清朝の治世について


 清朝の統治体制について理解するには、清朝がどういう理論を使って国土を広げていったかをたどる必要がある。その統治の過程をたどることにより必然的に統治構造が見えてくるだろう。なお、清朝は初期は金といったが、ここでは便宜的に「清朝」で統一する。

 清朝の特色としては、漢民族の建てた王朝ではなく、満州族という少数民族の立てた王朝であるということである。その結果清朝は統治過程において、満洲期、「中華」(伝統的に漢民族が居住していた地域)進出期、西域への領土拡大期の三段階を踏むことになった。それが統治体制にも大きな影響を及ぼしている。そこで清朝がこの三段階をどのように経ていったかを見ていくことにする。

 まずは満洲期について述べる。満洲とは中国東北部、沿海州などを含めた地域の総称である。ここでは女真人というツングース系民族が伝統的に居住していた。1616年、ヌルハチが後金を建国した。ヌルハチは八旗制度をつくった。八旗制度とは1ニル=300人単位で編成される社会集団で、戦時には軍事化されたものである。八種類の旗の下に集約されたことから八旗と呼ばれた。また、清朝が領土を広げていくと同時に帰順した地域の兵士を八旗に編入させた。満洲地域を平定した清朝はモンゴル部にいた北元も帰順させ、このとき正式に「大清国」と名乗ることになった。また、この時期に女真人から満洲人に改称している。これは文殊菩薩から来たものである。これは後にチベットを帰順させたときに大きな意味を持つ。

 次に中華期について述べる。清朝は明朝と遼東を主有していた明国と長年対立関係にあったが、明朝の内乱に乗じて、「中華」地域まで侵攻(入関)した。当時の清国皇帝順治帝は奉天で一度即位しておきながら、入関後に北京遷都し、北京で再度即位している。これは旧明官僚による推戴という形をとっており、これにより、明朝を継承する、という建前が誕生した。
 しかし南方ではまだまだ清朝に対して反旗を翻すものも多かったが、清朝はそれら氾濫勢力を平定する過程により中国支配を固めていった。

 最後に西域への領土拡大期について述べる。先に清朝は北元をさせ、元朝の王権を継承する建前を手に入れていたが、それはこの時点で全モンゴルを支配していたというわけではなく、まだまだモンゴルには北元以外の勢力もあった。清朝はこの時点では内蒙古を支配していた。西部はオイラート族のジュンガルが支配、外蒙古(ハルハ部)は両者の緩衝地帯となっていて、ジュンガルと同盟関係にあった。
 そのハルハ部で内紛があり、それに対して清朝とジュンガルがそれぞれ介入し、その結果ジュンガルと清朝が外蒙古で対決することとなった。1696年に康熙帝が親征することで清朝が有利となり、1732年には清朝が決定的な勝利をつかみ、1739年に和議成立、アルタイ山脈を境とすることとなった。これにより内外モンゴルにおいての清朝の統合が達成され、モンゴル支配が完成した。
 モンゴル支配が完成すると、清朝はチベット支配に乗り出した。チベットではラマ教とも呼ばれるチベット仏教が盛んな土地で、世俗の君主保護者を「転輪聖王」(ダライ・ラマ)と呼び観音菩薩の転生者と考える発想があった。
 清朝はチベットでの宗派間抗争に乗じ、チベットでの勢力を伸ばした。ダライ=ラマ5世をチベット仏教の宗派であり、清朝が擁護したゲルグ派から出すことに成功、清朝とチベットには間接的関係が成立した。後に清朝は「駐蔵大臣」を二名置くことになる。清朝はゲルグ派に帰依し、それにより清朝皇帝が「文殊菩薩転生者」とみなされるようになった。このように清朝とチベットとの関係は政治的関係というよりは宗教的関係なのである。これは清朝の統治形態の中で重要な意味を持つことになる。
 さらにモンゴル地区、チベットを巡って対立を続けたジュンガルの根拠地である新彊地区も支配することとなる。もともとこの地区は10世紀からイスラム社会であり、チャガタイ=ハン国が成立したときもイスラム国家だった。1750年にジュンガルは内紛を起こす。清朝はこれに介入。ジュンガルを滅亡させ、清朝に統合させることに成功した。タリム盆地のイスラム勢力も独立を目指すが1759年には清朝に平定される。この地区は清朝により「新彊」と名づけられた。
 また、この時期ロシアとネルチンスク条約、キャフタ条約を結び、国境を画定した。
これらにより清朝の支配領域が固まった。

