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改めて国家とは何か 三

 丸山眞男は戦後日本を「悔恨共同体」と呼んだ。「無謀」な戦争をなぜ止められなかったのか、という思いが戦後の出発点であるというものだ。竹内洋はこれを批判して、戦後日本には「無念共同体」と呼ぶべきものもあったとした。「悔恨共同体」が心情的に戦前と戦後を切り離して考えているのに対し、「無念共同体」は「今度はもっとうまくやろう」あるいは「あの戦争は避けられない運命だった」と捉えることで戦前と戦後を連続させている、という。さらに、佐伯啓思は『自由と民主主義をもうやめる』で、吉田満を参照したうえで「戦後の民主主義や平和や繁栄が、どうしてもどこか偽物、もっと言えば、自己利益と保身の産物という、ある卑しさによって成り立っている」として、「私はこれを、丸山の「悔恨共同体」に対して、「負い目の共同体」と呼びたい」(187頁)と論じている。
 あるいは佐伯の議論と重なるかもしれないが、江藤淳は「物質的幸福がすべてとされる時代に次第に物質的に窮乏して行くのは厭なものである。戦後の日本を現実に支配してゐる思想は「平和」でもなければ「民主主義」でもない。それは「物質的幸福の追求」である」(「戦後と私」江藤淳セレクション2 25頁)と述べ、嫌悪感を表明している。
 戦後の「自由」、「平和」、「民主主義」、「物質的幸福」は意外にも批判され続けながら、その命脈を保ちつづけてきた。アベノミクスという拝金政治を批判できない思想的弱さがそれを象徴している。日本はもはや経済成長できないという考えを「経済の自虐史観」と呼び「経済成長」に依存する姿勢がそれである。
 確かに政治家は思想を語るべきでないのかもしれない。近代的に機能化された統治機構に情や道徳を求めることがずれているように、政治家に思想的な「正しさ」を期待することも間違っているのかもしれない。「公共心」や「愛国心」を裏切る「何か」を、近代的な政治機構は抱えている。「民主主義」、「資本主義」、「共産主義」の三つ子の近代思想が歴史と伝統を軽蔑し、踏みにじる側面を持っていることを忘れてはならない。
 むしろ思想的正しさが政治によって実現できると考えること自体が間違っているのかもしれない。政治や経済に多くを期待してはならない。我々にできることは、政治や経済が時に土足で踏みにじりかねない誇りとその源泉を守り続けていくことだけである。ただし、政治や経済を抜きにして我々の誇りが維持できると考えるのもまた甘い考えに過ぎない。伝統や愛国心、民族の誇りを重んじるものこそ、政治や経済と、己が守るべきものとのの関係について、真剣に考えていく必要があるのではないか。
 ある種の無政府主義に否定しがたい魅力があるのは、この人々の誇りの源泉を何よりも重んじる思想である場合があるからだ。

 そもそも民主主義は「自らの国家の行く末は、その構成員たる国民が決める」という国家意識の表れでもある。ただし現在行われている選挙による民主主義はそうした国家意識と、「自己利益に基づく一票」を全くの等価と見做していることが問題である。いずれにしても国家への所属意識を欠いた中での民主主義は各自の私利の集合体でしかなく、要するに各人が自己利益に基づいて行動すれば「神の見えざる手」によって自然と利害が調整されるという資本主義が持つ盲信に国家を誘うものであり、国家を公共心の集成ではなく政府と市民の利益による相互取引関係と考える思想ということである。

 資本主義、共産主義、民主主義に代表される近代思想は、迷信から脱することに重きを置く思想である。そのため資本主義も共産主義も民主主義も非常に人為的で計画的な制度を要求する。だが同時に、「迷信から逃れる」ことに重きを置く近代思想は、また別の迷信に支配されていることもまた確かなのだ。民主主義は各人が自己利益に従い発言すれば、利害関係が調整されうまくいくという迷信である。自己利益を追求すれば利害関係が自然に調整され、全体が調和されるというのは資本主義につながる。
 また、民衆が政治をすれば専制政治から脱却し、自由で平和な世の中になるという迷信もある。「民衆」が「プロレタリアート」になれば、それは共産主義となる。
 共産主義も資本主義も非歴史的な国境のない「世界」観念に支配された思想であった。共産主義は「インターナショナル」を謳い、資本主義者は「グローバル」な活動を礼賛した。このような抽象的「世界」観念は近代の産物である。

(続)

改めて国家とは何か 二

 いわゆる日本の「戦後民主主義」は批判され尽くしてきた。だがその内容のほとんどがいわゆる戦後サヨクの言葉の軽さ、無内容さを糾弾するものであり、「民主主義」そのものに踏み込むものではなかった。いまだに安倍首相が日本と米国は自由と民主主義という共通の価値観があるような発言をするなど、民主主義は「良いもの」として捉えられている。「ある意味では、「戦後民主主義」の悪口が盛んに語られれば語られるほど、「民主主義」そのものは、問うまでもない自明なもの、として祭り上げられることになる」(長谷川三千子『民主主義とは何なのか』9頁)。民主主義とはいかがわしいものだ。ただ対案が難しいものだ。しかし対案が難しいからと言って批判しないのは思想的態度ではないと思う。「知的怠慢」である。

 民主主義批判の論点は二つある。一つは、一人一票制、あるいは多数決の欺瞞である。もう一つは、「民主主義」という言葉に潜むイデオロギー性の問題である。両者は密接に関連している。

 民主主義をイデオロギーとして捉える場合、「自由」、「平等」、「民主主義」という近代思想の三つ子は分かちがたいものになる。
 政治とは、議会や選挙だけにあるのではなく、人々の日常生活にある。その人々の日常的な生活を破壊したのが、民主主義というイデオロギーであった。伝統的社会秩序を破壊し、「封建的」とののしり、静かなものであれ熱いものであれ革命へと向かわせる。

