改めて国家とは何か 三


 丸山眞男は戦後日本を「悔恨共同体」と呼んだ。「無謀」な戦争をなぜ止められなかったのか、という思いが戦後の出発点であるというものだ。竹内洋はこれを批判して、戦後日本には「無念共同体」と呼ぶべきものもあったとした。「悔恨共同体」が心情的に戦前と戦後を切り離して考えているのに対し、「無念共同体」は「今度はもっとうまくやろう」あるいは「あの戦争は避けられない運命だった」と捉えることで戦前と戦後を連続させている、という。さらに、佐伯啓思は『自由と民主主義をもうやめる』で、吉田満を参照したうえで「戦後の民主主義や平和や繁栄が、どうしてもどこか偽物、もっと言えば、自己利益と保身の産物という、ある卑しさによって成り立っている」として、「私はこれを、丸山の「悔恨共同体」に対して、「負い目の共同体」と呼びたい」(187頁)と論じている。
 あるいは佐伯の議論と重なるかもしれないが、江藤淳は「物質的幸福がすべてとされる時代に次第に物質的に窮乏して行くのは厭なものである。戦後の日本を現実に支配してゐる思想は「平和」でもなければ「民主主義」でもない。それは「物質的幸福の追求」である」(「戦後と私」江藤淳セレクション2 25頁)と述べ、嫌悪感を表明している。
 戦後の「自由」、「平和」、「民主主義」、「物質的幸福」は意外にも批判され続けながら、その命脈を保ちつづけてきた。アベノミクスという拝金政治を批判できない思想的弱さがそれを象徴している。日本はもはや経済成長できないという考えを「経済の自虐史観」と呼び「経済成長」に依存する姿勢がそれである。
 確かに政治家は思想を語るべきでないのかもしれない。近代的に機能化された統治機構に情や道徳を求めることがずれているように、政治家に思想的な「正しさ」を期待することも間違っているのかもしれない。「公共心」や「愛国心」を裏切る「何か」を、近代的な政治機構は抱えている。「民主主義」、「資本主義」、「共産主義」の三つ子の近代思想が歴史と伝統を軽蔑し、踏みにじる側面を持っていることを忘れてはならない。
 むしろ思想的正しさが政治によって実現できると考えること自体が間違っているのかもしれない。政治や経済に多くを期待してはならない。我々にできることは、政治や経済が時に土足で踏みにじりかねない誇りとその源泉を守り続けていくことだけである。ただし、政治や経済を抜きにして我々の誇りが維持できると考えるのもまた甘い考えに過ぎない。伝統や愛国心、民族の誇りを重んじるものこそ、政治や経済と、己が守るべきものとのの関係について、真剣に考えていく必要があるのではないか。
 ある種の無政府主義に否定しがたい魅力があるのは、この人々の誇りの源泉を何よりも重んじる思想である場合があるからだ。

 そもそも民主主義は「自らの国家の行く末は、その構成員たる国民が決める」という国家意識の表れでもある。ただし現在行われている選挙による民主主義はそうした国家意識と、「自己利益に基づく一票」を全くの等価と見做していることが問題である。いずれにしても国家への所属意識を欠いた中での民主主義は各自の私利の集合体でしかなく、要するに各人が自己利益に基づいて行動すれば「神の見えざる手」によって自然と利害が調整されるという資本主義が持つ盲信に国家を誘うものであり、国家を公共心の集成ではなく政府と市民の利益による相互取引関係と考える思想ということである。

 資本主義、共産主義、民主主義に代表される近代思想は、迷信から脱することに重きを置く思想である。そのため資本主義も共産主義も民主主義も非常に人為的で計画的な制度を要求する。だが同時に、「迷信から逃れる」ことに重きを置く近代思想は、また別の迷信に支配されていることもまた確かなのだ。民主主義は各人が自己利益に従い発言すれば、利害関係が調整されうまくいくという迷信である。自己利益を追求すれば利害関係が自然に調整され、全体が調和されるというのは資本主義につながる。
 また、民衆が政治をすれば専制政治から脱却し、自由で平和な世の中になるという迷信もある。「民衆」が「プロレタリアート」になれば、それは共産主義となる。
 共産主義も資本主義も非歴史的な国境のない「世界」観念に支配された思想であった。共産主義は「インターナショナル」を謳い、資本主義者は「グローバル」な活動を礼賛した。このような抽象的「世界」観念は近代の産物である。

(続)

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