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生きるかなしみ

 会社に属するがゆえに安定した収入があり、将来への不安が少ない。その対価として、上司に頭が上がらないまま馬鹿馬鹿しい仕事にも取り組まなければならない。あまりにも当然で、これに不満をこぼすならば、甘えていると言われても仕方ないのかもしれない。
 だが、会社員以外の人生など一握りの人以外選べない。自分はその一握りではないと悟った時、生きるということ自体が悲しみに包まれるのも、また当然ではないだろうか。将来の選択など初めからなかった。ならば余計な気を持たせず、初めから江戸時代のように親の身分で職業が決まっても同じではないか。気を持たないだけその方が幾分ましだったかもしれない。身分による秩序を努力とか才能による秩序にすり替えたかのような幻想が現代社会を覆い、生きる悲しみを生み出している。

 今日の社会では、芸術の才能のある人も、真に芸術に一身を捧げることは出来ぬ。学問の才能のある人も、真に学問に没頭することを許されぬ。何故ならば今日の経済組織の下では、全ての人は、芸術家たる前に、科学者たる前に、否な父たり母たり、妻たり同僚たる前に、先づ商売人とならねばならぬからである。山川均の言葉である。何よりも先に商売人であらねばならぬことは、人間が動物であるということでもある。成虫になってから7日で死ぬ昆虫が、生きる意味など問うひまもなく子孫を残すことにいのちを燃やすのと同じである。だが、そこに悲しみを感じるのも、人間の人間たるところであろう。

 若松英輔は、新見南吉の「生きるかなしみ」を読んだことが悲しみに気づくきっかけであった、という皇后陛下の講演での発言に注目する。

 ある日、でんでん虫は、自分が背負う殻が悲しみでいっぱいになっていることに気がつく。不安にかられ、友を訪ね、悲しみのあまりもう生きていけないのではないかと語る。すると友達も、いや、君だけではない。自分も同じなんだという。その後もでんでん虫は、つぎつぎと友のもとを訪れ、内心を語るが、かえって来る声は同じだった。でんでん虫はようやく、悲しみを持たない者はどこにもいないことに気が付く。むしろ、生きるとは自分の悲しみを背負うことと同じであることを知る。(若松英輔『生きる哲学』245頁)

 ここでは、「生きる悲しみ」とは結局何なのかがまるで明示されない。かなしいからかなしいのであって、何か理由があるからかなしいのではないのだ。例えば先ほど会社員の悲哀を書いたが、会社員だからかなしいのではない。それはかなしみを感じる一つの「きっかけ」でしかない。会社を辞めれば、また違ったかなしみが待っているからだ。思えば会社に入るずっと前から、生きることは悲しくて仕方なかったではないか。

 かなしいとは、切ないとか苦しいとかいうことだけではない。すばらしいと感じるのも、かわいいと感じるのも、いとしいと感じるのも、「かなしい」のである。それは古典の用例を知れば一目瞭然だろう。かなしいとは、こころが突き動かされる状態を指す。かなしみとは感情の動いた証である。

 言葉は誰かに伝えることが前提となっている。即ち人が真摯に発言するとき、それは自分のためであり、日本のためであり、先人のためであり、将来の同胞のための発言である。その目的を分かつことなどできない。その目的を分けられるとしたら、それは自己利益の為に発言しているからである。言葉を受け取り、言葉を書き残すという行為は他者に道を設ける行為である。いっぱいになった悲しみは、他者を感じるときかなしみになる。でんでん虫は、友に話して、友も悲しみを持っていると気づいたとき、きっと何かが変わったはずだ。自らの悲しみはなくなったわけではない。だがそれでも、幾分心が軽くなったに違いない。他者から「自分も同じだ」という言葉を受け取ったことで、悲しみはかなしみに変わったのである。

 生きることはかなしみに満ちている。それは何も変わらない。問題は何一つ消え去ったわけではない。しかしそれでも、悲しみがかなしみに変わった経験を持つものは、絶望のうちにあっても一筋の光を見る。自らが多くの言葉を受け取ったように、多くの言葉を残しうることを知っているからである。

世間の眼と自分自身へのまなざし

 時々、よくわからない所で生きていくということの痛みを感じざるを得なくなって切なくなることがある。

 近頃は雨が多いから、外出するときに傘を持たざるを得ない時がある。その時私は、透明のビニール傘を持つことにしている。ビニール傘は所有権が明確でないから良い。いや、明確でないはずがない。たぶん私のもっているビニール傘は誰かのもつビニール傘と見分けがつかなかったとしても、きっと「私の傘」なのだろう。でも、「私の傘」は、「誰かの傘」と見分けがつかないから、我を張らず安心して人ごみに紛れられる気がする。

 どこまで行っても所有権に張り巡らされているこの世には、私の逃げ場はないに違いない。

 便所飯はしたことがないが、非常階段飯はむしろ日常のことであった。食事は一人のほうが気楽で良い。誰かと飯を食うという重苦しさから逃れ、非常階段で一人食べていると、きっと今この世で私がどこで何をしているかなど誰も知らないに違いないと、逃れられた気分になってうきうきとして来るのである。

 私はいったい何から逃れようとしているのか? 世間?

