成文憲法不要論


 哲学はただの理論になり、文学はただの文章技法か娯楽になってしまった。言論は自由になったが、あるいは自由になったからこそ、言葉の意味は軽くなり、情報の洪水に押し流され、言葉を人に伝えるということが軽視されることとなった。言論は自由になればなるほど重みを失っていった。重みを失った言葉に意味を見出せなくても当然なのかもしれない。語りえないことに思いをはせる機会も少なくなった。

 法律は規律ではない。何を言っているんだと言われるかもしれない。法律はルールに決まっているではないかと。法律に違反されたら罰せられるではないかと。その通りである。だが法律には違反したとしても罰則が規定されていないものもある。その時法律はその行為が望ましいものではないことを教えるが、ルールとしては有名無実なものとなる。法律は守るべき方向性を提示するものであり、道徳に近い側面を持つことがある。

 憲法も同様である。憲法は特に政府にまつわる非常に抽象的なものを規定するものであり、それゆえにより道徳に近い側面を持つ。国民の権利関係なども、抽象的な保障しか書かれていない。これは、憲法が不充分なのではなく、憲法が元来政府の護るべき道徳を示したものと捉える方が適切であろう。したがって、些事の判断は裁判官に委ねられる。判例が次の模範となり、次の判例を導くきっかけとなる。そうして社会の規範は維持されていくのである。

 もともと成文憲法は市民革命によって生まれたものである。これまでの歴史を否定したうえで、革命のイデオロギーを文書に残し、政府に守らせることを目的とした。だが、成文憲法は同時にそのイデオロギーをもとに物事を裁こうとする態度を同時に生むことになった。我が国においては、「日本国憲法」なる偽憲法が世にはびこっているために事態が複雑だが、偽憲法の一節を振り回して安全保障の問題を云々したり、また条文を改めようとする動きがある。いずれにしても成文憲法が長年の慣習からなる不文法に支えられていることを忘れ、言葉の一節を以て是非を論じること自体許されないことである。
 国の根幹を揺るがす問題に対しては、単純に条文の一節に整合するかどうかだけではなく、我が国の国体を護持していくために政策はどうあるべきかという議論がなされなければならない。だが実際に世で喧しく行われているのは、条文の一節に適合するか否かということだけなのである。まことに成文憲法の害は深刻であると言わなければならない。

 いっそ成文憲法などなければ、我が国体を次代に継承していくために、国政はどうあるべきかといった、重要かつ建設的議論がなされるのではないだろうかと夢想する。米国との軍事同盟が条文の一節に適合するかどうかなど、このことに比べたら全く些末な出来事であろう。

 言葉は溢れれば溢れるほど顧みられなくなる。先人の言葉だけでは計りえない事績に思いをはせる為には、言葉なき言葉に耳を澄ませなければならないだろう。

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