 「民主主義」には判定者がいる。欧米の大多数を占める人たちである。反民主的、とののしられることは、実際に民を抑圧しているかどうかは全く関係ない。「欧米の大多数を占める人たち」が気に食わなければ「反民主的」であり、「不自由」で、「抑圧的」で、「封建的」なのであって、実際に「自由」かどうかということに彼らは一切興味がない。したがって戦前日本もこのレッテルを欧米から張られたのであった。このインチキに気づかない限り「民主主義」の議論は常に間違えることになる。つまり安倍首相が自由と民主主義の価値観外交をするということは、日本はこれからも欧米の意に沿うような国家運営をして参りますという「戦後レジームの継続」を意味することでしかない。
 社会契約論という欺瞞に満ちた思想がある。社会契約論は、まず勝手に政府がない状態を妄想し、身体と財産の相互の保障を求めて政府を設立したのだ、と仮定する。そこには人々の共同性はみじんも想定されていないし、政府以外のあらゆる小共同体も無視されている。確かに「個人という感覚のない社会」は想像できないが、同時に「社会のない個人」というものも想定することはできないはずだ。小共同体を想定できない政府は専制的になり、各人は各人をあまりに縛り合うことにもつながる。統治には慣行が大きな影響を与えているが、社会契約論にはそうした慣行も無視されている。即ち社会契約に基づく政府は独裁的かつ資本主義的だ。財産の保護が政府の主たる役割だと言うのだから、社会契約論は資本主義とウマが合うのである。
「人権」とはののしるための道具であり、わめき散らすための武器である。「人権」は自己修養とは全く無縁の、「社会を自分の都合に従わせる」ためのイデオロギーだ。雨に濡れた猫を乾かそうと電子レンジにかけたら死んでしまったのは電器メーカーのせいだ、というのも、マクドナルドのコーヒーをこぼしてやけどしたのはマクドナルドのせいだ、というのも、訴訟社会の弊害として語られるが、まことに「人権的」な態度なのである。「人権」とは「基本的人権」のことだ。「基本的人権」の「基本的」とは、「国家、社会に制約されない」ということである。したがって「人権」は抑圧されてはいけないのである。どんな理由があっても。「公共の福祉」という理由があっても、である。このイデオロギー性を踏まえておく必要がある。

(続)

改めて国家とは何か 一

 柄谷行人は、資本主義が進むと必ず格差ができるが、それはそのままで放置されることはまずなく、国家による規制や援助で格差を緩和しようとする。それを「資本=ネーション=ステート」と呼んだ。近代国家は「資本」と「ネーション」と「ステート」という本来異なる三者が結合したものだという。資本が強ければ新自由主義的に、ネーション=ステートが強ければ国家資本主義的あるいは福祉国家的になるが、それは「資本=ネーション=ステート」体制からはみ出るものではないという(『帝国の構造』11~12頁)。

 また、世界=帝国に不可欠なのは共同体を超えた法であり、国家間の交通、通商の安全を確保することである。即ち帝国の法とは国際法であり、明文化されようがされまいが、それは史上登場したあらゆる帝国に該当するという(『世界史の構造』岩波現代文庫版166頁)。

 柄谷の国家論の特徴として、いわゆる主権国家もこうした国家間の関係性の中から生まれたものだとみなすことが挙げられる。即ち、国家は共同体から自生したものではなく、共同体と共同体の相克の中から、自らを守るために生み出されたものだというのである(『世界共和国へ』48頁)。

 上記の柄谷の国家論について、私が感想めいたものを述べるとすれば、柄谷は「ネーション」と「ステート」の違いを良く理解しておりながら、両者の峻別を避けているようにも思われることだ。先ほどの3つの本からの要約で言えば、「国家」はどう見ても「ステート」の意味でつかわれている。「ネーション」に相当するものは「共同体」が近いだろう。
 もちろん『世界史の構造』では、権藤成卿を引用しながらファシズムとアナーキズム、ナショナリズムと社会主義の親和性について語っている(418頁)。その意味で私の指摘は批判にもなっていないが、「ネーション」と「ステート」の違いは、意識しすぎることはないように思われる。特に現代のように「ステート」の論理によって「ネーション」が空白化されようとしている時代にはなおさらである。

 「ネーション」なき国家論は、安全保障と経済的動機からの米国化を免れない。「ネーション」なき国家論は、「戦後民主主義」との親和性は高い。
 柄谷はネーションのもつ「互酬性」を良く認識したうえで、国家なき「アソシエーション」の可能性を模索しようとする。柄谷は、国家は他国との関係性で生まれるものゆえ、エンゲルスのように国家を上流階級が支配する道具と考え、革命することで内部から廃棄できるという考えを批判する(『世界共和国へ』51頁)。
 先ほども述べたように、柄谷は国家を共同体と共同体の関係から生まれるものと捉えた。その中でアダム・スミスやホップズのように、個人と個人が独立して相対する中から(社会契約的に)国家が生まれるように考えるのは近代主義的誤りだという(同47頁)。しかし、たった一文ではあるが、部族的互酬原理を「民主主義」とみなしている個所がある(同53頁)。これは私の「民主主義」観と異なる。むしろ私の見方では「民主主義」は近代的な物の見方の最たるものであり、民族的互酬関係を重んじる私からすれば、拒絶の対象である。この一文を以て柄谷を批判するなどというのは難癖に近いものだと思うし、本稿はたびたび断るように柄谷国家論の批判でも礼賛でもない。ただ、一読者としてこの一文が気になったため、私は私なりの国家論、民主主義批判を整理しなければならないと思った次第である。

(続)

3月16日参議院予算委員会 三原じゅん子議員の「八紘一宇」発言について

 三原じゅん子議員が「八紘一宇」について発言したと報道された。なかなか発言全文が見つからなかったので、私の方で動画をもとに発言内容を文字に起こしてみた。以下起し。

三原じゅん子議員 私はそもそもこの租税回避問題というのは、その背景にあるグローバル資本主義の光と影の影の部分に、もう私たちは目を背け続けるのは出来ないのではないかと、そこまで来ているのではないかと思えてなりません。そこで今日皆様方にご紹介したいのがですね、日本が建国以来大切にしてきた価値観、「八紘一宇」であります。「八紘一宇」というのは、初代神武天皇が即位の折に、天の下をおおいて家となさんとおっしゃったことに由来する言葉です。今日皆様方の手元には資料を配布させていただいておりますが、改めてご紹介させていただきたいと思います。これは昭和十三年に書かれた『建国』という書物でございます。八紘一宇とは、世界が一家族のようにむつみ合うこと。一宇、すなわち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いものの為に働いてやる制度が「家」である。これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は、弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族を虐げている。世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族の為に働いてやる制度ができたとき、初めて世界が平和になる、ということでございます。これは戦前に書かれたものでありますけれども、この「八紘一宇」という根本原理の中にですね、現在のグローバル資本主義の中で日本がどう立ち振る舞うべきかというのが示されているのだと私は思えてならないんです。麻生大臣、この考えに対しいかにお考えになられますでしょうか。

