「思想について」カテゴリーアーカイブ

日本人の「魂の飢え」

 明治日本はそれまでの封建的主従関係を打ち捨てて近代化に走ったことから、深刻な道徳の混乱に陥っていた。その道徳の混乱を収めるために、様々な教えが活発に唱えられた。仏教、儒教、神道、武士道…。明治時代は宗教の時代でもあるということだ。急速な近代化への反発が様々な信仰への傾斜となって表れた。その中でも特異な位置を占めのが耶蘇教である。明治時代は安土桃山時代と並んで広く日本に耶蘇教信仰がひろまった時代である。

 明治日本の耶蘇教は、必ずしも欧米崇拝の中から生まれたものではなかった。耶蘇は儒学に代わり日本人の道徳を作る指針として受け入れられたのであった。したがって明治時代の耶蘇教とは儒学に大いに影響を受けている者が多いし、その耶蘇教理論は耶蘇を語っているようで儒学や武士道を語っているかのような響きさえ感じることがある。経済合理性を超えた「価値」が見失われた時代に見出されたのが耶蘇であった。これは江戸時代において仏教も儒教も体制と結びつき官学化していたためであり、あるいは神道は人々に道徳を強いる強制力を見つけにくかったからであろう。

 わたしの出身大学である青山学院大学は日本で有数の耶蘇教色の強い大学である。毎日礼拝が行われ、耶蘇教の授業は全学生必ず取らなければならなかった。耶蘇教徒でもなく、たまたま合格してしまったから入学してしまったわたしのような学生にとって、その時間は不可思議な時間でしかなかったが、不思議とキャンパス内の世俗的時間よりは、礼拝堂の敬虔な空気の方が居心地が良かった。わたしの耶蘇嫌いでありながら耶蘇に関心を持ち続ける複雑な感情はここから始まっている。
 今も忘れ得ぬ光景がある。耶蘇教の授業で家の近くの教会の礼拝に参加し、レポートにまとめて提出せよという課題が与えられた時だ。地元の教会に行くと、そこは不思議な空間だった。牧師が説教をしているのを大人たちがききながら子供たちはわぁわぁ遊んでいる。礼拝が終わると自然とお昼の時間となり、各自弁当を持ち寄って近所の人と交換し合ったりしながらワイワイ楽しんでいたのだ。もう日本の都市部からは喪われたと思っていた小共同体がそこにはあった。「教会」とは、もともとは教義、教団とは関係なく「人々が集うあう集会所」が語源だと言うが、まさに訪れた教会はそういう場所であった。そういう場所が現代日本には決定的に欠けている。仏教は葬式仏教となり、日常を拘束する存在となっていない。外来宗教にしか、日本人の霊性を満たす存在はないのか。
 おそらく寺子屋もまた、わたしが訪れた教会のような場所の機能を果たしていたのではないだろうか。寺子屋は単なる学校ではなく集会所の機能を果たしていたと思われる。だが、明治時代の学生の発布において寺子屋が官製の学校に代わってしまったために、その機能は失われた。いまや学校はただの会社員養成装置でしかない。

 明治も時代が経ってくると、「皇道」が説かれるようになる。これも日本独自の信仰を見出そうとした悪戦苦闘の結果に他ならない。こうした皇道観念を戦後は「ファシズム」とか「全体主義」と言って葬ろうとした。だがそれは、人が元来持つ個人的あるいは経済的利益を超えた超越への思慕を軽視した議論ではないだろうか。明治以来続く、人々の「魂の飢え」から目を背けてはならないのである。

 

竹中平蔵は新自由主義者か?