 おそらく世間は私などに興味も関心もないに違いない。人ごみの中で華美な傘をさしていようが、誰かと飯を食おうが、たぶん私は「その他大勢」の一人であって、それ以上でもそれ以下でもないだろう。世間は私を歓迎などしないだろうが、取り立てて拒絶しようとも思わないであろう。私はその程度の人間なのである。私に「何か」を拒絶させるのはおそらく私自身しかいないだろう。

 自家用車は排気量やグレードなどが細かく設定されており、単純な移動手段ではなく、人々を階級に分断する悪趣味なところがある。「人よりちょっといい車に乗ってるぞ」的ないかにも俗物な差異化がいやで、そういうものとついぞかかわらず生きていきたいから、三十路になってもいまだに免許すら持っていないし、持つ気がない。
 だが何故私はそんな俗物的なまなざしを気にするのだろう。ほんとうに無縁だと思っているならば、きっと誰にどう思われようと平気なのではないか。それは端的に言うと自分の弱さであろう。

 いくら忌み嫌っても、世間から逃れた先に私がいるわけではないし、自分自身への目線からも逃れられるわけではない。そもそも自分って誰なんだ。individual(=分割できない)な「個人」があるという考え自体、幻想ではないのか。しかしそう思った瞬間に家族も社会も世界も人生もすべてが幻想となり、宇宙は混沌へと姿を変える。

 「悩むとは、実は悩みから離れまいとしている営みであることを、悩む人は忘れている」(若松英輔『池田晶子 不滅の哲学』128頁)という。私は悩んでいるのだろうか。世間的に言う「悩み」が持つ語感とは明らかに異なる感覚を持っているが、「悩むとき、人は自分という小さな意識のなかに閉じ込められている」(同136頁)と言われたとき、確かに「自分という小さな意識の中に閉じ込められている」気がする。若松は池田を引用しつつ「悩む」ことよりも「考える」ことを薦める。どう生きるかよりも生きるとは何かを考えようというわけである。世間から逃れることを考えるよりも、世間から逃れつつもその中で社会に対しどういう働き方ができるかを考えようということではないか。そう考えたときに、少し気が楽になった気がした。

「言論の自由」と伝える覚悟

 自民党議員が、勉強会の中で「マスコミをこらしめる」、「沖縄の二紙はつぶさないといけない」などと発言した。これに対し国会に参考人として招かれた鳥越俊太郎氏が、「そのへんの居酒屋で酔っ払ってマスコミつぶしてしまえと言っているのとわけが違う」と批判したようだ。全くもってその通りである。

 ただ、鳥越氏が同時に「これほどマスコミに過敏に反応した政権はない。その結果、報道をやめておこうという一定の萎縮効果をうんでいる」と発言したと言う。このことを知った時、マスコミの側にもあるお上への依存体質、ぬるさを感じないわけにはいかなかった。

 「言論の自由」は重要なことだ。だがそれを所与のものとしすぎると、物事の本質を見失うことがある。

 人々は忘れてしまったかもしれないが、今年の一月、イスラム教を風刺する絵を掲載していたフランスの「シャルリー・エブド」紙がイスラム原理主義者に銃撃された事件があった。そのときフランスでは「言論の自由を守れ」という大合唱が起こった。佐伯啓思氏は、テロを擁護するわけではない、と前置きしたうえで、表現の自由を守れと口々に叫ぶほどのものか、という感想が湧き上がってくる、と述べた(『従属国家論』21頁)。同感である。
 何かを発言するからには相手がそれに反応するのは当然想定しうることで、それゆえ当然の覚悟を以て言論は行われるべきだろう。「言論の自由」「表現の自由」というイデオロギーは、時にこの当然の出来事を見えなくさせる。

 今回の自民党議員の発言問題も同様である。マスコミは政権批判を行うからには当然それなりの反応があるかもしれない、ということは当然想定しておくべきで、今更「委縮」する方もどうかと言わざるを得ない。
 もちろんこれは自民党議員も同様で、勉強会の場でこんな飲み屋の放談程度の議論をして国事を考えたつもりになっているとしたらとんだお笑い草である。ましてや沖縄の二紙をつぶすのに、「経団連にお願いして広告を引き上げさせよう」などと言うちんけな方法を取ろうというのだから嘆かわしい。せめて「私の政治生命をかけて二紙を廃刊させる」などと言えば悪役として映えるものを。それを経団連に揉み手しようというのだから、自民党だか文化芸術懇談会だか知らないが、きっとこの組織は経団連の下部組織に違いない。国会議員の権力の濫用にすら当たらない愚劣ぶりなのである。