麻生財務大臣 もうここで戦前生まれの方は二人くらいですかね、もう他におられないと思いますけれども、これは今でも宮崎県に行かれると八紘一宇の塔というのが立っております。宮崎県の人いない? 八紘一宇の塔あるだろ? 知ってるかどうか知らないけど。福島さんでも知っている。宮崎県関係ないけど、八紘一宇はそういうものだったんですよ。日本中から各県の石を集めましてですね、その石を積み上げて八紘一宇の塔は立っていると思いますが、これは戦前に出た歌の中でも行け八紘宇と為しとかいろいろ歌がありますけれども、そういったものの中にあってメインストリームの考え方の一つなんだと私は思いますけれども、私たちは世界なら世界の中で1500年以上も前から少なくとも日本と言う同じ場所に同じ言語をしゃべって、万世一系天皇陛下という国は他にありませんから、日本以外にこれができているのが10世紀以降にできたデンマークがその次くらいで、5世紀から日本書紀で外交文書を持ち古事記という和文の文書を読みきちんとしている国はそうないんで、そこに綿々と流れているのはこういったような考え方であろうということで清水さんという方が書かれたんだと思うんですけれども、こういった考えをお持ちの方が三原先生のような世代の方にいたということが正直驚いたのが実感です。

 「建国」という題で八紘一宇、清水という苗字ということで私は戦前の枢密院議長清水澄氏の著書から引用したのかと思ったが、清水澄に「建国」という書物はなく、清水芳太郎という人物の著書からの引用のようである。清水芳太郎は九州日報の主筆で中野正剛とも関係があったようだが、若くして亡くなったようだ。

 三原議員の八紘一宇理解は正しい。「八紘一宇」を最初に唱えたのは田中智学と言われる。だが、田中以前にも、陸羯南が『国際論』で八紘一宇のもとになった日本書紀の章句を引用し、欧米の弱肉強食をやめさせることが日本の使命であると主張している。
 八紘一宇は政治に当たるものは皇徳を実践し、人民のための政治を行い、人民は正しい心を養うことで、国中が団結することができるという意味が込められている。戦争の時期に侵略のスローガンに使われたなどとありもしない妄想をもとに物を言うべきではない。もっとも、「敗戦後、GHQが日本は八紘一宇を旗印に侵略に走った愚劣な国家であるということにした」ということであればまことに正しい認識なのだが。

 日本人は日本人が培った理念により、近代風の弱肉強食とは違った世界観を再構築することができる。戦前の高い理想に学びわが身を正す必要があるのではないか。

アジア主義に対する考え方

 孫文という、徹頭徹尾政治屋だった人間がいる。彼が行った有名な講演に、「大亜細亜主義」というものがある。

 孫文は、最初日本がアジア復興の光となってきたと述べる。そしてその結果東洋諸民族は西洋から独立することを旗印に連帯できるとしている。このあたりまではアジアの連帯を主眼に考えていると言えるが、かつての支那の朝貢関係の話になるととたんに支那ナショナリズムが顔をのぞかせる。つまり支那は王道によって他国に接したから成功したのだ、と自国を持ち上げているわけである。もちろんこれが当たっていないことは明白である。さらにソビエトを礼賛するあたりにおいては、この年の一月に国共合作を果たしたばかりであるという自国の政治状況が露骨に出てしまっているのである。したがってアジア主義は西洋に対抗すると言う点では理解しあうことができるが、自国の歴史観や国益などでは対立、決裂してしまうと言う状況がすでに見え隠れすることに気づくだろう。
 また、孫文は武力に由らない東洋の王道を絶賛しながらも西洋の武力文化も学ばねばならないと矛盾したことも言っている。孫文は西洋とは違いあくまで自衛のために使うのだと主張するだろうが、王道を以て他国を感化できるのであれば自衛のための武力も必要ないのではないか。

 孫文の発言は自分を支援してくれた者を高く評価し、支援してくれない者を貶めるだけ、あるいは自己の立場を正当化するだけの、主義とか思想の名を冠するに値しないただのポジショントークである。

 福沢諭吉は「脱亜論」で支那朝鮮は滅び行く国であり、隣邦の交誼だと言って会釈に及ぶ必要はなく、西洋人と同様に接するべきだと言っている。これをもって福沢は侵略主義者であるとの決め付けが今でも行われている。しかしそれは誤りであろう。全文をよく読めばわかるとおり、この論説における「アジア」とは「植民地化される国」であり、むしろ日本がそれと同様に西洋にみなされていることを恐れているのであり、積極的な侵略を求めたものではない。福沢は金玉均などの朝鮮改革派と親しくしていたがそれらの活動が挫折したことで、東洋を守り立てる運動に挫折した形となった。その結果がこの論説であり、そのことを見ずして福沢を西洋主義の権化のように言うべきではない。ただし福沢は「文明開化」を必ずしなければならない良いこととして信じ込んでおり、それに乗り遅れた支那朝鮮を見放す結果となった。福沢の脱亜論は支那朝鮮も開化しなければならない、開化できるという過度な期待の裏返しであり、隣国に多くを求めすぎた結果であろう(古谷経衡『もう、無韓心でいい』79~85頁)。もっとも、福沢がこう言う考えを持つに至ったのは、「文明開化」しなければ帝国主義の時代で生き残っていけないという強い危機意識によるものだ。「文明」を過度に信じすぎると、「文明」に浴しない者を未開、野蛮視するようになる。福沢はその典型的人間だ。福沢は貧困層やアジアの民に対し侮蔑的な発言を繰り返している。福沢もまた帝国主義の世界化で自己利益、日本の利益ばかり重んじた、孫文とはまた違ったポジショントークの人間である。