 私はかつて、竹中平蔵について本ブログで以下のように書いたことがあった。以下再録。

 安倍内閣では産業競争力会議なるものを開催し、竹中平蔵を委員として招聘し、新自由主義的な政策が練られている。安倍総理はどちらかと言えば新自由主義から遠い人物だと見られがちである。それは今回の政権奪取時にもそうであったし、小泉総理の後を継いで総理大臣になったときもそうだった。だがどちらも実際は新自由主義的な政策を実行しようとしている。安倍氏は愛国や保守を隠れ蓑に新自由主義的な政策をとる人物ではないのか。そういった意味でも安倍内閣は正当に批判される必要がある。この新自由主義と比べれば幾分ましなものの、財政出動を旨とする思想もまた、単に政府が介入したほうが、経済が活性化される場合もある、といった程度の考えであった場合、新自由主義と同じ穴のむじなだ。国を率いる立場として、その社会の構成員それぞれが生活を営めるよう苦慮するのが政治家の職務であるはずだ。それは経済的な効率よりもはるかに重んじられるべきものだ。安倍内閣はこの財政出動論と新自由主義論が奇妙に結合して成立している。
 安倍内閣は第一次で「美しい国」と言っていたときより、第二次の「経済の再生」と言っている今のほうが、したたかで政治家として成長している、という見方がある。だがアベノミクスの金融緩和や成長戦略などは、大方アメリカで行われていることの後追いでしかない。むしろ第二次安倍内閣のほうが、理想を放棄した分一層対米依存を強めているという見方もできるのではないか。
 竹中平蔵は新自由主義者と呼ばれることを嫌う。竹中は「経済思想から判断して政策や対応策を決めることはありえない」(『経済古典は役に立つ』5頁)といい、小泉総理にこれからは新自由主義的な政策を採用しましょうなどと言ったことは一度もないという(佐藤優、竹中平蔵『国が滅びるということ』20頁)。日々起こる問題を解決しようと努めてきただけだ、というわけである。だが、あまたある事象の中でどれを問題とし、どういう解決を図るかは、やはり思想が大きな影響を与えているのではないか。あるいは竹中にとって市場原理によって物事を解決することは自明のことだと思っている余り、それが一思想に過ぎないことが見えていないのだろうか。ところで佐藤は竹中のマルクス理解の正確さをほめたたえているわけだが(『国が滅びるということ』11~12頁)、知っていて言っているのかどうかわからないが、竹中は高校生の時期に民青に関わっていた(佐々木実『市場と権力』25~29頁)。竹中は確かにイデオロギー的に新自由主義を信じている人物ではないのかもしれない。自由放任と「神の見えざる手」の信奉者ですらなく、むしろその時々で流行りの議論に飛びつき、それを日々起こる課題に対応しているだけだ、と嘯く類の人間と言ったほうが適切だろう。竹中の比較的古い著作、例えば私の手元にある『民富論』(1994年刊行)を紐解けば、そこでは竹中はインフラなどの「社会資本」の重要性を説いたり(65頁)、自由貿易は錦の御旗ではない、というなど(172頁)、現在の竹中の印象とはまた違った側面を見ることができる。竹中が小泉内閣の時は新自由主義的な発想から政策を進め、今安倍内閣においても、「アベノミクス」のブレーンの一人となっているのは本人にとっては矛盾ではないのであろう。
 現在の日本の状況はと言えば、労働者の労働条件を守るよう訴える労働組合は有名無実であり、そういった社会保障はお上頼みという状況である。中間組織は資本主義の進展に伴い、その力を失いつつある。それは決して望ましい状況とはいえない。安倍総理は自ら経済界に賃上げ要請をしたが、それは賃上げという方向性に導こうという意志は正しいものの、方法論として政府が直接救済を目指した点で課題がある。インフレ政策は公共事業等の需要を増やす政策があって初めて意味がある。私は安倍内閣が訴える「国土強靭化」に賛成する。でなければインフレは燃料費等の高騰や資産の目減りを招き、貧富の差を広げるだけだ。そうでなくさせるためには、供給過多で、需要が不足している状況を改善するために、国が間接的に需要を増やす必要がある。公共事業はその一つの手段だ。その際には単なるハコものを作るのではなく、文化や風土を生かすものにすることが重要である。そして、国家と国民、市場ばかりでなく、社会には様々な中間的集団が存在することを念頭に、それらの復活を目的とした事業をすることが必要だ。総理が自ら賃上げ要請をせざるを得なかったのはこうした中間組織が機能しなくなりつつあるからではないか。だとすれば中間勢力の復活は急務である。
 所詮「デフレ解消」は消費増税の隠れ蓑にすぎなったのだろうか。そもそも金融緩和によりインフレを起こすことで消費が喚起できると考えるのは、カネさえ配れば皆モノを買うだろうという拝金主義的発想と紙一重だ。確かにデフレは経済を停滞させるが、その反対のインフレ政策なら良いという考えは安直ではないか。デフレは海外投資を促進させるばかりでちっとも国内経済が栄えなかった。しかしインフレにしても、一般庶民が潤う体制になっていなければ、その恩恵が社会に行き渡らないことになる。結局のところ、大企業や富者に応分の負担を求め、中間層を育成し、低所得層の底上げを図ることでしか健全な経済は達成されないのである。
 かつてデフレ下で好景気だった時も、従業員の給料は増えるどころか減り続けた。企業は内部留保と配当ばかり増大させてきたからだ。その流れは今の安倍内閣の政策ではとどめる力にはなりえていない。デフレ時代の負の遺産とも言えなくもないが、一度海外進出したものは容易には国内に還流しない。少々のインフレ政策では国内に雇用が戻ることはないし、国内産業の復興もない。グローバル化よりも、日本国民が幸せになるような経済のあり方でなければ意味がないのである。その前提は見失ってはならない。CSR、企業の社会的責任というと企業が安全や環境に配慮しているかが問われるわけだが、それも大事ではあるものの、企業の社会的責任とは、社会全体のために労働条件を改善することだ。
「再びアベノミクスと現時経済の問題点を論ず 四」