 今まで見てきたように、清朝は満洲の地から起こり、蒙古、西域まで支配領域を徐々に延ばしてきた。その結果、さまざまな民族、宗教、体制を持っていたところを統治しなければならなくなったので、清朝の統治体制は自然多様なものになった。
 清朝の統治領域は、まず直接統治地域と間接統治地域に分かれる。前者は満洲、つまり東三省と内地十八省(=歴史的中国、旧明領)をさし、後者は蒙古(モンゴル)、西蔵(チベット)、新彊をさす。これら五つの地域はそれぞれ異なった統治が行われた。
 まずは東三省について。ここではかつてから女真人による国家統治が行われてきた。そのためこの地域においては伝統的な集団単位の人民編成による統治方式が継続された。
 女真人社会は半農半牧社会で、狩猟や戦争時には「ニル」と呼ばれる十人制の集団が組織として機能していた。清朝の祖ヌルハチはそれを応用して八旗制度を作り上げた。八旗制度とはニル単位の社会集団であり、戦時にはこれが軍団化した。清朝が他民族を帰順させていく過程の中で、次々と八旗に編入する作業が行われた。蒙古八旗、漢軍八旗、回子佐領(ウイグル人)、番子佐領(東部チベット人)、高麗佐領(朝鮮人)、俄羅新佐領(オロス・投降ロシア人)、さらに亡命ベトナム人が漢軍八旗に編入されたことがそれである。
 1644年に「入関」すると、北京には禁旅八旗、各省主要都市には駐防八旗が置かれた。これらは漢人の移動移住を規制する制度である。
 東三省は八旗制度こそが地方行政制度であり、住民は八旗に編入された。ただし遼東地域は後に州県制度に移行した。

 次は内地十八省について述べる。内地十八省では州県制度が採られた。これは入関の際、旧明朝の官僚制統治を継承したからである。官僚、軍人の登用には科挙が用いられた。このように内地十八省での清朝の統治は旧来からの中国の制度を継承した要素が強い。しかし内地人民は八旗に編入され辮髪や満州式の服装を義務付けられた。また、少数民族は土司制度が採用され、間接統治が行われた。辮髪などにする必要はなく首長は世襲で任命された。ただし科挙受験資格はなかった。
 1728年曽静事件が起こった。これは無名の漢人知識人による謀反だった。謀反の理由は、華夷思想により「夷」による支配を否定していたからだった。時の皇帝である擁正帝はこの理由に、「華」とは文化的属性であり儒教理念をいかに実践するかだとして、漢人のみが優越であることを否定し、清朝の正当性を主張した。この事件により清朝は以前は「夷」であったが中国王権を継承したことで「華」の属性を獲得し、華と夷を平等に支配するという「華夷一家」の思想を打ち出した。そしてこれにより恒久の平和が実現できるとして清朝統治の優越性を説いた。これは漢人知識人全体への宣伝であり、清朝はこうして華夷意識を清朝自体の正統性へとつなげていった。

 モンゴル系遊牧社会である蒙古、青海、新疆北部においては部族自治=「盟旗制度」が採られた。部族単位は旗(ホシューン)、部(アイマク)、盟(チュルガン)、の三つである。旗長(ジャサク)は王侯による世襲で、皇族待遇であった。
 チベットではゲルク派保護体制が敷かれた。寺院や貴族が領主として支配するも、駐蔵大臣が派遣され限定的ながら内政関与が強化された。1793年にはダライ・ラマ新選出法が制定され、内紛を調整した。
 1780年に乾隆帝はパンチェンラマ4世と会見した。このとき両者は対等の処遇であった。これはパンチェンラマが阿弥陀仏の転生者と考えられていた一方、清朝皇帝は文殊菩薩の転生者と考えられていたことに由来する。しかし清朝官僚や朝鮮の使節にとってはパンチェンラマをも皇帝と同じ拝礼をしなければならないという事態となってしまった。そのことにより乾隆帝批判も出た。これは清朝皇帝が天子として全人類に君臨する存在と考えられていた一方で、チベットでは転輪聖王として諸転生者の一人としてしか捉えられていなかったという矛盾が露呈した形となった。清朝の統合理念が儒教とチベット仏教を使い分けていたことのダブルスタンダードがあらわになった事件である。
 新疆タリム盆地(回部)ではイスラム社会による自治が行われた。イスラム有力者をベイ(伯克)に任命し地域社会を統治していった。異教徒支配などにより不安定要因が常にあった。
清朝は首都を盛京(奉天)に置き熱河に避暑山荘があった。また夏季には内モンゴル狩猟を行い、モンゴル社会と親睦を深めた。

 清朝の統治体制は多元的構造になっていて近代国民国家のような一元的構造とは異なる。統治理念としては儒教(漢人、八旗)とチベット仏教(チベット、モンゴル)がある。清朝皇帝は天子(=儒教理念)であると同時にチベット仏教(=チベット仏教教義)の転輪聖王でもあった。それにより矛盾をきたす場合もあった。版図統合に際しては、皇帝の存在を媒介とした「華夷一家」の理念が謳われ、それは伝統的漢人社会である「中国」の理念とは多少異なるものであった。内中国(=漢人社会)と外中国(=モンゴル、チベット、新疆)とは統治体制が違い、外中国では旧部族にある程度自主的統治を許す形をとった。この二元性をあらわすため、内中国を「中華王朝体制」、外中国を「ハーン体制」と形容することもある。
 このように清朝は多元的統治を認め、そのなかで皇帝が強い権限を持って君臨していたが、ときに多元的であるが故の矛盾を露呈してしまうこともあったのである。

 孫文はこの多元的統治を嫌い、漢民族による統治を主張することになる。

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