案大綱』はその書名からも想像されるとおり北一輝『日本改造法案大綱』を意識し、似通った叙述方を取っている。しかしその中身は農本自治思想に立脚したものである。思想的系譜としては権藤成卿→長野朗→片岡駿という自治思想の流れがある。
倒幕維新のためには国民自身の力によって維新政権を樹立しなければならない。救国のすべは「名も無き民の力を合わせる」以外にない。
維新とは建国の理想と古制の趣旨にのっとりながら、日本の原点に立ち返らんとする運動である。維新即復古であり、日本民族の世界観や信仰にのっとろうとすることが重要なのである。
祖先は不死の精霊であり、先祖の霊に申し訳の立つべき道統によらなければならない。
言うまでもなく日本は天皇の国であるが、君民共治の国でもある。天皇大権と国民自治とは互いに犯すべからざるものである。天皇においては社稷をおもんばかり、国民においては皇室の宗廟を永遠ならしめる相互尊重の精神によって日本国体は培われた。こうした相互尊重によって宗廟と社稷は一体のものとなるのである。
国家を支えるのは民族の不覊独立の精神である。現在の日本は亡国の危機に瀕しているが、亡国とは国土の消滅や国民の全滅だけを意味するものではない。目に見えない民族の魂が失われることをも意味するのである。
日本は農耕文化の国であり農耕と自然環境は切っても切れない関係にある。自然環境の回復を求めるのは、単なるエコロジー的発想に基づくものではない。戦後の日本人が敬神忠孝を忘れたことと自然破壊は無縁ではない。八百万の神々や穀霊を無視し、ビジネスに変えていった歴史が即自然破壊の歴史だからだ。現代人の生活は土と太陽の恵みは忘れられ、カネとコンクリートに支配された人工生活である。自然と人間が同胞(はらから)として共存できることこそが本来の「生活」なのだ。
土地公有の原理を確立しなければならない。公有とは朝廷に属するということであり、今日的意味での国有とは異なる。
貧困を絶滅させるためには資本主義が当然としている利潤追求を批判し、物質的利便性の向上と貧富の格差を当然と見なす風潮を根元的に見直さなければならない。
核家族化は祖霊を疎外する個人主義に基づくものである。老親は祖霊を拝するのである。
外国にもそれぞれの文化に培われた国体があり、その国体は相互に尊重されなければならない。各国の独自性を否定するグローバリズムとリベラリズムの近代思想はそうした国体を軽んじるものであり否定されなければならない。
夜分遅くに失礼いたします。
およそ改教者の住まいの近所には聖書の歴史がありません。彼らは主は常に我らを見守ってくださいますと唱えながらも、その空虚な暮らしぶりに満足することができずに真の理想郷を目指して移動をはじめるのであります。この過程で不毛の拡大が起きて誤った世界が形成されることになります。今日では民主主義者の支配を指して「くりかえす実験」などと恥ずかしげもなく詭弁を述べる者があるように彼らが道の誤りを指摘することもありません。「私はコレをやめたのだから、貴様もソレをやめなければならない」と、このような高慢な振る舞いが彼ら白人の思想闘争の常で、極めて虚しい私闘の連続なのであって、あたかも地球の朝令暮改がローマ文明によって約束されているかのようであります。
一方で日本人は誰しもの住まいの周辺に神代の記憶があり、古事記を読むことで村の始まりを想い起こすことができます。必ずしも遠くへ移動する必要がなく、また多くの日本人は何が起きようとも日本以外には強く根を張って生きることはできません。これが日本人と欧米人との決定的な差異になります。
目に見えないのではなく祖霊と向き合うつもりがないのが彼らです。欧米人は蛮神蛮法に依拠する野心のためにノッペラ坊の仮面を被り続けるのであります。差別的罵倒は恥ずべきでありますが、民族が民族であることをやめる、またはやめなければならないとする悪しき思惑が大陸世界の歪みを源として外へ外へと放たれているのは明白なことです。
これは、「白人の道はローマの都に至る」という図式で説明することができます。つまり、あらゆるイズム(白人の抵抗思想)は必ずローマに至って故郷を忘却するということです。潜伏を続けて晴れてローマ的なものを覆した時には彼らの心の中には既に祖神や故郷の人々を古臭く醜いものと見做してまう感性が備わってしまうことが問題であると考えます。
この改教者による同胞に対する憎悪は歴史に大きな歪みをきたすもので、彼らが変わらないことには治ることはない病であると言えます。ですので、日本人が大陸世界と向き合わなくてはならないのなら、その改教民族との意識の衝突を恐れず、どのように謗られても見下されても、彼らの忘却を指摘し続ける根気が必要になると僕は思います。