 話を戻して、アジア主義とは、西洋人の世界支配に反対し、アジア人による秩序構築を呼びかける思想ないし運動であった。しかしこのアジア主義も論者によって思い浮かべるところはさまざまである。それらを本来一様的に語ることは難しい。そしてアジア主義には二つの限界があった。
 一つは、アジアが連帯しても、当時の欧米には歯が立たなかった、という現実である。軍事力、経済力の差は決定的だった。その現実に直面したとき、大東亜共栄圏構想の様に「近代化を成し遂げた日本が中心となったアジア主義でないと西洋に対抗できない」という発想が生まれたのだろう。しかし、それも大東亜の敗北により夢となってしまった。
 二つ目の理由は、「アジアは一つ」ではなかった、ということである。ヨーロッパはローマ帝国やナポレオンなど、その領域が大きく変動することも史上に何度かあったし、何よりキリスト教という一つの世界観が確立されていた。後にカトリックとプロテスタントに分かれるが、その先鋭的な対立も収まると、共通の機軸を持った一様的な世界ができたわけである。パワーポリティクスのもと、同盟の離合集散を繰り返してきたこともそれに拍車をかけたと言えよう。
 ところがアジアは支那による中華秩序が多少成立していたが、それらの結束は弱いものだった。一つの共通した価値観を持った「アジア世界」なるものは、未だに訪れていない。アジア内部があまりにも多様すぎるのだ。それはアジアが仏教や儒教、イスラム教、そして日本の神道などさまざまな信仰の雑居地帯であったことが重要な原因として挙げられる。

 アジア主義は、西洋への反発から生まれた。その心意気は今の我々にも通じるものがある。しかしその影で「アジアはあまりにも多様な世界」であることを見落としてしまった。アジアは連携できない。支那朝鮮は無論、インドとも、東南アジアとも、モンゴルとも、台湾とも連帯できない。すべきかすべきでないかの話ではない。したくてもできないのである。できるとすればせいぜい利害関係に基づく緩い連帯であろう。
 その最大の原因は共通の文化がないからである。人によっては台湾やトルコ、イスラム圏などは日本に好意的ではないか、と思う向きもあるだろう。だがそれは彼らの現在の政治状況がそうさせるのであって、過度な期待は禁物であると私は思う。

 最後に念のために断わっておく。アジア主義を批判する人間には、時にアメリカや西欧との関係を重んじるためにそれを述べる場合がある。私はそういった意見には与しない。アジアは遠い。だが欧米はそのアジアよりもかけ離れている。世界のどこかに日本の味方がいるなどという、うす甘い期待からまず醒めることから初めては如何だろうか。

清末の改革

 清末における改革の意義を、国家統合の再編という観点から論じるためには、まず清末にどういった改革が行われたかを述べなくてはならない。

 清が本格的に近代国家として出発するきっかけとなったのは、1840年から始まったアヘン戦争、1857年からのアロー号事件だった。清はそれに破れることによって『華夷秩序』による伝統的な対外秩序を放棄せざるを得なくなった。華夷秩序は朝貢外交を基盤としており、対等な二国間関係を基礎とする主権国家間の近代外交とは根本的に相容れない存在だった。上記の戦争に敗れて押し付けられる形で始まった近代外交で、国家間関係の対等化、常駐外交官の派遣などが行われた。しかし周辺諸国に対してはまだ朝貢関係を持続させようとしていた。対外条約が結ばれるようになり国境が規定され、「中国」の領域が規定された。
 清の内部に関しては、19世紀中期から大反乱が続発していた。1850年から太平天国の乱が、1853年には捻軍が蜂起した。1860~70年代にはその蜂起を平定し統治体制の再建に臨んだ。

 内治各省では州県制の再建が目指された。
 新彊ではイスラム社会による間接統治が行われていたが、州県制に移行が試みられた。1862年には西北回民が反乱し、現地のイスラム教徒に波及した。清国内では新彊の放棄論と回復論が唱えられ、激論となったが、回復論が採用され、1876年に新彊回復戦争が行われて勝利した。その結果統治体制の再建が行われて、内治制度が採用された。新彊省が設置された。官僚により直接統治が行われた。イスラム有力者が地域行政ポストに任命される形となった。漢民族の文化が流れてきたが、現地社会には浸透せずイスラム文化を維持した。

 北部遊牧地域は盟旗制を維持した。
 東三省・モンゴル・チベットは基本的に安定していて、それぞれの統治体制を維持してきた。チベットでは、イギリスが通商要求したが、清朝は容認する方針だったものの、ダライラマ政権が拒絶したため、英国が出兵。敗北した。清朝は駐蔵大臣をインドに派遣する交渉をし、インドとの国境を定める交渉が行われた。
ここにきて清朝の統合は崩壊の危機が訪れたが、内地の州県制再建と新彊の州県制移行で基本的に維持された。多元的統合は19世紀末までは維持されたが、20世紀初頭はそれも再編され、一元的統合(国民国家)に再編された。
 国民国家化するためには議会制・徴兵制・国民教育の三者が目指された。清国は日清戦争の敗北により、多元的統合体制に現体制下での近代化の限界を感じ、日本をモデルとした国民国家化を目指した。1898年には戊戌変法が急進的な改革を目指した。1901年には「変法の詔」が出され、海外の制度を積極的に受容する抜本的改革が表明された。「立憲改革」をスローガンに、立憲君主制が目指された。近代法体系の整備と、議会制の試行、近代会計制度、近代司法制度、地方自治制度、義務教育普及などが行われた。これらはある程度成功した。
 内地では、憲法が公布され、議会を開設するための諮問議会が開かれた。地方自治制度は庁州県―城鎮郷の二級制が住民選挙による議事会が開かれた。行政職では城鎮郷は議事会が選出した役人が統治し、庁州県は政府が派遣した役人により統治された。選挙を実施するためには住民登録が必要なため、戸籍が調査された。しかしそれは概算人口に依拠したものであり、不正確だった。
 東三省では漢人の入植が盛んで、内地制度が実施された。藩部では内地との同化が前提とされた省制の移行が行われた。たとえば議会である資政院の欽選議員の中には蒙古王公が十二名含まれていた。
 蒙古では統治方針が変更され、漢化防止規定が撤廃され、漢人が入植し、漢語が使用解禁された。
 チベットに対しては、軍隊を駐屯させ、学校を作ったがダライラマらは反発。亡命した。