 かつて「アンポハンタイ」と叫んでいた時代、岸信介はある種の人々にとって「倒すべき巨悪」であったに違いない。政治的に認めがたいと思っていただろうが、倒すべき相手であると認め、危機感を持っていただろう。
 だがこの議員や近頃の自民党には「倒すべき巨悪」であるというある種の畏敬の念すら生まれえない。沖縄の二紙をつぶしたいというのなら、協力はしないまでもこの議員たちのやりたいようにさせてあげたらどうだろうか。どうせこの程度の連中には何もできやしないのだ。

 言論の自由はあったほうが良いに違いないだろうが、なければないで構わない。権力がいくら弾圧しようとも人々の口を完全につぐむことなどできやしないし、人々の心まで操れるはずがない。そのようなことを権力がたくらもうとも、必ず義憤に駆られた志士が草莽より出でて、世を改めようとするに違いない。人に物を伝えるからには、そのような覚悟で物事を論じる人間でありたい。

成文憲法不要論

 哲学はただの理論になり、文学はただの文章技法か娯楽になってしまった。言論は自由になったが、あるいは自由になったからこそ、言葉の意味は軽くなり、情報の洪水に押し流され、言葉を人に伝えるということが軽視されることとなった。言論は自由になればなるほど重みを失っていった。重みを失った言葉に意味を見出せなくても当然なのかもしれない。語りえないことに思いをはせる機会も少なくなった。

 法律は規律ではない。何を言っているんだと言われるかもしれない。法律はルールに決まっているではないかと。法律に違反されたら罰せられるではないかと。その通りである。だが法律には違反したとしても罰則が規定されていないものもある。その時法律はその行為が望ましいものではないことを教えるが、ルールとしては有名無実なものとなる。法律は守るべき方向性を提示するものであり、道徳に近い側面を持つことがある。

 憲法も同様である。憲法は特に政府にまつわる非常に抽象的なものを規定するものであり、それゆえにより道徳に近い側面を持つ。国民の権利関係なども、抽象的な保障しか書かれていない。これは、憲法が不充分なのではなく、憲法が元来政府の護るべき道徳を示したものと捉える方が適切であろう。したがって、些事の判断は裁判官に委ねられる。判例が次の模範となり、次の判例を導くきっかけとなる。そうして社会の規範は維持されていくのである。

 もともと成文憲法は市民革命によって生まれたものである。これまでの歴史を否定したうえで、革命のイデオロギーを文書に残し、政府に守らせることを目的とした。だが、成文憲法は同時にそのイデオロギーをもとに物事を裁こうとする態度を同時に生むことになった。我が国においては、「日本国憲法」なる偽憲法が世にはびこっているために事態が複雑だが、偽憲法の一節を振り回して安全保障の問題を云々したり、また条文を改めようとする動きがある。いずれにしても成文憲法が長年の慣習からなる不文法に支えられていることを忘れ、言葉の一節を以て是非を論じること自体許されないことである。
 国の根幹を揺るがす問題に対しては、単純に条文の一節に整合するかどうかだけではなく、我が国の国体を護持していくために政策はどうあるべきかという議論がなされなければならない。だが実際に世で喧しく行われているのは、条文の一節に適合するか否かということだけなのである。まことに成文憲法の害は深刻であると言わなければならない。

 いっそ成文憲法などなければ、我が国体を次代に継承していくために、国政はどうあるべきかといった、重要かつ建設的議論がなされるのではないだろうかと夢想する。米国との軍事同盟が条文の一節に適合するかどうかなど、このことに比べたら全く些末な出来事であろう。

 言葉は溢れれば溢れるほど顧みられなくなる。先人の言葉だけでは計りえない事績に思いをはせる為には、言葉なき言葉に耳を澄ませなければならないだろう。

中田耕斎が選ぶ良書10

 この良書紹介も気が付けば10回を数えることとなった。

井尻千男『劇的なる精神 福田恒存』
南丘喜八郎『赤子が泣くのは俺の心が泣くのだ』
松岡正剛『山水思想』
岩瀬達哉『パナソニック人事抗争史』
坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』
アジット・K・ダースグプタ著・石井一也監訳『ガンディーの経済学』
昆野伸幸『近代日本の国体観<皇国史観>再考』
佐伯啓思・三浦雅士『資本主義はニヒリズムか』

最近読んだ本から選んだが、いつも通り再読も含まれている。

井尻氏は最近亡くなられたが、お会いすることが出来なかったのは残念でならない。

国粋主義と社会主義―『国体と経済思想』増補― 八(終)

 経済に係る世の問題は分配の問題だともいえる。社会における富をどう分配するのか。富を齎したものが多く受け取るのか。それとも社会の構成員が公平にその果実にあずかるのか。突き詰めればこの二つのどちらかに収斂される。また、今後得られるであろう富をどう分配するのかも含めて、このことは考えられなくてはならない。だが、そもそも「成果を分配できる」と考えること自体、個人主義が明確に確立していなければできるものではない。したがって分配以前に個人主義の是非をも問わなければならないのではないか。本稿ではこの個人主義の是非にまで踏み込むことはできないが、少なくとも個人を軽視するような社会はあるべきではない。だがそれは個人主義というイデオロギーの評価とは別問題であり、そのことを踏まえて検討されるべきであろう。

