清末における改革の意義を、国家統合の再編という観点から論じるためには、まず清末にどういった改革が行われたかを述べなくてはならない。
清が本格的に近代国家として出発するきっかけとなったのは、1840年から始まったアヘン戦争、1857年からのアロー号事件だった。清はそれに破れることによって『華夷秩序』による伝統的な対外秩序を放棄せざるを得なくなった。華夷秩序は朝貢外交を基盤としており、対等な二国間関係を基礎とする主権国家間の近代外交とは根本的に相容れない存在だった。上記の戦争に敗れて押し付けられる形で始まった近代外交で、国家間関係の対等化、常駐外交官の派遣などが行われた。しかし周辺諸国に対してはまだ朝貢関係を持続させようとしていた。対外条約が結ばれるようになり国境が規定され、「中国」の領域が規定された。
清の内部に関しては、19世紀中期から大反乱が続発していた。1850年から太平天国の乱が、1853年には捻軍が蜂起した。1860~70年代にはその蜂起を平定し統治体制の再建に臨んだ。
内治各省では州県制の再建が目指された。
新彊ではイスラム社会による間接統治が行われていたが、州県制に移行が試みられた。1862年には西北回民が反乱し、現地のイスラム教徒に波及した。清国内では新彊の放棄論と回復論が唱えられ、激論となったが、回復論が採用され、1876年に新彊回復戦争が行われて勝利した。その結果統治体制の再建が行われて、内治制度が採用された。新彊省が設置された。官僚により直接統治が行われた。イスラム有力者が地域行政ポストに任命される形となった。漢民族の文化が流れてきたが、現地社会には浸透せずイスラム文化を維持した。
北部遊牧地域は盟旗制を維持した。
東三省・モンゴル・チベットは基本的に安定していて、それぞれの統治体制を維持してきた。チベットでは、イギリスが通商要求したが、清朝は容認する方針だったものの、ダライラマ政権が拒絶したため、英国が出兵。敗北した。清朝は駐蔵大臣をインドに派遣する交渉をし、インドとの国境を定める交渉が行われた。
ここにきて清朝の統合は崩壊の危機が訪れたが、内地の州県制再建と新彊の州県制移行で基本的に維持された。多元的統合は19世紀末までは維持されたが、20世紀初頭はそれも再編され、一元的統合(国民国家)に再編された。
国民国家化するためには議会制・徴兵制・国民教育の三者が目指された。清国は日清戦争の敗北により、多元的統合体制に現体制下での近代化の限界を感じ、日本をモデルとした国民国家化を目指した。1898年には戊戌変法が急進的な改革を目指した。1901年には「変法の詔」が出され、海外の制度を積極的に受容する抜本的改革が表明された。「立憲改革」をスローガンに、立憲君主制が目指された。近代法体系の整備と、議会制の試行、近代会計制度、近代司法制度、地方自治制度、義務教育普及などが行われた。これらはある程度成功した。
内地では、憲法が公布され、議会を開設するための諮問議会が開かれた。地方自治制度は庁州県―城鎮郷の二級制が住民選挙による議事会が開かれた。行政職では城鎮郷は議事会が選出した役人が統治し、庁州県は政府が派遣した役人により統治された。選挙を実施するためには住民登録が必要なため、戸籍が調査された。しかしそれは概算人口に依拠したものであり、不正確だった。
東三省では漢人の入植が盛んで、内地制度が実施された。藩部では内地との同化が前提とされた省制の移行が行われた。たとえば議会である資政院の欽選議員の中には蒙古王公が十二名含まれていた。
蒙古では統治方針が変更され、漢化防止規定が撤廃され、漢人が入植し、漢語が使用解禁された。
チベットに対しては、軍隊を駐屯させ、学校を作ったがダライラマらは反発。亡命した。
清国は国名を「大清国」から「大清帝国」という立憲政体を前提とした国名に変更することさえ考えていた。そのなかで「大清帝国」という国民国家として、「大清帝国ナショナリズム」の作成が試みられた。儒教イデオロギー・漢語による文化統合、汎民族的統合モデルの制作、世襲の軍務服役などが画策された。国民国家化する上で八旗をモデルに満人、漢人の分離統治を廃止。八旗の廃止により徴兵制の実施も検討された。