 清国は国名を「大清国」から「大清帝国」という立憲政体を前提とした国名に変更することさえ考えていた。そのなかで「大清帝国」という国民国家として、「大清帝国ナショナリズム」の作成が試みられた。儒教イデオロギー・漢語による文化統合、汎民族的統合モデルの制作、世襲の軍務服役などが画策された。国民国家化する上で八旗をモデルに満人、漢人の分離統治を廃止。八旗の廃止により徴兵制の実施も検討された。
 こうした「大清帝国ナショナリズム」に漢人は二通りの反応を示した。漢人のみのナショナリズムを標榜する革命派は、激しく反発。立憲派は容認方針だった。後者のほうが大勢だったが、その前提には彼らが主導権を握ったシステムが出来上がることがあった。
 1911年に内閣が組織されると、その満人が多いことに漢人立憲派が反発。再組閣要求を行ったが、清朝側は拒絶。その結果孫文を主導とする革命派に立憲派の多くの人員が流れ、「大清帝国ナショナリズム」の共有は失敗した。

 このように清末の改革は失敗に終わったわけだが、その原因には漢人の支持を最終的には取り付けることができなかったことが挙げられる。前の体制の根幹である満洲族による統治にこだわったため、漢人の願望を満たせなかったためだ。しかしより多くのポストを割けば漢人が満足したとも限らないから、一概に満洲人が責められたものでもないだろう。自国の状態を考えず、自民族のみの統治にこだわった漢民族に非があるといえなくもない。
 だが、その後に成立した中華民国も、清朝の体制を引き継ぐ形で成立しており、宣統帝が退位するときには各民族が平等であるということを確認されている。その上で五族共和原則が出されている。これは汎民族的ナショナリズムの構築を目指すものであり、中華民国ナショナリズムとは大清帝国ナショナリズムであるといえる。とはいえ実態は漢民族が握っていたから、建前としての中華民国ナショナリズム、実態としての漢民族独占体制といえる。そうせざるを得なかった理由としては、やはり周辺の各民族の理解がなければ国家の成立など到底不可能だったからではないか。袁世凱は孔子廟を祭祀したり、復古的な政策を取る中で、共和政体と儒教イデオロギーの折衷を目指していた。共和制中国の国家元首とモンゴル王公の盟主、チベット仏教の保護者などの清朝の皇帝の役割を汎民族的ナショナリズムの構築のため兼任するためには、帝政こそ相応しいと考えていたのだ。
 袁世凱の帝政復活は結局頓挫したが、その後の中華民国は蒋介石が武力により完全統一するまで長く混沌状態が続く。結局「中華民国の国家元首」では汎民族的な理解を得ることはできなかったからであろう。

 近代国家を作り上げるに際して、「民族」という概念ははずすことができない。各人が民族と言う血族的、文化的諸集団に入り、それらを統合する存在として国家がある、と言う考え方がそもそもの国民国家の成立の原理だからだ。国民国家化を目指す場合、それをはずして考えることはできない。
 袁世凱の場合、漢民族だけを対象とした漢民族による国家を作ることも全く不可能ではなかったはずだ。しかしそれをしなかったのはおそらく政権の正統性がなくなるからだろう。中華思想に支配されている「中国人(この言葉がそもそも中華思想による言葉とも言えなくもない)」が前政権との連続性を放棄することは中原を支配する正統性を譲られなかったことになる。その意味で袁世凱は清国をなんとしても引き継がねばならなかった。
そのときに清末に行われた「大清帝国ナショナリズム」が参考になったはずだ。汎民族的なナショナリズムを構築することで清国を引き継いだ存在になることができる。そのためには清国皇帝と似たようなポジションに誰かがつくことが必須だったはずである。

 結局その後の支那における政権は中華民国しかり、中華人民共和国しかり、強力な軍事力による独裁体制しか成立していない。他民族の必要に答えるだけの統合の象徴を持ち合わせていないのだから、当然の結果と言えよう。
 清末の改革は「中華世界」における国民国家を成立させるのにほとんど唯一の道をたどろうとしていたように思う。
 国家統合において各文化(各民族と言いかえることもできる)の必要を満たす(満たせない場合は強力な力により押さえ込むしかない)ことは必須だが、清国末期に行われた改革はそれらを満たしながら近代化する動きとみてよいだろう。
 改革は失敗に終わったが、「大清帝国ナショナリズム」は今後の支那統治を眺める際にも参考となる部分が多いように感じる。

清朝の治世について

 清朝の統治体制について理解するには、清朝がどういう理論を使って国土を広げていったかをたどる必要がある。その統治の過程をたどることにより必然的に統治構造が見えてくるだろう。なお、清朝は初期は金といったが、ここでは便宜的に「清朝」で統一する。

 清朝の特色としては、漢民族の建てた王朝ではなく、満州族という少数民族の立てた王朝であるということである。その結果清朝は統治過程において、満洲期、「中華」(伝統的に漢民族が居住していた地域)進出期、西域への領土拡大期の三段階を踏むことになった。それが統治体制にも大きな影響を及ぼしている。そこで清朝がこの三段階をどのように経ていったかを見ていくことにする。

 まずは満洲期について述べる。満洲とは中国東北部、沿海州などを含めた地域の総称である。ここでは女真人というツングース系民族が伝統的に居住していた。1616年、ヌルハチが後金を建国した。ヌルハチは八旗制度をつくった。八旗制度とは1ニル=300人単位で編成される社会集団で、戦時には軍事化されたものである。八種類の旗の下に集約されたことから八旗と呼ばれた。また、清朝が領土を広げていくと同時に帰順した地域の兵士を八旗に編入させた。満洲地域を平定した清朝はモンゴル部にいた北元も帰順させ、このとき正式に「大清国」と名乗ることになった。また、この時期に女真人から満洲人に改称している。これは文殊菩薩から来たものである。これは後にチベットを帰順させたときに大きな意味を持つ。

 次に中華期について述べる。清朝は明朝と遼東を主有していた明国と長年対立関係にあったが、明朝の内乱に乗じて、「中華」地域まで侵攻(入関)した。当時の清国皇帝順治帝は奉天で一度即位しておきながら、入関後に北京遷都し、北京で再度即位している。これは旧明官僚による推戴という形をとっており、これにより、明朝を継承する、という建前が誕生した。
 しかし南方ではまだまだ清朝に対して反旗を翻すものも多かったが、清朝はそれら氾濫勢力を平定する過程により中国支配を固めていった。