 経済がグローバル化している、と喧しく語られたが、実態はそうではない。グローバルを相手とする経済と、ローカルを相手とする経済に分かれていっただけのことだ。ローカルだから稼げないとか、遅れている、ということはない。地域で循環させたほうが効率的な経済圏、ビジネスモデルは確実に存在する。ローカル経済の影響は想像以上に強い。地方では今でも人不足である。人不足は高齢化とともに訪れており、儲けの大小にかかわらず起きている。アベノミクスの「成長戦略」と称するものが軒並みグローバルを相手とする企業向けであり、ローカル相手の産業に対しては放置している状況であるため、日本経済全体に対して効果を及ぼすには至らないのである。また、規制緩和の効果はすればするほど落ちており、成長戦略=規制緩和という発想自体陳腐化している。

 自由放任により経済が発展するなど空想に過ぎない。すでに明治四十一年刊行の山路愛山『現代金権史』においてすら、「政府の世話焼きは余計の沙汰なりと憤慨したる所にて、其実電信も政府に掛けて貰ひ、鉄道もこしらへて貰ひ、学校も政府の脅迫に依りて出来、銀行の営業振り、簿記法の記入方、乃至チョン髷を切るべきことまで政府の世話を受けて渋々進みたる人民が自由放任を口にしたりとて、それは親掛りの子息が贅沢にも親の干渉に不平を鳴らすに殊ならず」と揶揄されているのである(『明治文学全集35 山路愛山集』46頁)。自由放任などと主張しても、政府のインフラを使い、政府に教育された労働者を使っているなど政府にことごとく依存しているではないか。そんなのは親に育てられていながら親の干渉に文句を言っているのと同じだ、というわけである。

 私のことを左翼的だと思う向きもあるかもしれない。資本主義批判や会社批判に対してはそういう眼で見られたこともある。だが、国民の生活に思いをはせない愛国者などあり得ない。本当に日本と言う境界、日本人という所属を重んじるならば、生活に苦しむ同胞に対するまなざしがあってしかるべきだ。

 我々日本人にとっては、日本史こそ歴史であり、日本史以外の歴史は人格を形成するような重きを持つようなものではない。外国の知識も役に立つことは当然あるだろうが、それは参考意見でしかない。日本人の意識の核心を形成するものは、日本史に求められなければならない。

 「戦後思想を克服する」ことは重要だが、目的ではない。挑発的な言い草をすれば、そんなものは人生の目的たり得ないごくちっぽけなものである。日本の歴史、文化、伝統に参与し、その偉大な伝統に、自らも黄金の釘を打ち付けて次代に託すことこそ、人生の大目的にふさわしい。
 外国人が日本の文化をほめると、日本人は喜ぶ。その無邪気な性格は愛すべきであるが、しかしそれは外国の尺度で日本を計って喜んでいるのであって、それは要するに外国の礼賛に過ぎない。そのことに自覚的になったほうがよい。

 日本人が各人その美質を発揮するためにも、経済問題は克服されなければならない。この大目的の前では、右翼と左翼の違いは大した問題ではない。無論皇室に害をなそうとするような思想は到底受け入れることはできないが、そういったものを除外すれば、右翼と左翼には共通する点も多く、お互いの意見を参照し、より高めることができるように思う。

(了)

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◆今後の更新予定

 今書き進めている長編物のブログ原稿は以下の通り。

・伝統と信仰

・皇室中心論

・『昆虫記』余話

・陸羯南論

・地理と日本精神

・蓑田胸喜『国防哲学』を読む

・イデオロギーと思想

・世界文明のために

 『伝統と信仰』は書きかけの原稿で既に6万字を超えているがまだまだ先が見えない。まだあまりできていないそれ以外の論題のうち、短く終わりそうなものを先に回すかもしれない。

国粋主義と社会主義―『国体と経済思想』増補― 七

 働くとは、元来そういうものではなかったのではないか。社会を構成するのは、国民一人ひとりであって、決して会社や資本ではないはずだ。それらは、便宜的に置かれたものに過ぎなかったはずだ。ところが、その道具のほうに振り回されて、肝心の一人ひとりがその生活を失って働く道具のように扱われていることに疑問を感じなければならない。生産も消費も、企業あるいは資本にとっての利用価値で計られ管理され、それによって生活が左右されてしまう。こんなことはおかしいではないか。大事なのは各自の尊厳であって、決して会社などではない。