こうした「大清帝国ナショナリズム」に漢人は二通りの反応を示した。漢人のみのナショナリズムを標榜する革命派は、激しく反発。立憲派は容認方針だった。後者のほうが大勢だったが、その前提には彼らが主導権を握ったシステムが出来上がることがあった。
1911年に内閣が組織されると、その満人が多いことに漢人立憲派が反発。再組閣要求を行ったが、清朝側は拒絶。その結果孫文を主導とする革命派に立憲派の多くの人員が流れ、「大清帝国ナショナリズム」の共有は失敗した。
このように清末の改革は失敗に終わったわけだが、その原因には漢人の支持を最終的には取り付けることができなかったことが挙げられる。前の体制の根幹である満洲族による統治にこだわったため、漢人の願望を満たせなかったためだ。しかしより多くのポストを割けば漢人が満足したとも限らないから、一概に満洲人が責められたものでもないだろう。自国の状態を考えず、自民族のみの統治にこだわった漢民族に非があるといえなくもない。
だが、その後に成立した中華民国も、清朝の体制を引き継ぐ形で成立しており、宣統帝が退位するときには各民族が平等であるということを確認されている。その上で五族共和原則が出されている。これは汎民族的ナショナリズムの構築を目指すものであり、中華民国ナショナリズムとは大清帝国ナショナリズムであるといえる。とはいえ実態は漢民族が握っていたから、建前としての中華民国ナショナリズム、実態としての漢民族独占体制といえる。そうせざるを得なかった理由としては、やはり周辺の各民族の理解がなければ国家の成立など到底不可能だったからではないか。袁世凱は孔子廟を祭祀したり、復古的な政策を取る中で、共和政体と儒教イデオロギーの折衷を目指していた。共和制中国の国家元首とモンゴル王公の盟主、チベット仏教の保護者などの清朝の皇帝の役割を汎民族的ナショナリズムの構築のため兼任するためには、帝政こそ相応しいと考えていたのだ。
袁世凱の帝政復活は結局頓挫したが、その後の中華民国は蒋介石が武力により完全統一するまで長く混沌状態が続く。結局「中華民国の国家元首」では汎民族的な理解を得ることはできなかったからであろう。
近代国家を作り上げるに際して、「民族」という概念ははずすことができない。各人が民族と言う血族的、文化的諸集団に入り、それらを統合する存在として国家がある、と言う考え方がそもそもの国民国家の成立の原理だからだ。国民国家化を目指す場合、それをはずして考えることはできない。
袁世凱の場合、漢民族だけを対象とした漢民族による国家を作ることも全く不可能ではなかったはずだ。しかしそれをしなかったのはおそらく政権の正統性がなくなるからだろう。中華思想に支配されている「中国人(この言葉がそもそも中華思想による言葉とも言えなくもない)」が前政権との連続性を放棄することは中原を支配する正統性を譲られなかったことになる。その意味で袁世凱は清国をなんとしても引き継がねばならなかった。
そのときに清末に行われた「大清帝国ナショナリズム」が参考になったはずだ。汎民族的なナショナリズムを構築することで清国を引き継いだ存在になることができる。そのためには清国皇帝と似たようなポジションに誰かがつくことが必須だったはずである。
結局その後の支那における政権は中華民国しかり、中華人民共和国しかり、強力な軍事力による独裁体制しか成立していない。他民族の必要に答えるだけの統合の象徴を持ち合わせていないのだから、当然の結果と言えよう。
清末の改革は「中華世界」における国民国家を成立させるのにほとんど唯一の道をたどろうとしていたように思う。
国家統合において各文化(各民族と言いかえることもできる)の必要を満たす(満たせない場合は強力な力により押さえ込むしかない)ことは必須だが、清国末期に行われた改革はそれらを満たしながら近代化する動きとみてよいだろう。
改革は失敗に終わったが、「大清帝国ナショナリズム」は今後の支那統治を眺める際にも参考となる部分が多いように感じる。