 最後に西域への領土拡大期について述べる。先に清朝は北元をさせ、元朝の王権を継承する建前を手に入れていたが、それはこの時点で全モンゴルを支配していたというわけではなく、まだまだモンゴルには北元以外の勢力もあった。清朝はこの時点では内蒙古を支配していた。西部はオイラート族のジュンガルが支配、外蒙古(ハルハ部)は両者の緩衝地帯となっていて、ジュンガルと同盟関係にあった。
 そのハルハ部で内紛があり、それに対して清朝とジュンガルがそれぞれ介入し、その結果ジュンガルと清朝が外蒙古で対決することとなった。1696年に康熙帝が親征することで清朝が有利となり、1732年には清朝が決定的な勝利をつかみ、1739年に和議成立、アルタイ山脈を境とすることとなった。これにより内外モンゴルにおいての清朝の統合が達成され、モンゴル支配が完成した。
 モンゴル支配が完成すると、清朝はチベット支配に乗り出した。チベットではラマ教とも呼ばれるチベット仏教が盛んな土地で、世俗の君主保護者を「転輪聖王」(ダライ・ラマ)と呼び観音菩薩の転生者と考える発想があった。
 清朝はチベットでの宗派間抗争に乗じ、チベットでの勢力を伸ばした。ダライ=ラマ5世をチベット仏教の宗派であり、清朝が擁護したゲルグ派から出すことに成功、清朝とチベットには間接的関係が成立した。後に清朝は「駐蔵大臣」を二名置くことになる。清朝はゲルグ派に帰依し、それにより清朝皇帝が「文殊菩薩転生者」とみなされるようになった。このように清朝とチベットとの関係は政治的関係というよりは宗教的関係なのである。これは清朝の統治形態の中で重要な意味を持つことになる。
 さらにモンゴル地区、チベットを巡って対立を続けたジュンガルの根拠地である新彊地区も支配することとなる。もともとこの地区は10世紀からイスラム社会であり、チャガタイ=ハン国が成立したときもイスラム国家だった。1750年にジュンガルは内紛を起こす。清朝はこれに介入。ジュンガルを滅亡させ、清朝に統合させることに成功した。タリム盆地のイスラム勢力も独立を目指すが1759年には清朝に平定される。この地区は清朝により「新彊」と名づけられた。
 また、この時期ロシアとネルチンスク条約、キャフタ条約を結び、国境を画定した。
これらにより清朝の支配領域が固まった。

 今まで見てきたように、清朝は満洲の地から起こり、蒙古、西域まで支配領域を徐々に延ばしてきた。その結果、さまざまな民族、宗教、体制を持っていたところを統治しなければならなくなったので、清朝の統治体制は自然多様なものになった。
 清朝の統治領域は、まず直接統治地域と間接統治地域に分かれる。前者は満洲、つまり東三省と内地十八省(=歴史的中国、旧明領)をさし、後者は蒙古(モンゴル)、西蔵(チベット)、新彊をさす。これら五つの地域はそれぞれ異なった統治が行われた。
 まずは東三省について。ここではかつてから女真人による国家統治が行われてきた。そのためこの地域においては伝統的な集団単位の人民編成による統治方式が継続された。
 女真人社会は半農半牧社会で、狩猟や戦争時には「ニル」と呼ばれる十人制の集団が組織として機能していた。清朝の祖ヌルハチはそれを応用して八旗制度を作り上げた。八旗制度とはニル単位の社会集団であり、戦時にはこれが軍団化した。清朝が他民族を帰順させていく過程の中で、次々と八旗に編入する作業が行われた。蒙古八旗、漢軍八旗、回子佐領(ウイグル人)、番子佐領(東部チベット人)、高麗佐領(朝鮮人)、俄羅新佐領(オロス・投降ロシア人)、さらに亡命ベトナム人が漢軍八旗に編入されたことがそれである。
 1644年に「入関」すると、北京には禁旅八旗、各省主要都市には駐防八旗が置かれた。これらは漢人の移動移住を規制する制度である。
 東三省は八旗制度こそが地方行政制度であり、住民は八旗に編入された。ただし遼東地域は後に州県制度に移行した。

 次は内地十八省について述べる。内地十八省では州県制度が採られた。これは入関の際、旧明朝の官僚制統治を継承したからである。官僚、軍人の登用には科挙が用いられた。このように内地十八省での清朝の統治は旧来からの中国の制度を継承した要素が強い。しかし内地人民は八旗に編入され辮髪や満州式の服装を義務付けられた。また、少数民族は土司制度が採用され、間接統治が行われた。辮髪などにする必要はなく首長は世襲で任命された。ただし科挙受験資格はなかった。
 1728年曽静事件が起こった。これは無名の漢人知識人による謀反だった。謀反の理由は、華夷思想により「夷」による支配を否定していたからだった。時の皇帝である擁正帝はこの理由に、「華」とは文化的属性であり儒教理念をいかに実践するかだとして、漢人のみが優越であることを否定し、清朝の正当性を主張した。この事件により清朝は以前は「夷」であったが中国王権を継承したことで「華」の属性を獲得し、華と夷を平等に支配するという「華夷一家」の思想を打ち出した。そしてこれにより恒久の平和が実現できるとして清朝統治の優越性を説いた。これは漢人知識人全体への宣伝であり、清朝はこうして華夷意識を清朝自体の正統性へとつなげていった。