 我々の生活は日々何かと忙しいものだ。だがその忙しいことを誇る気にはどうしてもなれないのである。暇人を見つけ、それを「活用する」などと称して労働の場に引きずり出そうという大きなお世話を焼こうとするのが「忙しい」人間である。有限の人生の中で、そもそも何のためにせわしく飛び回るのか考えなければならない。しかし、それを考える余裕があるのは概して暇人の方なのである。せわしない生活には、自分の生活を自分で決められない苦しさがある。もちろん、自己決定など幻想である。しかしそれは、会社や資本に支配される生活を正当化するようなものであってはならない。平凡な人生を気楽とみなすのはどうなのか。志を果たし得ない人生は、ただ生活苦だけがある針のむしろかもしれないのである。いずれにしても、生活に自己決定権がないのは問題だろう。
 我々は自分の生活を自分で決めたいのである。自分の志、自分の運命を他人に押し付けられるのはうんざりである。資本が自ら肥え太るために使役されるのは、もうごめんなのである。

 かつて人々は賃労働者になろうとした。家族やムラの論理から逃れるためである。しかし、賃労働者になっても新たな拘束や服従を強いられるだけであった。自ら生産手段を持った農民や家族的自営業者は、子どもを会社員にさせようとする。それは子どもをプロレタリアあるいはプレカリアートにすることと同じである。自ら生産手段を持たない者はどこまで行っても奴隷同然である。ここまで言ってはいけないのかもしれないが、私は会社員にまっとうな幸せなど訪れるはずがないと思う。

 資本主義は、人々を結びつけていた伝統的で細やかな関係をことごとく金銭的関係に置き換え、敬虔な信仰、武士道の美学、町人道さえも無力化させた。医者、文学者、教師に対する人々の尊敬の念を剥ぎ取り、彼らを売上だけを気にする賃労働者にした。「つくる会」以降、教師を労働者のようにみなしたのは日教組によるものという決めつけがなされたが、彼らは幸いにも大した影響力を持っていない。むしろ資本主義的感覚の広まりのほうが大きいのではないだろうか。

 関税さえ廃止すれば物価は安くなる、すべての産業に利益がある、と言う人がいる。だがそうだろうか。貿易は国と国との均衡でもある。即ち輸出が増えれば普通輸入も増えるのであり、その逆も然りである。ところで、関税を廃止することで輸入を増やしたところで、我々は何を輸出するのだろうか。あるいは輸入するだけの購買力をどうやって維持するのだろうか。輸入品によって国内産業が駆逐ないしは衰退させられたとすれば、代わりに輸出するものも購買力も生み出せなくなるのである。もちろん机上の理屈では衰退する産業が出る分輸出産業が活性化するから問題ない、ということになろうが、実際問題は、人はそう簡単に別の産業に対応できるものではないし、輸出産業の側も他業種で仕事を重ねてきた人間を簡単には採用しない。
 グローバル化により、伝統的、民族的な産業は土台から切り崩され、遠く離れた国や風土の生産物によって日々の生活が営まれるようになってしまった。生活の利便性は確かに向上したかもしれないが、そこには民族の誇りはなく、連帯もなく、生き甲斐もない。

(続く)

国粋主義と社会主義―『国体と経済思想』増補― 六

 敗戦直後、失意の中から社会主義政党を結成しようと尽力したのは、後に社会党右派を率いる西尾末広であった。また、同時に岸信介と関係が深かった人は、西尾系の社会主義者になるか、岸と共に保守政党に合流するかの二つの道へ分岐していった。岸は戦時中の統制経済を主導したひとりであり、社会主義と国家主義の間には相互に通じ合う余地があった。社会党右派は後に民社党に分党することになるが、安全保障政策でも左派ほど頑なな態度は示していない。

 このように、国粋主義者も社会主義者も、その論じるところには共通する点が多かったことに気づかされる。一言でいえば、国粋主義も社会主義も、日本および日本を支える小共同体を守ることに力を注ぐ思想であった。ただし、『国体と経済思想』でも書いたように、社会主義者は外国勢力の指導に甘んじて反日的活動を徐々に行うようになり、国粋主義者は外国勢力と対抗するために国内の格差に対する対応は後回しにされる傾向が強まっていった。その結果が、今の右翼と左翼の分裂なのである。

 社会契約論という欺瞞に満ちた思想がある。社会契約論は、まず勝手に政府がない状態を妄想し、身体と財産の相互の保障を求めて政府を設立したのだ、と仮定する。そこには人々の共同性はみじんも想定されていないし、政府以外のあらゆる小共同体も無視されている。確かに個人という感覚のない社会は想像できないが、同時に社会のない個人というものも想定することはできないはずだ。小共同体を想定できない政府は専制的になり、各人は各人をあまりに縛り合うことにもつながる。
 統治には慣行が大きな影響を与えているが、社会契約論にはそうした慣行も無視されている。即ち社会契約に基づく政府は独裁的かつ資本主義的だ。財産の保護が政府の主たる役割だと言うのだから、社会契約論は資本主義とウマが合うのである。こうした社会契約的国家観から遠かった人物は、我が国では国粋主義者と社会主義者に多かった。冷戦的な右翼左翼の目線ではなく、彼らの考えを知ることはその意味でも有効だろう。

