改めて国家とは何か 二


 いわゆる日本の「戦後民主主義」は批判され尽くしてきた。だがその内容のほとんどがいわゆる戦後サヨクの言葉の軽さ、無内容さを糾弾するものであり、「民主主義」そのものに踏み込むものではなかった。いまだに安倍首相が日本と米国は自由と民主主義という共通の価値観があるような発言をするなど、民主主義は「良いもの」として捉えられている。「ある意味では、「戦後民主主義」の悪口が盛んに語られれば語られるほど、「民主主義」そのものは、問うまでもない自明なもの、として祭り上げられることになる」(長谷川三千子『民主主義とは何なのか』9頁)。民主主義とはいかがわしいものだ。ただ対案が難しいものだ。しかし対案が難しいからと言って批判しないのは思想的態度ではないと思う。「知的怠慢」である。

 民主主義批判の論点は二つある。一つは、一人一票制、あるいは多数決の欺瞞である。もう一つは、「民主主義」という言葉に潜むイデオロギー性の問題である。両者は密接に関連している。

 民主主義をイデオロギーとして捉える場合、「自由」、「平等」、「民主主義」という近代思想の三つ子は分かちがたいものになる。
 政治とは、議会や選挙だけにあるのではなく、人々の日常生活にある。その人々の日常的な生活を破壊したのが、民主主義というイデオロギーであった。伝統的社会秩序を破壊し、「封建的」とののしり、静かなものであれ熱いものであれ革命へと向かわせる。

 「民主主義」には判定者がいる。欧米の大多数を占める人たちである。反民主的、とののしられることは、実際に民を抑圧しているかどうかは全く関係ない。「欧米の大多数を占める人たち」が気に食わなければ「反民主的」であり、「不自由」で、「抑圧的」で、「封建的」なのであって、実際に「自由」かどうかということに彼らは一切興味がない。したがって戦前日本もこのレッテルを欧米から張られたのであった。このインチキに気づかない限り「民主主義」の議論は常に間違えることになる。つまり安倍首相が自由と民主主義の価値観外交をするということは、日本はこれからも欧米の意に沿うような国家運営をして参りますという「戦後レジームの継続」を意味することでしかない。
 社会契約論という欺瞞に満ちた思想がある。社会契約論は、まず勝手に政府がない状態を妄想し、身体と財産の相互の保障を求めて政府を設立したのだ、と仮定する。そこには人々の共同性はみじんも想定されていないし、政府以外のあらゆる小共同体も無視されている。確かに「個人という感覚のない社会」は想像できないが、同時に「社会のない個人」というものも想定することはできないはずだ。小共同体を想定できない政府は専制的になり、各人は各人をあまりに縛り合うことにもつながる。統治には慣行が大きな影響を与えているが、社会契約論にはそうした慣行も無視されている。即ち社会契約に基づく政府は独裁的かつ資本主義的だ。財産の保護が政府の主たる役割だと言うのだから、社会契約論は資本主義とウマが合うのである。
「人権」とはののしるための道具であり、わめき散らすための武器である。「人権」は自己修養とは全く無縁の、「社会を自分の都合に従わせる」ためのイデオロギーだ。雨に濡れた猫を乾かそうと電子レンジにかけたら死んでしまったのは電器メーカーのせいだ、というのも、マクドナルドのコーヒーをこぼしてやけどしたのはマクドナルドのせいだ、というのも、訴訟社会の弊害として語られるが、まことに「人権的」な態度なのである。「人権」とは「基本的人権」のことだ。「基本的人権」の「基本的」とは、「国家、社会に制約されない」ということである。したがって「人権」は抑圧されてはいけないのである。どんな理由があっても。「公共の福祉」という理由があっても、である。このイデオロギー性を踏まえておく必要がある。

(続)

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