 例えば笠井潔や竹内靖雄と言った、「無政府資本主義」ともいわれる人物と竹中平蔵は明らかに異なる。笠井や竹内は市場に「国家権力以外による秩序」や「共生」を見出す。その細部の意見には賛同できない所も多いが、それでも思想を信じるものに通ずる「ある種の美しさ」を感じることができる。しかし竹中にはそれがない。共産主義、ケインズ、新自由主義、アベノミクスとその時の流行に自らを合わせてきた政商ともいうべき存在が竹中平蔵だ。竹中に主義はない。ただ権力への迎合があるだけなのである。

大アジア主義と政教一致

 私事ながら16日から体調を崩していた。動いたり走ったりする体力はないものの、病気に対する抵抗力は強いつもりでいたが、今回は長引いてしまった。
 自ら言うのもおこがましいが、病床にあっても食欲は衰えたが読書欲は衰えなかったところは良かった。時間もあったので、特に読み込むことができたのは田中逸平『白雲遊記』(論創社)と田中逸平研究会編『近代日本のイスラーム認識』(自由社)である。

 田中逸平は明治15年生まれで日本人イスラム教徒の草分け的存在である。田中が『白雲遊記』を著すのと同時期には満川亀太郎が『奪はれたる亜細亜』を、大川周明が『復興亜細亜の諸問題』を上梓する時期に当たる。この三者に共通することは大アジア主義を主張しただけでない。それまでのアジア主義は日本支那印度の関係にとどまっていたが、彼らはそれに加えイスラム圏を「アジア」の問題として捉えたのである。

 田中は、アジアは古来聖人が命を受け、大道を明らかにし、広めてきた場所である。大アジア主義の「大」とは領土の大きさのことではない。道の尊大を以ていうのである。しかし西洋文明が押し寄せることで、智に偏し物欲が人を苦しませている。大道は廃れんとする中、大アジア主義を問うときが来たのであると説く。田中は大アジア主義をアジア諸国の政治的外交的軍事的連帯に求めない。はたまた白人に対する人種的闘争にも求めない。大道を求め、それぞれの文化で培った伝統的思想(「古道」)の覚醒に努めるべきだというのである。日本においては「神ながらの道」がそれにあたるという。田中はイスラムにもその「古道」が流れているのを感じ取ったのである。

 伝統的信仰を取り戻し、侵略者を追い払うことを通じて、立国の精神を共有することが大アジア主義の志であった。それは必然的に政教一致の政体を模索することにつながるであろう。

 そもそも政教分離とは政治と結びついていた教会に反発したプロテスタントが聖と俗を分離し、あるいは市民革命以降の近代西欧国家で既存の境界と結びついた権力を打倒することで確立していったものだ(もちろん国によって複雑な歴史的経緯をたどっている)。政教分離が確立されたことに因り、政治は世俗化し、世界全土にその影響を及ぼすことができるようになった。もちろんカトリックももともと普遍(「カトリック」の語源)を謳う宗教であり、国籍にとらわれるものではないが(その意味ではイスラム教も仏教も儒教も普遍を謳う宗教だ)、世俗と宗教との関係が切れたことで世俗権力は自由に動き回ることができるようになった。もちろんプロテスタントも帝国主義政策に加担しているから完全に逃れたわけではない。

 いずれにしてもその頃より宗教の力は弱くなり、政治に限らず諸事世俗化が進むこととなった。世俗化した世の中は「欲」「利害関係」によって統合されるよりない。それを打破しようとしたのが大アジア主義である。政教分離と言っても政治とは「まつりごと」であり、宗教と切り離せることは絶対にない。

