国粋主義と社会主義―『国体と経済思想』増補― 五


 山路愛山は明治三十八年に発表した『社会主義管見』のなかで、国家を三階級に分類した。歴史は「国家と豪族と人民の三階級が(中略)或いは争闘し、或いは調和し、依つて以て共同生活の理想を実現せんとしつゝある動作の連続」であるとする(『明治文学全集35 山路愛山集』124頁。)。陸、山路両者の共通点としては、陸は「仁の政治」、愛山は「国家はひとつの家族」という儒学的な言い方で自分の政治思想を正当化したことである。両者とも西洋の動向に注目はしつつも、儒学的な有機国家の感覚を持ち、その言葉で政治思想を語っている。愛山は「尭舜の道も或は社会主義であると申しても差つかへない」とまで述べている(『明治文学全集35 山路愛山集』88頁)。
 また、『日本』関係者で社会主義を訴えた論説としては、長沢別天には「社会主義一斑」(明治二十七年三月~五月)がある。これは西洋社会の社会主義の流れを説明したものだが、社会主義を「破壊主義」とみなす見方に批判を加えている点で共通している(『明治文学全集37 政教社文学集』353~362頁)。内藤湖南は「社会主義を執れ」(明治二十五年五月二日)を書いている。これは内藤湖南が社会主義の採用を訴えたものだが、その中で「社会主義は進歩の標準を表する者、孟軻氏が所謂王者の道、而して西人の実に人類共存の理想とする所なり」と述べている(同353~362頁)。福本日南には「足尾銅山鉱毒事件」(明治三十年三月五日)がある。これは『日本』に掲載された論説であり、鉱毒事件の解決を政府の「処置」に期待しているものである(同262~263頁)。

 しかし、国家社会主義は論者によって大きくその思い描く意味が異なる思想でもあった。例えば林癸未夫は『国家社会主義論策』で、国家社会主義は国家主義を経済上に適用するものとし、「重要諸産業を国有とし、営利主義と自由放任主義とを廃棄して、国家統制経済を確立すべき」だとした。そのうえで「無産階級運動たるべきものではなくして国民運動たるべきもの」であり、「いやしくも国家に忠実であり且資本主義の弊害を痛感する者は、階級や職業の如何を問はず国家社会主義者となってその実現に努力するのが当然であるとした」(57頁)。そんな林の主張に反論したのが蓑田胸喜である。蓑田は林を含めた国家社会主義者を批判しているが、それによれば、「国民生活の安定、農村問題の解決、国防の内政的充実を思ふ一念発起より現役在郷の皇軍将士が敏感なる政治的関心を以て国家社会問題を研究論議することはさもあるべきである」としたが、「金権政党政治の弊害もそれはその形式制度によりも、天皇統治の神聖感を減失させる『多数神聖』『憲政常道』『議会中心』の『民政』主義の不忠凶逆思想の所産」であり、国家社会主義もその延長であるとした(『蓑田胸喜全集 第四巻』749~772頁)。
 ちなみに林は権藤の思想を無政府主義であり、国体を破壊する思想だと批判している。この認識においては蓑田と共通している。蓑田の権藤批判は第二節で見たとおりだ。

 大川周明は『国史読本』で、「日本を支配する邪まなる黄金の勢力を倒さねばならぬ。(中略)土地大名に代って起れる黄金大名が、天日を蔽う暗黒なる雲として、国民の頭上に最も不快に搖曳して居る」と論じている(大森美紀彦『日本政治思想研究 権藤成卿と大川周明』157~158頁からの孫引き)。大川は中学時代から幸徳秋水らの作る「平民新聞」の読者であった。しかし「平民新聞」の唱える日露戦争の非戦論には与しない考えを持っていたようである(大塚健洋『大川周明 ある復古革新主義者の思想』講談社学術文庫版40頁)。
 大川は社会主義を盲信した人物ではなく、「資本主義と社会主義とに共通する唯物主義を批判した」論客であった。資本主義も社会主義も物質的利害を人生最高のものと崇めている。両者は人間を経済的存在と見做し、物質的幸福を人生の目的としている。社会問題の解決するためには、そうした唯物主義こそ放棄されなければならない。人間は単なる経済的存在ではなく、国家もまた経済社会以上の存在である道義国家にならなければならないと論じた(同153~154頁)。ここに大川のアジア主義性が感じられる。
 ちなみに大川は、あるいは当時の学歴エリートの日本人は皆そうだったが、西洋的教養ばかり豊富で、日本やアジアに関する知識は後天的に獲得されたものであった。大川はキリストから法然・親鸞へ、マルクスから佐藤信淵へ、プラトンから横井小楠へ、エマソンから陸象山、王陽明へ、ダ・ヴィンチから岡倉天心へ移行したという(松本健一『大川周明』岩波現代文庫版76頁)。

 河上肇は『貧乏物語』で、貧富の格差を、(階級闘争ではなく)「奢侈の禁止」など道徳律に寄りかかって解決を目指そうとした。そんな河上は己の利害を顧みず、天下国家のために尽くす「志士」に憧れ、吉田松陰を理想の人物としていた。

 昭和に入ってもこの論理は健在であり、政府の弾圧により獄に入り転向した共産党員は、社会主義は各国それぞれの事情に応じて取り入れるべきであるという論理から国体を受け入れていった。

(続く)

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