ふるさとについて


 私のふるさとは神奈川県である。現住所とは車で4,5分程度はなれた場所で生まれた。現住所には幼稚園に入る前に引っ越してきた。だから、記憶の中には今の家しかない。といっても、親の都合で小学校二年生から五年生までは宮城県仙台市で過ごした。先に「ふるさとは神奈川県」だと安易に書いてしまったが、ふるさととは何だろう。出生の地なのだろうか。それとも思い出深い場所だろうか。よくわからない。仙台もある意味思い出深い場所である。ふるさととは「故郷」と書く。自分にとっての故郷こそ「ふるさと」と呼ぶに相応しい場所といえるのではないだろうか。その意味では私は東北気質なところもあるから、仙台が故郷かもしれない。ただし、仙台は「移民の街」である。つまり各県から集まってきた人ばかりで、現地に土着した人が少ないのである。その意味では仙台は故郷と呼ぶに相応しい場所なのであろうか。何度自問してもよくわからない。

 故郷とは単に思い出深いといった正の印象ばかり抱いている場所ではない。泥臭くて、もう帰りたくない、飽き飽きするような嫌気すら抱える場所でもある。それは自分自身に対する印象とも似ている。自己への嫌悪感と似たような感覚で故郷に嫌悪感を抱く。ただ、その嫌悪感を一生切り離せないと達観しているのである。その意味で、今の日本人には「故郷」があるだろうか。たまらなく愛しく、それでいて許しがたい故郷。そんなものは近代画一主義のもと、跡形もなく吹き飛んでしまったのではないか。欧州には今でもコンビニエンスストアの進出を制限し、店舗の深夜営業を禁じている所があるという。地元の商店街を守るためである。故郷を守る気もなく、安直に自由競争経済を肯定しているものにはその論理は想像できまい。自由競争によって耐え難い故郷の喪失と、どこに行っても同じ風景の悪しき画一化がなされたのである。そのことへの痛みや憤りを持っているだろうか。自由競争社会は故郷に根ざした真の民族主義を破壊してしまったのだ。もしくは今でも電灯を嫌い、ろうそくの灯りの中で生活するイギリスの伝統主義者をせめて嗤わないで頂きたい。
 それは世界単位でも変わらない。いまやアフリカにも高層ビルが立ち並ぶ時代になってしまった。「これが日本だ」と世界に発信しようとしても、思い浮かぶのは高層ビルとマクドナルドと…。どこの国でもある。もはや故郷は故郷性を失いつつあるのである。それに対して、鋭敏に感性を張り巡らせている日本人が何人いるのだろうか。

 故郷の喪失は世界大で見ても民族主義の喪失なのである。地球規模の画一化が米国の手によって異常なまでに進んでいる今日、民族主義は危機に瀕している。徳富蘇峰は「俺の恋人誰かと憶ふ 神の造った日本国」と詠んだ。そうした熱烈な民族主義は、もはや出現しないのだろうか。もっとも、そうした危機状況への反動として、各国で民族主義が強調され始められたということもできなくもない。移民への反発、高失業率がそれに拍車をかけていることは確かである。日本に限らず、各国の「極右」団体は移民の排斥を主張しているのもそのためである。その排斥された移民が、原理主義と結びつきテロ行為に走るという哀しい現実もある。

 日本の政治には民族派からの意見が少ない。戦争に負けたからである。戦争に負けた国は、どこもそうなる。しかしいつまでもそのままでいるわけにはいかない。国際関係は競争理念で成り立っている。残念ながら隙だらけの国は飲み込まれてしまうのである。それも、昔のように、国自体がなくなるのならば見た目にもわかりやすいが、昨今は「いかに相手国から利益を引き出すか」が主なやり方になっている。油断していると国の財産を掠め取られる、というわけである。しかしコスモポリタンが多いこの日本国では、そういうことに鈍感で、安穏としているのである。

 冷戦の西側も東側も、コスモポリタンなことには変わりがなかった。どちらも利益社会をめざし、共同社会を解体しようとする態度を「進歩的」だと錯覚している。進歩などしなくてよろしい。それよりも大事なものを見失わない人でありたい。

「ふるさとについて」への2件のフィードバック

  1. 近代的な画一化とともにどの街も同じやうな価値しかなくなれば故郷といふ観念が無意味になりはしないかと心配です…
    保守が関心を持つ領土や沖縄基地問題についても
    尖閣、竹島、北方領土の問題、もちろん国家固有の領土は死守しなければなりませんが、郷土を大切にしないやうな新自由主義的保守の人々がさも愛国者ぶつて領有権がどうのといふのはなんだかなあ…とも思ひます。
    あと沖縄基地問題も本土の極左が騒いでいるのもあるのでせうし、米軍が撤退したとしても地政学上国防力の空白を作ることはできませんが郷土といふ観点から考へる保守派があまりいないやうに思へます。

  2. トライチケさん
    郷土という観点が衰退すると同時に、精神的ふるさとと言いますか、感情、感性の問題に踏み込まず、GDPや軍事力といった目に見えるものでしか国を語れない傾向にあると思います。目に見える以上の価値を追求しなければいけないと思っています。

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