 モンゴル系遊牧社会である蒙古、青海、新疆北部においては部族自治=「盟旗制度」が採られた。部族単位は旗(ホシューン)、部(アイマク)、盟(チュルガン)、の三つである。旗長(ジャサク)は王侯による世襲で、皇族待遇であった。
 チベットではゲルク派保護体制が敷かれた。寺院や貴族が領主として支配するも、駐蔵大臣が派遣され限定的ながら内政関与が強化された。1793年にはダライ・ラマ新選出法が制定され、内紛を調整した。
 1780年に乾隆帝はパンチェンラマ4世と会見した。このとき両者は対等の処遇であった。これはパンチェンラマが阿弥陀仏の転生者と考えられていた一方、清朝皇帝は文殊菩薩の転生者と考えられていたことに由来する。しかし清朝官僚や朝鮮の使節にとってはパンチェンラマをも皇帝と同じ拝礼をしなければならないという事態となってしまった。そのことにより乾隆帝批判も出た。これは清朝皇帝が天子として全人類に君臨する存在と考えられていた一方で、チベットでは転輪聖王として諸転生者の一人としてしか捉えられていなかったという矛盾が露呈した形となった。清朝の統合理念が儒教とチベット仏教を使い分けていたことのダブルスタンダードがあらわになった事件である。
 新疆タリム盆地(回部)ではイスラム社会による自治が行われた。イスラム有力者をベイ(伯克)に任命し地域社会を統治していった。異教徒支配などにより不安定要因が常にあった。
清朝は首都を盛京(奉天)に置き熱河に避暑山荘があった。また夏季には内モンゴル狩猟を行い、モンゴル社会と親睦を深めた。

 清朝の統治体制は多元的構造になっていて近代国民国家のような一元的構造とは異なる。統治理念としては儒教(漢人、八旗)とチベット仏教(チベット、モンゴル)がある。清朝皇帝は天子(=儒教理念)であると同時にチベット仏教(=チベット仏教教義)の転輪聖王でもあった。それにより矛盾をきたす場合もあった。版図統合に際しては、皇帝の存在を媒介とした「華夷一家」の理念が謳われ、それは伝統的漢人社会である「中国」の理念とは多少異なるものであった。内中国(=漢人社会)と外中国(=モンゴル、チベット、新疆)とは統治体制が違い、外中国では旧部族にある程度自主的統治を許す形をとった。この二元性をあらわすため、内中国を「中華王朝体制」、外中国を「ハーン体制」と形容することもある。
 このように清朝は多元的統治を認め、そのなかで皇帝が強い権限を持って君臨していたが、ときに多元的であるが故の矛盾を露呈してしまうこともあったのである。

 孫文はこの多元的統治を嫌い、漢民族による統治を主張することになる。

中田耕斎が選ぶ良書9

 久しぶりの良書紹介である。

若松英輔『生きる哲学』『池田晶子 不滅の哲学』
井尻千男『劇的なる精神 福田恒存』『共同体を保守再生せよ』
大窪一志『自治社会の原像』
長谷川三千子『からごころ』『正義の喪失』
松本健一『海岸線の歴史』
原田武夫『甦る上杉愼吉』
柄谷行人『世界史の構造』
大内秀明、平山昇『土着社会主義の水脈を求めて』
黒岩比佐子『パンとペン 社会主義者・堺利彦と売文社の闘い』
小林よしのり『新戦争論 1』『大東亜論 巨傑誕生編』

 比較的最近読んだもしくは再読した本から選んだ。
 いわゆる保守的な思想傾向の人から無政府主義傾向の人まで、様々な立場の本を挙げている。
 いわゆる右左などという思想分布は全くの嘘で、真贋があるだけである。言葉が本物な人は少々意見が違ったとしても素晴らしいものは素晴らしい。逆に偽物は何を言っても駄目である。

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 ◆今後の更新予定

 今後は(特に今までと変わらないが)下記長編を書く傍ら今回のような単発の記事を更新していく。

・改めて国家とは何か

・伝統と信仰

・国粋主義者と社会主義者

・皇室中心論

・『昆虫記』余話

・陸羯南論

・地理と日本精神

・蓑田胸喜『国防哲学』を読む

 本年年初に書くと言っていた論題から更新している。なお、上に行くほど原稿が完成に近い状態にある。ちなみに本日紹介した良書はすべて上記論題のどれかで使用している。

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27.3.5 今後の更新予定に『昆虫記』余話を入れていなかったので追記。

ふるさとについて

 私のふるさとは神奈川県である。現住所とは車で4,5分程度はなれた場所で生まれた。現住所には幼稚園に入る前に引っ越してきた。だから、記憶の中には今の家しかない。といっても、親の都合で小学校二年生から五年生までは宮城県仙台市で過ごした。先に「ふるさとは神奈川県」だと安易に書いてしまったが、ふるさととは何だろう。出生の地なのだろうか。それとも思い出深い場所だろうか。よくわからない。仙台もある意味思い出深い場所である。ふるさととは「故郷」と書く。自分にとっての故郷こそ「ふるさと」と呼ぶに相応しい場所といえるのではないだろうか。その意味では私は東北気質なところもあるから、仙台が故郷かもしれない。ただし、仙台は「移民の街」である。つまり各県から集まってきた人ばかりで、現地に土着した人が少ないのである。その意味では仙台は故郷と呼ぶに相応しい場所なのであろうか。何度自問してもよくわからない。

 故郷とは単に思い出深いといった正の印象ばかり抱いている場所ではない。泥臭くて、もう帰りたくない、飽き飽きするような嫌気すら抱える場所でもある。それは自分自身に対する印象とも似ている。自己への嫌悪感と似たような感覚で故郷に嫌悪感を抱く。ただ、その嫌悪感を一生切り離せないと達観しているのである。その意味で、今の日本人には「故郷」があるだろうか。たまらなく愛しく、それでいて許しがたい故郷。そんなものは近代画一主義のもと、跡形もなく吹き飛んでしまったのではないか。欧州には今でもコンビニエンスストアの進出を制限し、店舗の深夜営業を禁じている所があるという。地元の商店街を守るためである。故郷を守る気もなく、安直に自由競争経済を肯定しているものにはその論理は想像できまい。自由競争によって耐え難い故郷の喪失と、どこに行っても同じ風景の悪しき画一化がなされたのである。そのことへの痛みや憤りを持っているだろうか。自由競争社会は故郷に根ざした真の民族主義を破壊してしまったのだ。もしくは今でも電灯を嫌い、ろうそくの灯りの中で生活するイギリスの伝統主義者をせめて嗤わないで頂きたい。
 それは世界単位でも変わらない。いまやアフリカにも高層ビルが立ち並ぶ時代になってしまった。「これが日本だ」と世界に発信しようとしても、思い浮かぶのは高層ビルとマクドナルドと…。どこの国でもある。もはや故郷は故郷性を失いつつあるのである。それに対して、鋭敏に感性を張り巡らせている日本人が何人いるのだろうか。

