世間の眼と自分自身へのまなざし


 時々、よくわからない所で生きていくということの痛みを感じざるを得なくなって切なくなることがある。

 近頃は雨が多いから、外出するときに傘を持たざるを得ない時がある。その時私は、透明のビニール傘を持つことにしている。ビニール傘は所有権が明確でないから良い。いや、明確でないはずがない。たぶん私のもっているビニール傘は誰かのもつビニール傘と見分けがつかなかったとしても、きっと「私の傘」なのだろう。でも、「私の傘」は、「誰かの傘」と見分けがつかないから、我を張らず安心して人ごみに紛れられる気がする。

 どこまで行っても所有権に張り巡らされているこの世には、私の逃げ場はないに違いない。

 便所飯はしたことがないが、非常階段飯はむしろ日常のことであった。食事は一人のほうが気楽で良い。誰かと飯を食うという重苦しさから逃れ、非常階段で一人食べていると、きっと今この世で私がどこで何をしているかなど誰も知らないに違いないと、逃れられた気分になってうきうきとして来るのである。

 私はいったい何から逃れようとしているのか? 世間?

 おそらく世間は私などに興味も関心もないに違いない。人ごみの中で華美な傘をさしていようが、誰かと飯を食おうが、たぶん私は「その他大勢」の一人であって、それ以上でもそれ以下でもないだろう。世間は私を歓迎などしないだろうが、取り立てて拒絶しようとも思わないであろう。私はその程度の人間なのである。私に「何か」を拒絶させるのはおそらく私自身しかいないだろう。

 自家用車は排気量やグレードなどが細かく設定されており、単純な移動手段ではなく、人々を階級に分断する悪趣味なところがある。「人よりちょっといい車に乗ってるぞ」的ないかにも俗物な差異化がいやで、そういうものとついぞかかわらず生きていきたいから、三十路になってもいまだに免許すら持っていないし、持つ気がない。
 だが何故私はそんな俗物的なまなざしを気にするのだろう。ほんとうに無縁だと思っているならば、きっと誰にどう思われようと平気なのではないか。それは端的に言うと自分の弱さであろう。

 いくら忌み嫌っても、世間から逃れた先に私がいるわけではないし、自分自身への目線からも逃れられるわけではない。そもそも自分って誰なんだ。individual(=分割できない)な「個人」があるという考え自体、幻想ではないのか。しかしそう思った瞬間に家族も社会も世界も人生もすべてが幻想となり、宇宙は混沌へと姿を変える。

 「悩むとは、実は悩みから離れまいとしている営みであることを、悩む人は忘れている」(若松英輔『池田晶子 不滅の哲学』128頁)という。私は悩んでいるのだろうか。世間的に言う「悩み」が持つ語感とは明らかに異なる感覚を持っているが、「悩むとき、人は自分という小さな意識のなかに閉じ込められている」(同136頁)と言われたとき、確かに「自分という小さな意識の中に閉じ込められている」気がする。若松は池田を引用しつつ「悩む」ことよりも「考える」ことを薦める。どう生きるかよりも生きるとは何かを考えようというわけである。世間から逃れることを考えるよりも、世間から逃れつつもその中で社会に対しどういう働き方ができるかを考えようということではないか。そう考えたときに、少し気が楽になった気がした。

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