自然と信仰に生きる生活―農本主義的世界観


農本主義を唱える者は、実際に農業を営むべきなのかもしれない。学者でもないのに農本主義研究を行い、農本主義に共感するからこそ、その自問自答は消えない。
一方で現代は、アグリビジネスとしての農業はともかく、農本的世界観の実践の場としての農業は滅びつつある。
そういう意味では思想的に世界観を問うことにも一定の意義はあるだろう。

日本人のみならず現代の人類は、自然を破壊し自然の摂理に逆らって文明の進歩発展・経済発展の道をひた走ってきた。こうした進歩発展的世界観が忘れてきたのは、資源は有限であるということだ。一部の怪しい環境活動家が跋扈する現代の状況は望ましいものではないが、環境問題が深刻になってきていることは否定しがたいだろう。
化石燃料が有限であるということは指摘されてきた。それだけではなく土壌もまた有限なものである。農作物を生産できる土壌は限られている。農地でない場所で作物を生産するためには、何年もの月日を経るか、化学肥料漬けにしなくてはならない。だが化学肥料を作るには大量の化石燃料が必要だし、化学肥料を使ってしまえば、細菌が営む土壌の機能は低下し、土地はますます痩せてしまう。また、化学肥料の蔓延は、機械化とともに農業の金銭産業化を促進させた。工業化された農業は、農村から人を追い出し、都市貧困層に加わらざるをえなくしている。大地に抱かれ信仰とともにあった農村の生活はなくなり、農民心理は商人心理に変化した。一にも二にもカネを求める農村は、ただの不便な都会と化した。アスファルトとコンクリートで固めた都会(都市化した農村を含む)には生き物の臭いがしない。都会そのものが無機質な工場だ。農業あっての都市であり、あくまで本分は農業におくべきである。

近代的世界観が世界を覆ったことで、個人主義的となり、共同体の絆や信仰の力が弱まってしまった。金銭的価値だけで世を図ろうとする自由貿易、国際分業、グローバリズムの推進は大きな禍根を残した。
農業は、単なる食料を世に届ける生産基地ではない。自然と深く関わり、環境保全や景観の維持、そして地域共同体を支える営為なのである。わが国の農業は、神道の信仰と深く結びついてきた。収穫への感謝が新嘗祭、大嘗祭というかたちで宮中祭祀の重要祭祀とされていることからもそれはうかがい知ることができる。わが国は稲作を営むことにより、米と文化、信仰が密接に絡んだ世界観を作りあげてきた。米とともに粟などの畠作も重要な役割を担ってきた。
余談ながら「畠」という字は国字で、水田の周りに存在する、水を入れない乾いた耕地を意味する。焼畑を連想させる「畑」とは違った概念である。
近代以後、科学技術の進歩発展によって、人間生活が快適になると共に、自然を崇拝し畏れる心が希薄になってしまった。自然を征服しようという近代的世界観が世を支配した。それに対抗するためには、地産地消する流れを促進する意識を持つことが重要だ。里で、山で、浜で、それぞれの土地にあったものが作られ、食されること。これこそが地産地消の発想であり、自然自治の思想である。

自然自治は、自然の中に宿る生命と人間の生命とが一体であるという心を大切にすることによって実現するのである。
都市化を切望するのは資本主義の必然である。そしてそれこそが資本主義がもたらす害悪なのである。
資本主義の負の側面を是正するのは、人々の共同の力である。それは農業、地域共同体、共同組合によって担われる。わが国の共同組合のルーツは、頼母子講などの伝統組織を経つつ賀川豊彦の主導で始められた共済事業や生協である。しかしこうした事業にはクリスチャン賀川豊彦によって担われたこともあり、日本の伝統信仰に基づく意識が希薄である。自然と共に生きるという日本人の信仰を回復し、自然と人間に宿る生命を護る態度を養うことが大切である。
日本人は祖先の魂が自然と一体になる信仰を持っている。祖先の御霊はふるさとに残っている。それを破壊し続けてきたのが資本主義だ。なぜ右翼、保守派が資本主義に甘いのか。それは冷戦によるものでしかない。もはや冷戦が終わって久しいのに、いまだに左翼攻撃しかできない右翼保守派の惨めさは眼をおおうばかりである。ましてや権力の太鼓持ちと化し、下劣なヘイトスピーチや権力への異議申し立てをする人を罵るだけの人間など論ずるに値しない。安倍政権が退潮するに伴って、こうした愚劣な輩も一掃されることであろう。

今年も台風により大規模な被害がもたらされた。地球温暖化によってか、台風が日本列島にやってくるルートが変わってきたのかもしれない。自然との共生、信仰の回復、農の精神の再興は急務である。あらためて日本の伝統的価値観を取り戻すことが重要なのである。

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