 故郷の喪失は世界大で見ても民族主義の喪失なのである。地球規模の画一化が米国の手によって異常なまでに進んでいる今日、民族主義は危機に瀕している。徳富蘇峰は「俺の恋人誰かと憶ふ 神の造った日本国」と詠んだ。そうした熱烈な民族主義は、もはや出現しないのだろうか。もっとも、そうした危機状況への反動として、各国で民族主義が強調され始められたということもできなくもない。移民への反発、高失業率がそれに拍車をかけていることは確かである。日本に限らず、各国の「極右」団体は移民の排斥を主張しているのもそのためである。その排斥された移民が、原理主義と結びつきテロ行為に走るという哀しい現実もある。

 日本の政治には民族派からの意見が少ない。戦争に負けたからである。戦争に負けた国は、どこもそうなる。しかしいつまでもそのままでいるわけにはいかない。国際関係は競争理念で成り立っている。残念ながら隙だらけの国は飲み込まれてしまうのである。それも、昔のように、国自体がなくなるのならば見た目にもわかりやすいが、昨今は「いかに相手国から利益を引き出すか」が主なやり方になっている。油断していると国の財産を掠め取られる、というわけである。しかしコスモポリタンが多いこの日本国では、そういうことに鈍感で、安穏としているのである。

 冷戦の西側も東側も、コスモポリタンなことには変わりがなかった。どちらも利益社会をめざし、共同社会を解体しようとする態度を「進歩的」だと錯覚している。進歩などしなくてよろしい。それよりも大事なものを見失わない人でありたい。

再びピケティについて論ず

 ピケティの主張を一言でいえば、資本による収益率(r)が経済成長率(g)より大きくなるために格差が発生する。この法則は歴史のごく限られた一時期を除き、どの国、どの時代にも当てはまるものだ。r>gによる格差拡大の弊害を是正するために国際的な資本課税をすべきだ、ということに尽きるだろう。

 ピケティの論考が新しかったのは、それまで経済学で唱えられていた経済成長により格差は自然と解消していくといういわゆる「トリクルダウン」理論を論破したことである。ピケティの議論は、「トリクルダウンなどない」という経済学の素人の実感を、膨大なデータから裏付けたともいえる。

 では、ピケティの議論には何も問題はないのだろうか。私は二点ピケティの議論の問題点を指摘しておきたい。ひとつはピケティのグローバル性向であり、もう一つは経済成長志向である。

 まずはグローバル性向について述べよう。
 ピケティの議論がグローバル的だというのは、すでに過去記事にも書いた。ピケティは経済が文化圏の垣根を越えて共通した法則で動くという発想から論じており、グローバルな法則思考に過ぎるのではないか、というのが率直な読後感である。
 また、ピケティがr>gによる格差拡大の弊害を是正するために主張したのは、国際的な資本課税であって、国ごとに資本に課税したり格差を是正しようとする動きに対して冷淡である。いわゆるタックスヘイブンのように税率が低い国、地域に資本が逃げ回ってしまうからだろうか。それもあるだろう。だがピケティは、それ以上に経済には対外開放性が必要不可欠な概念である、という発想から国ごとの枠組みに冷淡な態度を取るのである。全くグローバリストである。ピケティの主張する国際資本課税はどこかの国が抜けたらそこがタックスヘイブンになり破綻してしまうという現実性のなさもあるが、それ以上に国が租税の自主決定権を部分的であれ失うという、新自由主義以上の国境の軽視を招く危険性があることを指摘しておきたい。

 次にピケティの経済成長志向について触れたい。
 ピケティはいわゆるトリクルダウンを否定したからと言って、必ずしも経済成長を忌避するような論客ではない。ピケティが資産課税に踏み込むとき、その批判対象は主に親からの多額の資産を受け継いだような人物であって、成り上がりの企業家ではない。経済成長による結果が正当性を持つよう、「機会の平等」を実現するための資産課税なのである。資産による不平等は、「能力主義に軸足を移した民主社会では受け入れがたい」(『トマ・ピケティの新・資本論』364頁)というのだ。私は経済学者ではないので、あえて感覚的な言い草をすれば、「能力主義」、「民主社会」とは鳥肌が立つような気持ち悪さである。まさか経済競争の結果が「能力」を正当に反映した結果だというつもりなのだろうか。

 ところで、資本による収益率(r)が経済成長率(g)より大きくなる、というピケテイの法則は、なぜ経済成長率と資本収益率の比較なのだろうか。私のような素人からすれば、経済成長率よりも、例えば実質賃金上昇率と資本収益率を比較して、賃金よりも資産による利ザヤのほうが大きいんだね、だから資産を持つと金持ちになれるんだね、というほうがすっきり頭に入ってくる。そうすれば、(私は読んでいないが)ロバート・キヨサキの『金持ち父さん貧乏父さん』を連想するかもしれない。だが、そうではなかった。

 経済成長との比較にピケティが設定した理由は、単純にデータの制約上そうなっただけかもしれない。だが、私はどうしても経済成長率を使いたかったのではないかと邪推したくなる。経済成長率には経営層の所得上昇も勘案されるが、賃金上昇率ではそうもいかないのである。

 以上は私の穿った見方であって大した根拠があるわけではない。だが、ピケティが「能力主義」なるものを信じ資本主義による競争の結果を正当と認めていることは留意しておいたほうがよかろう。「能力」による格差拡大はむしろ擁護する可能性すら秘めていることも踏まえて。

 ピケティは『21世紀の資本』の英語版が出版されたことで大いに注目された。その際にはいわゆるリベラルから歓迎され、資本競争を重んじる保守派からは批判が出ることとなった。どの世界も倒錯している。

◎参考文献
『21世紀の資本』
トマ・ピケティ著村井章子訳『トマ・ピケティの新・資本論』
『現代思想』1月臨時増刊号、ピケティ『21世紀の資本』を読む
池田信夫『日本人のためのピケティ入門』
竹信三恵子『ピケティ入門『21世紀の資本』の読み方』
高橋洋一『図解 ピケティ入門』
橘木俊詔『21世紀の資本主義を読み解く』