敗戦直後、失意の中から社会主義政党を結成しようと尽力したのは、後に社会党右派を率いる西尾末広であった。また、同時に岸信介と関係が深かった人は、西尾系の社会主義者になるか、岸と共に保守政党に合流するかの二つの道へ分岐していった。岸は戦時中の統制経済を主導したひとりであり、社会主義と国家主義の間には相互に通じ合う余地があった。社会党右派は後に民社党に分党することになるが、安全保障政策でも左派ほど頑なな態度は示していない。
このように、国粋主義者も社会主義者も、その論じるところには共通する点が多かったことに気づかされる。一言でいえば、国粋主義も社会主義も、日本および日本を支える小共同体を守ることに力を注ぐ思想であった。ただし、『国体と経済思想』でも書いたように、社会主義者は外国勢力の指導に甘んじて反日的活動を徐々に行うようになり、国粋主義者は外国勢力と対抗するために国内の格差に対する対応は後回しにされる傾向が強まっていった。その結果が、今の右翼と左翼の分裂なのである。
社会契約論という欺瞞に満ちた思想がある。社会契約論は、まず勝手に政府がない状態を妄想し、身体と財産の相互の保障を求めて政府を設立したのだ、と仮定する。そこには人々の共同性はみじんも想定されていないし、政府以外のあらゆる小共同体も無視されている。確かに個人という感覚のない社会は想像できないが、同時に社会のない個人というものも想定することはできないはずだ。小共同体を想定できない政府は専制的になり、各人は各人をあまりに縛り合うことにもつながる。
統治には慣行が大きな影響を与えているが、社会契約論にはそうした慣行も無視されている。即ち社会契約に基づく政府は独裁的かつ資本主義的だ。財産の保護が政府の主たる役割だと言うのだから、社会契約論は資本主義とウマが合うのである。こうした社会契約的国家観から遠かった人物は、我が国では国粋主義者と社会主義者に多かった。冷戦的な右翼左翼の目線ではなく、彼らの考えを知ることはその意味でも有効だろう。
競争は競争によって滅びる。労働者は、あるいは会社員は、と言い換えてもよいが、自分の人生、自分の生活、自分の運命をほとんど自分で決めることができない。休みの日も労働時間も仕事内容も、勤務先も、取引先さえもどこかの誰かが勝手に決めたものに左右されている。市場競争の結果、自営業よりも雇用形態のほうが「効率的」だと結論が出たのであるが、その結果、「各人が自由に競争できる」などという建前は全くの空語となった。自分自身の生活を、運命を、他の誰かに翻弄されて終わるのか。
自己決定など幻想だと知っている。だがそれでも今の会社員生活はあまりにもその行動すべてを他人に支配されすぎている。あるいは「他人」という人物に支配されているのではないのかもしれない。労働力は商品である。してみれば資本の論理に支配されているのである。人を馬車馬のごとく働かせた挙句、そのことに感謝するよう強要しようという雰囲気が会社にはある。いかにも不気味であり、こういう感覚をとても肯定する気にはなれない。競争は、地位や貧富で人を差別しようとする人間の嫌な面と分かちがたく結びついている。会社という組織は、その競争の嫌な面を増幅する装置である。業務を指示監督する立場である以上に、上司を人格的に逆らい難い存在に仕立て上げようとする。そこは、一度目をつけられたら、後々までささやかれ、ことあるごとに嫌がらせを受ける密告社会である。人の足元を見ることにばかり長けていて、相手が逆らい難いと見るや途端に無法な要求を恥も知らず押し付けてくる。「結婚したり子どもが出来たら転勤させられる」という噂はその典型的な例である。「会社」とか「職場」という利益社会のもつ怖しさは会社員として働いたことがあるものは多かれ少なかれ自覚していることである。日本を愛さずして、地位やカネを愛する人が、この世には意外にも多いのである。また、自らが稼げればほかの連中はどうなってもよいと考える冷酷で残忍な人間が、会社の上層部を形成していることは覚えておいたほうがよい。いや、彼らの人格がそうだというよりも、彼らも何かに駆り立てられてそういう方向に走らざるを得なくさせられている。そのことが資本のもつ最大の問題であろう。
カネの為に身を屈する人間は、心の底ではカネを憎んでいる。手にした札びらは、屈辱の数でもあるのだ。
(続く)