柄谷行人は、資本主義が進むと必ず格差ができるが、それはそのままで放置されることはまずなく、国家による規制や援助で格差を緩和しようとする。それを「資本=ネーション=ステート」と呼んだ。近代国家は「資本」と「ネーション」と「ステート」という本来異なる三者が結合したものだという。資本が強ければ新自由主義的に、ネーション=ステートが強ければ国家資本主義的あるいは福祉国家的になるが、それは「資本=ネーション=ステート」体制からはみ出るものではないという(『帝国の構造』11~12頁)。
また、世界=帝国に不可欠なのは共同体を超えた法であり、国家間の交通、通商の安全を確保することである。即ち帝国の法とは国際法であり、明文化されようがされまいが、それは史上登場したあらゆる帝国に該当するという(『世界史の構造』岩波現代文庫版166頁)。
柄谷の国家論の特徴として、いわゆる主権国家もこうした国家間の関係性の中から生まれたものだとみなすことが挙げられる。即ち、国家は共同体から自生したものではなく、共同体と共同体の相克の中から、自らを守るために生み出されたものだというのである(『世界共和国へ』48頁)。
上記の柄谷の国家論について、私が感想めいたものを述べるとすれば、柄谷は「ネーション」と「ステート」の違いを良く理解しておりながら、両者の峻別を避けているようにも思われることだ。先ほどの3つの本からの要約で言えば、「国家」はどう見ても「ステート」の意味でつかわれている。「ネーション」に相当するものは「共同体」が近いだろう。
もちろん『世界史の構造』では、権藤成卿を引用しながらファシズムとアナーキズム、ナショナリズムと社会主義の親和性について語っている(418頁)。その意味で私の指摘は批判にもなっていないが、「ネーション」と「ステート」の違いは、意識しすぎることはないように思われる。特に現代のように「ステート」の論理によって「ネーション」が空白化されようとしている時代にはなおさらである。
「ネーション」なき国家論は、安全保障と経済的動機からの米国化を免れない。「ネーション」なき国家論は、「戦後民主主義」との親和性は高い。
柄谷はネーションのもつ「互酬性」を良く認識したうえで、国家なき「アソシエーション」の可能性を模索しようとする。柄谷は、国家は他国との関係性で生まれるものゆえ、エンゲルスのように国家を上流階級が支配する道具と考え、革命することで内部から廃棄できるという考えを批判する(『世界共和国へ』51頁)。
先ほども述べたように、柄谷は国家を共同体と共同体の関係から生まれるものと捉えた。その中でアダム・スミスやホップズのように、個人と個人が独立して相対する中から(社会契約的に)国家が生まれるように考えるのは近代主義的誤りだという(同47頁)。しかし、たった一文ではあるが、部族的互酬原理を「民主主義」とみなしている個所がある(同53頁)。これは私の「民主主義」観と異なる。むしろ私の見方では「民主主義」は近代的な物の見方の最たるものであり、民族的互酬関係を重んじる私からすれば、拒絶の対象である。この一文を以て柄谷を批判するなどというのは難癖に近いものだと思うし、本稿はたびたび断るように柄谷国家論の批判でも礼賛でもない。ただ、一読者としてこの一文が気になったため、私は私なりの国家論、民主主義批判を整理しなければならないと思った次第である。
(続)