国粋主義と社会主義―『国体と経済思想』増補― 八(終)


 経済に係る世の問題は分配の問題だともいえる。社会における富をどう分配するのか。富を齎したものが多く受け取るのか。それとも社会の構成員が公平にその果実にあずかるのか。突き詰めればこの二つのどちらかに収斂される。また、今後得られるであろう富をどう分配するのかも含めて、このことは考えられなくてはならない。だが、そもそも「成果を分配できる」と考えること自体、個人主義が明確に確立していなければできるものではない。したがって分配以前に個人主義の是非をも問わなければならないのではないか。本稿ではこの個人主義の是非にまで踏み込むことはできないが、少なくとも個人を軽視するような社会はあるべきではない。だがそれは個人主義というイデオロギーの評価とは別問題であり、そのことを踏まえて検討されるべきであろう。

 経済がグローバル化している、と喧しく語られたが、実態はそうではない。グローバルを相手とする経済と、ローカルを相手とする経済に分かれていっただけのことだ。ローカルだから稼げないとか、遅れている、ということはない。地域で循環させたほうが効率的な経済圏、ビジネスモデルは確実に存在する。ローカル経済の影響は想像以上に強い。地方では今でも人不足である。人不足は高齢化とともに訪れており、儲けの大小にかかわらず起きている。アベノミクスの「成長戦略」と称するものが軒並みグローバルを相手とする企業向けであり、ローカル相手の産業に対しては放置している状況であるため、日本経済全体に対して効果を及ぼすには至らないのである。また、規制緩和の効果はすればするほど落ちており、成長戦略=規制緩和という発想自体陳腐化している。

 自由放任により経済が発展するなど空想に過ぎない。すでに明治四十一年刊行の山路愛山『現代金権史』においてすら、「政府の世話焼きは余計の沙汰なりと憤慨したる所にて、其実電信も政府に掛けて貰ひ、鉄道もこしらへて貰ひ、学校も政府の脅迫に依りて出来、銀行の営業振り、簿記法の記入方、乃至チョン髷を切るべきことまで政府の世話を受けて渋々進みたる人民が自由放任を口にしたりとて、それは親掛りの子息が贅沢にも親の干渉に不平を鳴らすに殊ならず」と揶揄されているのである(『明治文学全集35 山路愛山集』46頁)。自由放任などと主張しても、政府のインフラを使い、政府に教育された労働者を使っているなど政府にことごとく依存しているではないか。そんなのは親に育てられていながら親の干渉に文句を言っているのと同じだ、というわけである。

 私のことを左翼的だと思う向きもあるかもしれない。資本主義批判や会社批判に対してはそういう眼で見られたこともある。だが、国民の生活に思いをはせない愛国者などあり得ない。本当に日本と言う境界、日本人という所属を重んじるならば、生活に苦しむ同胞に対するまなざしがあってしかるべきだ。

 我々日本人にとっては、日本史こそ歴史であり、日本史以外の歴史は人格を形成するような重きを持つようなものではない。外国の知識も役に立つことは当然あるだろうが、それは参考意見でしかない。日本人の意識の核心を形成するものは、日本史に求められなければならない。

 「戦後思想を克服する」ことは重要だが、目的ではない。挑発的な言い草をすれば、そんなものは人生の目的たり得ないごくちっぽけなものである。日本の歴史、文化、伝統に参与し、その偉大な伝統に、自らも黄金の釘を打ち付けて次代に託すことこそ、人生の大目的にふさわしい。
 外国人が日本の文化をほめると、日本人は喜ぶ。その無邪気な性格は愛すべきであるが、しかしそれは外国の尺度で日本を計って喜んでいるのであって、それは要するに外国の礼賛に過ぎない。そのことに自覚的になったほうがよい。

 日本人が各人その美質を発揮するためにも、経済問題は克服されなければならない。この大目的の前では、右翼と左翼の違いは大した問題ではない。無論皇室に害をなそうとするような思想は到底受け入れることはできないが、そういったものを除外すれば、右翼と左翼には共通する点も多く、お互いの意見を参照し、より高めることができるように思う。

(了)

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◆今後の更新予定

 今書き進めている長編物のブログ原稿は以下の通り。

・伝統と信仰

・皇室中心論

・『昆虫記』余話

・陸羯南論

・地理と日本精神

・蓑田胸喜『国防哲学』を読む

・イデオロギーと思想

・世界文明のために

 『伝統と信仰』は書きかけの原稿で既に6万字を超えているがまだまだ先が見えない。まだあまりできていないそれ以外の論題のうち、短く終わりそうなものを先に回すかもしれない。

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