 競争は競争によって滅びる。労働者は、あるいは会社員は、と言い換えてもよいが、自分の人生、自分の生活、自分の運命をほとんど自分で決めることができない。休みの日も労働時間も仕事内容も、勤務先も、取引先さえもどこかの誰かが勝手に決めたものに左右されている。市場競争の結果、自営業よりも雇用形態のほうが「効率的」だと結論が出たのであるが、その結果、「各人が自由に競争できる」などという建前は全くの空語となった。自分自身の生活を、運命を、他の誰かに翻弄されて終わるのか。
 自己決定など幻想だと知っている。だがそれでも今の会社員生活はあまりにもその行動すべてを他人に支配されすぎている。あるいは「他人」という人物に支配されているのではないのかもしれない。労働力は商品である。してみれば資本の論理に支配されているのである。人を馬車馬のごとく働かせた挙句、そのことに感謝するよう強要しようという雰囲気が会社にはある。いかにも不気味であり、こういう感覚をとても肯定する気にはなれない。競争は、地位や貧富で人を差別しようとする人間の嫌な面と分かちがたく結びついている。会社という組織は、その競争の嫌な面を増幅する装置である。業務を指示監督する立場である以上に、上司を人格的に逆らい難い存在に仕立て上げようとする。そこは、一度目をつけられたら、後々までささやかれ、ことあるごとに嫌がらせを受ける密告社会である。人の足元を見ることにばかり長けていて、相手が逆らい難いと見るや途端に無法な要求を恥も知らず押し付けてくる。「結婚したり子どもが出来たら転勤させられる」という噂はその典型的な例である。「会社」とか「職場」という利益社会のもつ怖しさは会社員として働いたことがあるものは多かれ少なかれ自覚していることである。日本を愛さずして、地位やカネを愛する人が、この世には意外にも多いのである。また、自らが稼げればほかの連中はどうなってもよいと考える冷酷で残忍な人間が、会社の上層部を形成していることは覚えておいたほうがよい。いや、彼らの人格がそうだというよりも、彼らも何かに駆り立てられてそういう方向に走らざるを得なくさせられている。そのことが資本のもつ最大の問題であろう。
カネの為に身を屈する人間は、心の底ではカネを憎んでいる。手にした札びらは、屈辱の数でもあるのだ。

(続く)

国粋主義と社会主義―『国体と経済思想』増補― 五

 山路愛山は明治三十八年に発表した『社会主義管見』のなかで、国家を三階級に分類した。歴史は「国家と豪族と人民の三階級が(中略)或いは争闘し、或いは調和し、依つて以て共同生活の理想を実現せんとしつゝある動作の連続」であるとする(『明治文学全集35 山路愛山集』124頁。)。陸、山路両者の共通点としては、陸は「仁の政治」、愛山は「国家はひとつの家族」という儒学的な言い方で自分の政治思想を正当化したことである。両者とも西洋の動向に注目はしつつも、儒学的な有機国家の感覚を持ち、その言葉で政治思想を語っている。愛山は「尭舜の道も或は社会主義であると申しても差つかへない」とまで述べている(『明治文学全集35 山路愛山集』88頁)。
 また、『日本』関係者で社会主義を訴えた論説としては、長沢別天には「社会主義一斑」(明治二十七年三月~五月)がある。これは西洋社会の社会主義の流れを説明したものだが、社会主義を「破壊主義」とみなす見方に批判を加えている点で共通している(『明治文学全集37 政教社文学集』353~362頁)。内藤湖南は「社会主義を執れ」(明治二十五年五月二日)を書いている。これは内藤湖南が社会主義の採用を訴えたものだが、その中で「社会主義は進歩の標準を表する者、孟軻氏が所謂王者の道、而して西人の実に人類共存の理想とする所なり」と述べている(同353~362頁)。福本日南には「足尾銅山鉱毒事件」(明治三十年三月五日)がある。これは『日本』に掲載された論説であり、鉱毒事件の解決を政府の「処置」に期待しているものである(同262~263頁)。

 しかし、国家社会主義は論者によって大きくその思い描く意味が異なる思想でもあった。例えば林癸未夫は『国家社会主義論策』で、国家社会主義は国家主義を経済上に適用するものとし、「重要諸産業を国有とし、営利主義と自由放任主義とを廃棄して、国家統制経済を確立すべき」だとした。そのうえで「無産階級運動たるべきものではなくして国民運動たるべきもの」であり、「いやしくも国家に忠実であり且資本主義の弊害を痛感する者は、階級や職業の如何を問はず国家社会主義者となってその実現に努力するのが当然であるとした」(57頁)。そんな林の主張に反論したのが蓑田胸喜である。蓑田は林を含めた国家社会主義者を批判しているが、それによれば、「国民生活の安定、農村問題の解決、国防の内政的充実を思ふ一念発起より現役在郷の皇軍将士が敏感なる政治的関心を以て国家社会問題を研究論議することはさもあるべきである」としたが、「金権政党政治の弊害もそれはその形式制度によりも、天皇統治の神聖感を減失させる『多数神聖』『憲政常道』『議会中心』の『民政』主義の不忠凶逆思想の所産」であり、国家社会主義もその延長であるとした(『蓑田胸喜全集 第四巻』749~772頁)。
 ちなみに林は権藤の思想を無政府主義であり、国体を破壊する思想だと批判している。この認識においては蓑田と共通している。蓑田の権藤批判は第二節で見たとおりだ。