 おそらく大アジア主義は具体的には帝国主義への反発、現代においてはグローバリゼーションへの反発を意味しようが、それにとどまらぬ趣をも含んでいる。それは政教分離原則のもとあまりにも世俗化し過ぎた政治や経済の問題でもあるが、より根本的にはわれわれの生き様の問題である。気づけば世事に追われ、自らの一身より大いなるものに思いを馳せない生活が続いている。「俗中の俗」(村岡典嗣)は休みなくわれわれの日常をさいなむが、その中でも過去・現在・未来を貫く一本の流れに対する敬意と参与を志す、「俗中の真」を忘れずにいることは政局などよりもはるかに重要なことである。

右翼から国士へ 四(終)

右翼から国士へ

 近頃世に「保守派」と見なされる論客の中には、冷戦的な右翼左翼保守革新の構造を乗り越える発言も見られる。例えば岩田温氏は『逆説の政治哲学』で、「同じ日本人が困難に陥っている。この現実を見つめず、結果として弱者の切り捨てを進めていくのではなく、日本人の同胞意識を根底に置いた弱者救済を目指すナショナリズムの形があるべき」であるとし、「貧困にあえぐ同胞」に手を差し伸べることを考えることもまた、「ナショナリズムの一つの形」であるとした(93~94頁)。氏は自身のメールマガジンで、「以前、『逆説の政治哲学』を執筆した際に、保守派が貧困問題に取り組むべきだと書いたら、「お前は左翼か?」と非難されたことがあった。事ほど左様に、保守派は貧困問題に無関心なのだ」(平成26年4月25日配信分)と論じているが、確かにまだまだこういった考えは少数派なのかもしれない。
 古谷経衡氏は『若者は本当に右傾化しているのか』で、「同胞融和」の観点を「国民国家を形成する愛国心の重要な根幹の一つ」であるとし、「反貧困」を「愛国心」を重んじる立場から評価した。その上で、「保守派は愛国心の有無(あるいはその濃淡)を踏み絵に用いておきながら、実際にはその愛国心の具体的発露の結果である反貧困と言うテーゼを愛国心の範疇には入れていない」ことを「倒錯」であると批判した(143~146頁)。
憂国者とはこの国をよりよくしようと思う人のことであり、「国士」とはそれを歴史と伝統に根付いた形で行おうとする人のことだ。守るべきものは何か。それを真剣に考えることから明日が生まれるのではないだろうか。政策は守るべきもののためにしか生まれない。

 「国士」というと、大時代的で豪放磊落な印象を受ける。わたし自身も自らを国士というにはあまりに軟弱でためらいを覚える。ゆえに「国粋主義者」などと言ってきたわけである。
 国粋主義が信じる対象とは「国民国家としての大義(国家主権)」、「自民族の歴史、文化」の二つ、つまり広義の「国家」である。政府ではない。国粋主義の思想の源泉は何か。それは皇室と靖国神社である。国のため命を捧げた英霊に対し敬意を表し、自分も国のために尽くす、尽忠報国の決意を固めるのである。何に忠かといえば、ご皇室であり、国家である。皇室に忠であるとは今上陛下への個人崇拝をするということではない。天皇が国を治めるこの国の原点に忠実でありたいということである。国家に忠であるとは政府に盲従するということではない。歴史と伝統、民族文化が織りなすわが国の美質とそれに殉じた先人への敬意を失わないということである。
 しかし一方で戦争を経験もせずに「国のために」と叫んでも空疎である。実際戦争になったら、「死にたくない」という気持ちで苦しむだろう。そのほうが人間として自然な姿である。だが「実際どうか」という姿と「理想はこうだ」という姿は矛盾していて構わないではないか。それが理想の姿だという姿勢が大事なのである。第一、英霊だってこうした苦悩なしにいたわけがない。その恐怖を克服して、国に尽くしたからこそ英霊は偉大であり、賞賛されるべきなのではないだろうか。

 自らを国士と呼ぶには未熟に過ぎるが、まさに国士と呼ばれるべき人物へのあこがれは胸に秘めているつもりである。おそらく国士は周囲を威圧する類の人物ではない。平常心を保ち、おごらず、後輩や目下の者にも丁寧で、それでいて義憤するときははばかることがない。そういう人物である。
右翼から国士へ。反共から正統の追求へ。目指すべき道は眼前に広がっている。

(了)

