クリスマスの馬鹿騒ぎとアメリカリベラリズムの終焉


クリスマスはキリスト教的由来がほとんどない、ただの資本主義的な祭りである。ハロウィンも同様である。

クリスマスはキリストの誕生日とされているが、それに何の根拠もない。ただ冬至の祭りにあわせてローマ教会がそうしただけのことである。ここまではよくある話で、これで終わるのであれば何もうるさく言わなくてもということになるだろう。
日本(世界でも大抵そうだが)ではなぜかキリスト教と関係のないサンタクロースが子供たちにプレゼントを持ってくる。サンタのあの姿はヨーロッパの土俗信仰が合わさる形でああなったのだが、それが一層定着したのはコカ・コーラの広告によるものである。
ちなみに戦前日本でもクリスマスは伝わっていた。最初に三越が明治四十年に贈答品としてクリスマスの広告を打った。大正時代にはラジオ放送でさらに広まっていった。
だが大正天皇が崩御されたのが十二月二十五日だったことで異論も噴出した。昭和二年には上杉慎吉が「大正天皇が崩御された日にメリークリスマスと祝うなど不謹慎だ」と述べ、柳田国男は「今年に限って自粛するのは賛成」と述べている。
戦前においてはクリスマスは馬鹿騒ぎする日であり、家族や恋人と過ごす日ではなかった。ちょうどいまのハロウィンがそれに近い。急に恋人めいてくるのは戦後の女性誌の登場による。そこで「恋人とデートする日」だと煽りたてられ、高度経済成長やバブルの風潮にのって一気に「そういう日」になってしまった。
潮目が変わるのはバブル崩壊である。バブル崩壊により不況が常態化し、豪勢に恋人と過ごす雰囲気は衰えつつある。
代わって盛んになってきたのはハロウィンである。もとは子供がお菓子をねだりにいく日だったはずだが、なぜかそうしたことは忘れ去られ、仮装して馬鹿騒ぎする日になってしまった。
クリスマスもハロウィンも由来なんか怪しいもので、商業的動機から捏造され宣伝されるに過ぎないので、その時々の商売ニーズによって節操なく変えられていく。
こうした商売的馬鹿騒ぎが必要とされるのは、生地を捨てて都市に集結するリベラリズムと資本主義のあわせわざによる鬱憤の捌け口が必要とされたからであろう。もう少し閉じた共同体であればこれが村祭りがその機能を担ったであろう。
近代的リベラリズムを体現するアメリカの凋落が著しいが、こうした商売的馬鹿騒ぎはいつまで続くのであろうか。

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