ピケティの主張を一言でいえば、資本による収益率(r)が経済成長率(g)より大きくなるために格差が発生する。この法則は歴史のごく限られた一時期を除き、どの国、どの時代にも当てはまるものだ。r>gによる格差拡大の弊害を是正するために国際的な資本課税をすべきだ、ということに尽きるだろう。
ピケティの論考が新しかったのは、それまで経済学で唱えられていた経済成長により格差は自然と解消していくといういわゆる「トリクルダウン」理論を論破したことである。ピケティの議論は、「トリクルダウンなどない」という経済学の素人の実感を、膨大なデータから裏付けたともいえる。
では、ピケティの議論には何も問題はないのだろうか。私は二点ピケティの議論の問題点を指摘しておきたい。ひとつはピケティのグローバル性向であり、もう一つは経済成長志向である。
まずはグローバル性向について述べよう。
ピケティの議論がグローバル的だというのは、すでに過去記事にも書いた。ピケティは経済が文化圏の垣根を越えて共通した法則で動くという発想から論じており、グローバルな法則思考に過ぎるのではないか、というのが率直な読後感である。
また、ピケティがr>gによる格差拡大の弊害を是正するために主張したのは、国際的な資本課税であって、国ごとに資本に課税したり格差を是正しようとする動きに対して冷淡である。いわゆるタックスヘイブンのように税率が低い国、地域に資本が逃げ回ってしまうからだろうか。それもあるだろう。だがピケティは、それ以上に経済には対外開放性が必要不可欠な概念である、という発想から国ごとの枠組みに冷淡な態度を取るのである。全くグローバリストである。ピケティの主張する国際資本課税はどこかの国が抜けたらそこがタックスヘイブンになり破綻してしまうという現実性のなさもあるが、それ以上に国が租税の自主決定権を部分的であれ失うという、新自由主義以上の国境の軽視を招く危険性があることを指摘しておきたい。
次にピケティの経済成長志向について触れたい。
ピケティはいわゆるトリクルダウンを否定したからと言って、必ずしも経済成長を忌避するような論客ではない。ピケティが資産課税に踏み込むとき、その批判対象は主に親からの多額の資産を受け継いだような人物であって、成り上がりの企業家ではない。経済成長による結果が正当性を持つよう、「機会の平等」を実現するための資産課税なのである。資産による不平等は、「能力主義に軸足を移した民主社会では受け入れがたい」(『トマ・ピケティの新・資本論』364頁)というのだ。私は経済学者ではないので、あえて感覚的な言い草をすれば、「能力主義」、「民主社会」とは鳥肌が立つような気持ち悪さである。まさか経済競争の結果が「能力」を正当に反映した結果だというつもりなのだろうか。
ところで、資本による収益率(r)が経済成長率(g)より大きくなる、というピケテイの法則は、なぜ経済成長率と資本収益率の比較なのだろうか。私のような素人からすれば、経済成長率よりも、例えば実質賃金上昇率と資本収益率を比較して、賃金よりも資産による利ザヤのほうが大きいんだね、だから資産を持つと金持ちになれるんだね、というほうがすっきり頭に入ってくる。そうすれば、(私は読んでいないが)ロバート・キヨサキの『金持ち父さん貧乏父さん』を連想するかもしれない。だが、そうではなかった。
経済成長との比較にピケティが設定した理由は、単純にデータの制約上そうなっただけかもしれない。だが、私はどうしても経済成長率を使いたかったのではないかと邪推したくなる。経済成長率には経営層の所得上昇も勘案されるが、賃金上昇率ではそうもいかないのである。
以上は私の穿った見方であって大した根拠があるわけではない。だが、ピケティが「能力主義」なるものを信じ資本主義による競争の結果を正当と認めていることは留意しておいたほうがよかろう。「能力」による格差拡大はむしろ擁護する可能性すら秘めていることも踏まえて。
ピケティは『21世紀の資本』の英語版が出版されたことで大いに注目された。その際にはいわゆるリベラルから歓迎され、資本競争を重んじる保守派からは批判が出ることとなった。どの世界も倒錯している。
◎参考文献
『21世紀の資本』
トマ・ピケティ著村井章子訳『トマ・ピケティの新・資本論』
『現代思想』1月臨時増刊号、ピケティ『21世紀の資本』を読む
池田信夫『日本人のためのピケティ入門』
竹信三恵子『ピケティ入門『21世紀の資本』の読み方』
高橋洋一『図解 ピケティ入門』
橘木俊詔『21世紀の資本主義を読み解く』