 大川周明は『国史読本』で、「日本を支配する邪まなる黄金の勢力を倒さねばならぬ。(中略)土地大名に代って起れる黄金大名が、天日を蔽う暗黒なる雲として、国民の頭上に最も不快に搖曳して居る」と論じている(大森美紀彦『日本政治思想研究 権藤成卿と大川周明』157~158頁からの孫引き)。大川は中学時代から幸徳秋水らの作る「平民新聞」の読者であった。しかし「平民新聞」の唱える日露戦争の非戦論には与しない考えを持っていたようである(大塚健洋『大川周明 ある復古革新主義者の思想』講談社学術文庫版40頁)。
 大川は社会主義を盲信した人物ではなく、「資本主義と社会主義とに共通する唯物主義を批判した」論客であった。資本主義も社会主義も物質的利害を人生最高のものと崇めている。両者は人間を経済的存在と見做し、物質的幸福を人生の目的としている。社会問題の解決するためには、そうした唯物主義こそ放棄されなければならない。人間は単なる経済的存在ではなく、国家もまた経済社会以上の存在である道義国家にならなければならないと論じた(同153~154頁)。ここに大川のアジア主義性が感じられる。
 ちなみに大川は、あるいは当時の学歴エリートの日本人は皆そうだったが、西洋的教養ばかり豊富で、日本やアジアに関する知識は後天的に獲得されたものであった。大川はキリストから法然・親鸞へ、マルクスから佐藤信淵へ、プラトンから横井小楠へ、エマソンから陸象山、王陽明へ、ダ・ヴィンチから岡倉天心へ移行したという(松本健一『大川周明』岩波現代文庫版76頁)。

 河上肇は『貧乏物語』で、貧富の格差を、(階級闘争ではなく)「奢侈の禁止」など道徳律に寄りかかって解決を目指そうとした。そんな河上は己の利害を顧みず、天下国家のために尽くす「志士」に憧れ、吉田松陰を理想の人物としていた。

 昭和に入ってもこの論理は健在であり、政府の弾圧により獄に入り転向した共産党員は、社会主義は各国それぞれの事情に応じて取り入れるべきであるという論理から国体を受け入れていった。

(続く)

国粋主義と社会主義―『国体と経済思想』増補― 四

 山川均は戦後、資本主義から社会主義への転換は、国民や民族という別個の政治、経済、文化上の単位を持っている以上、国ごとに行われるものであり、国外からの指揮命令(明らかにソ連を指している)を受けて動くようではいけない、と述べている(「共産党との訣別」『近代日本思想体系19 山川均集』349頁)。山川は、昭和二十五年時点で、ソ連社会における異常な格差、奴隷労働、特権階級の登場などを踏まえて、「国家資本主義」と呼んで批判していた(石河康国『マルクスを日本で育てた人 評伝・山川均Ⅱ』171~174頁参照)。
 竹内靖雄はソ連型共産主義を政府だけがものを生産して儲けることができる「国家独占資本主義」と呼んだが(竹内靖雄『経済思想の巨人たち』4頁)、まさに共産主義国家とは政府が市場を独占した姿に他ならなかった。ボルシェヴィキとは、もともとは「多数派」という意味らしいが、結局レーニンが作った体制は、少数の特権階級による支配でしかなかった。

