働くとは、元来そういうものではなかったのではないか。社会を構成するのは、国民一人ひとりであって、決して会社や資本ではないはずだ。それらは、便宜的に置かれたものに過ぎなかったはずだ。ところが、その道具のほうに振り回されて、肝心の一人ひとりがその生活を失って働く道具のように扱われていることに疑問を感じなければならない。生産も消費も、企業あるいは資本にとっての利用価値で計られ管理され、それによって生活が左右されてしまう。こんなことはおかしいではないか。大事なのは各自の尊厳であって、決して会社などではない。
我々の生活は日々何かと忙しいものだ。だがその忙しいことを誇る気にはどうしてもなれないのである。暇人を見つけ、それを「活用する」などと称して労働の場に引きずり出そうという大きなお世話を焼こうとするのが「忙しい」人間である。有限の人生の中で、そもそも何のためにせわしく飛び回るのか考えなければならない。しかし、それを考える余裕があるのは概して暇人の方なのである。せわしない生活には、自分の生活を自分で決められない苦しさがある。もちろん、自己決定など幻想である。しかしそれは、会社や資本に支配される生活を正当化するようなものであってはならない。平凡な人生を気楽とみなすのはどうなのか。志を果たし得ない人生は、ただ生活苦だけがある針のむしろかもしれないのである。いずれにしても、生活に自己決定権がないのは問題だろう。
我々は自分の生活を自分で決めたいのである。自分の志、自分の運命を他人に押し付けられるのはうんざりである。資本が自ら肥え太るために使役されるのは、もうごめんなのである。
かつて人々は賃労働者になろうとした。家族やムラの論理から逃れるためである。しかし、賃労働者になっても新たな拘束や服従を強いられるだけであった。自ら生産手段を持った農民や家族的自営業者は、子どもを会社員にさせようとする。それは子どもをプロレタリアあるいはプレカリアートにすることと同じである。自ら生産手段を持たない者はどこまで行っても奴隷同然である。ここまで言ってはいけないのかもしれないが、私は会社員にまっとうな幸せなど訪れるはずがないと思う。
資本主義は、人々を結びつけていた伝統的で細やかな関係をことごとく金銭的関係に置き換え、敬虔な信仰、武士道の美学、町人道さえも無力化させた。医者、文学者、教師に対する人々の尊敬の念を剥ぎ取り、彼らを売上だけを気にする賃労働者にした。「つくる会」以降、教師を労働者のようにみなしたのは日教組によるものという決めつけがなされたが、彼らは幸いにも大した影響力を持っていない。むしろ資本主義的感覚の広まりのほうが大きいのではないだろうか。
関税さえ廃止すれば物価は安くなる、すべての産業に利益がある、と言う人がいる。だがそうだろうか。貿易は国と国との均衡でもある。即ち輸出が増えれば普通輸入も増えるのであり、その逆も然りである。ところで、関税を廃止することで輸入を増やしたところで、我々は何を輸出するのだろうか。あるいは輸入するだけの購買力をどうやって維持するのだろうか。輸入品によって国内産業が駆逐ないしは衰退させられたとすれば、代わりに輸出するものも購買力も生み出せなくなるのである。もちろん机上の理屈では衰退する産業が出る分輸出産業が活性化するから問題ない、ということになろうが、実際問題は、人はそう簡単に別の産業に対応できるものではないし、輸出産業の側も他業種で仕事を重ねてきた人間を簡単には採用しない。
グローバル化により、伝統的、民族的な産業は土台から切り崩され、遠く離れた国や風土の生産物によって日々の生活が営まれるようになってしまった。生活の利便性は確かに向上したかもしれないが、そこには民族の誇りはなく、連帯もなく、生き甲斐もない。
(続く)