 あるいは遡れば、社会主義はその唱えられ始めた頃は、後のように外国の意向に翻弄されることもなく、闊達に思うところを述べていた。たとえば徳富蘆花が「自家の社会主義を執る」と宣言したように各人各様自己流の社会主義を述べたり、社会主義の考え方を自己の思想を補強する材料として使おうとしたりした(松沢弘陽『日本社会主義の思想』4頁)。横山源之助が貧民窟のルポからその議論を開始させたり、幸田露伴が資本主義的風潮に対し江戸の職人気質を礼賛したりした。国粋主義もその一派であり、明治二十年代に条約改正や欧化主義に抵抗した国粋主義者は我が国で早くから社会主義に注目していた一群でもあった。国粋主義者の社会主義感覚はむしろ儒教の「仁」の政治の実行という意味合いがあった。「社会主義」は「個人主義」の対極とみられ、むしろ日本の国体に合うものと受け止められた。高畠素之がいわゆる社会主義から国家社会主義に「転向」し、上杉愼吉などと連携していくようになることを非難するような議論は日本の社会主義史を踏まえない見解だろう。もちろん細かい意味での意見の変遷はあったに違いない。だが、上杉が国家と社会は分離できるものではない、すなわち国家主義と社会主義も分離できず、社会主義的思想が国体の清華を発揮するのに適したものだ、と述べるとき(田中真人『高畠素之』203頁を引用者意訳)、それは明治の国粋主義者の社会主義論ととても似通っており、私には陸羯南の「国家的社会主義」が重なって見えてくる。
 晩年の上杉愼吉は、「貧乏でなければ本とうの愛国は出来ぬ」(『日本之運命』189頁)とまで言い、無産者を救済しようとする。「我が無産の貧乏人は、燃ゆるが如き愛国心を持つて居るけれども、今は上流の人々の我が儘に憤激して、動もすれば非国家主義に陥らんとする傾向になつて居る彼等は横暴なる資本家地主を恨むのである、不肖は其れは当然であると思ふ、而して資本家地主を悪むの情強きが為め、思はず社会主義に乗ぜらるゝのである(中略)経済上の不平苦痛は、彼等を駆つてそこまで連れて行くのである、気の毒なるは我が忠良なる無産の愛国者ではないか、其の心中の煩悶を酌んでやらなければならぬ」(同28頁)という。富豪は金儲けのために国家を使う。国家を害し、同朋を傷つけようとも、金の為なら何でもする。神ながらの日本は鬼畜の世界になってしまった、道徳も何もないではないかと嘆くのである(同37頁)。
 遡れば、幸徳秋水は社会主義を武士道の復活として述べていたというが、武士道とは志を立て、自分は商人とは違うという自覚を持ち、利益を超えた「国家全体の価値」を想い行動することであった。武士道は社会主義の始まりであると同時に国粋主義の源流でもある所以である。
 幸徳と国粋主義者の関係は絶えることなく続いていた。陸羯南は自らの新聞『日本』に、幸徳の著書の広告を出し、三宅雪嶺とともに足尾銅山鉱毒事件において、幸徳とともに田中正造を支持する言論活動を行っている。幸徳の遺著となった『基督抹殺論』には、三宅雪嶺が序文を寄せている。これは大逆事件で幸徳が逮捕されたのちに出版されたものであり、そこに序文を寄せるなど並の覚悟、交友ではできないものであろう。そこでは、幸徳は不忠不孝の名のもとに死に就こうとしているが、窮鼠と社鼠のいずれかを選ぶのか、と問われている。窮鼠とは追い詰められて決起した幸徳であり、社鼠とは社に巣食う鼠、君側の奸のことである。そのいずれを選ぶのか、と問うたわけである。
 幸徳は大逆事件を起したとされているが、皇室と社会主義は矛盾しないとも述べている。社会主義とは社会の平和と進歩と幸福を重んじる思想であり、そのために有害な階級を廃そうというものである。明治維新によって四民平等が達成されたことも、それにあたる。また、古来名君と呼ばれた人物は皆民のために尽くした人間である。故に仁徳天皇のように、民の幸福を自らの幸福とされた、祖宗列聖(歴代の天皇)の事績は、決して社会主義に悖るものではなく、むしろ社会主義に反対するものこそ国体に違反するのではないかと述べた(「社会主義と国体」『幸徳秋水全集 第四巻』、筆者意訳)。
 この幸徳の論理を、当時の社会に受け入れられるためのレトリックに過ぎないと思う人もいるかもしれない。そういう側面もあるかもしれない。だが、小林多喜二が仁徳天皇の大御心の話を母親に話していたように、必ずしも社会主義者が即マルクス主義による革命を考えていたとは言い切れない面もあるのではないか。
中村勝範『明治社会主義研究』によれば、幸徳はマルクスやクロポトキンを真に理解していたとは言えないという。そうかもしれない。幸徳の教養の基本は漢籍であり、西洋の理論は漢籍の教養による発想を理論化するのに参考にした程度だったのかもしれない。
 山路愛山も、社会主義を墨子の兼愛や堯舜の道にも通じるものとみており(「社会主義管見」『明治文学全集35 山路愛山集』46頁』)、明治社会主義の一つの特徴ともいえる。また、山路は陸についても、「三宅雄二郎氏、陸実氏も亦名を会員名簿に列し、殊に陸氏の如きは深き興味を社會主義に有し、其主宰する日本新聞に於て人間は自然の状態に満足して已むべきものに非ず。弱肉強食の自然的状態を脱し、強もまた茄(くら)はず、弱も茄はざる一視同仁の人道を立てゝ自然の運行以外に別に人間の天地を開くは是則ち社会主義の極意なるべしとの意を述べたり」(「現時の社会問題及び社会主義者」『明治文学全集35 山路愛山集』370頁)と回想している。この回想だけでも陸の社会主義理解に強い儒学の影響を見てとることができる。

(続く)