右翼から国士へ 三

右翼左翼保守革新などもうない

 松尾匡は『新しい左翼入門』の中で右翼と左翼の定義について書いている。要約すると、右翼は世界をウチとソトに分け、ウチを擁護する思想であり、左翼は世界をウエとシタに分け、シタを擁護する思想だという。その上で、「本当の右翼ならば、「ウチ」の内部では、共同体としての団結と助け合いを求める。したがって、その団結を乱す競争は制約しようとするし、共同体が「上」と「下」に分裂していくことを肯定したりはしない」という(254~256頁及び254頁にアドレスが紹介されている著者ウェブサイト参照)。まさにその通りだ。
 しかし、例えば戦前の「右翼」と呼ばれた人たちは欧米のアジア侵略に義憤し、欧米に対抗することを訴えた。いわゆるアジア主義と言われる主張である。アジアをウチと考えて、ソトである欧米に対抗する思想だ。また、日本の社会主義者と呼ばれる人たちは、少なくともその初期はあくまで日本国内のウエとシタでシタを擁護する存在であった。シタの国民の生活が向上すると言って支那事変に積極的に賛成した人物もいた。原則は松尾氏の言うとおりだろうが、論者が何を念頭にしていたか、慎重に考える必要がある。
 例えば若き日の葦津珍彦は「日本民族の世界政策私見」で日英同盟を「アングロサクソンの利益のために、印度民衆を抑圧せしむべき義務を承認した」と厳しく批判しつつ、併せて「民族の地位と歴史と現勢に鑑み、遠き将来をも慮り、天地の正道に立ち、根本国策を練り、上日本天皇の御裁可を仰ぎ、絶対不可侵の根本国策を確立」しなければならないと説いていた。そのためには「内政の改革の断行」が必要であり、「外に、暴風雨の如き重圧を迎へ、内には資本主義のために激成せられし「階級の対立」を放任したならば、何を以てか民族の独立を保ち得るの途があらうか」と論じていた(『神道的日本民族論』14~15頁)。ここでの葦津はアジア主義的主張を出発点に反資本主義的主張に着地している。右翼と左翼の原理原則は松尾氏の通りなのだが、論者の意図によって簡単にかつ大胆に飛躍可能な分類であると言わなければならない。

 冷戦が崩壊してから、もう長い。共産主義対民主主義と言った二項対立はもはや通用しない。左翼の敗北と共に親米右翼が勝利を収めた形になっている。しかしそもそも民族主義において、「米国に甘く、支那朝鮮に厳しい民族主義」などありえるのだろうか。しかしこの少しゆがんだ民族主義が小泉・安倍時代の特徴である。世界の国々の国益を破壊しているのは米国なのに、それに対する義憤がない。むしろ米国についていくことが「現実的」だと思っている。確かに「現実的」ではあるだろう。だがそれを唱えるネット右翼や親米保守は政治家でもなんでもないのだ。国際情勢を評論してみせてそのあと「日本は米国と共に特亜に立ち向かうべきである」と「現実的」に語られた日には、私には腹に一物のこらざるを得ない。一体、「現実」とは何なのか、考え込まざるを得ないのである。彼らの思想的根幹が伺えず、何か底が見えない恐ろしさのようなものを感じてしまう。靖国に祀られている英霊は半分以上が米国に殺されたのである。今現在のご皇室が「象徴天皇」などと呼ばれているのもアメリカがしたことである。断じて特亜がしたことではない。彼らは一体、英霊に何を祈るのだろうか。「思想的根幹」を常に重んじる意見は少数派なのかもしれない。少なくとも私はネット右翼のように特定の民族に対する差別的な発言はしないし、言う人が理解できない。彼らは「死ね」と言いながら朝鮮人を一人も殺さなかった。家には包丁という凶器があるにも関わらずである。言行不一致であり、自分の発言に責任も持てない愚か者である。「言論の自由」と言うが、こんな自分の発言に責任も持てない輩に発言の自由はないし、彼らを認めてはいけないと思う。それは「無責任な発言」を擁護したと言うことであり、自分がしている発言も無責任なものである、という印象をもたれてもやむをえない。
 このことはネット右翼に限ったことではない。もはや冷戦は体験的事象ではなく歴史的事象である。人は己が正しいと思うことを述べれば良いのであって保守とか革新などはどうでもいいことである。しかし右翼的、左翼的と罵倒し合わなければ政治家も政治論壇誌も成り立たないと考えられている。だから未だに三文芝居が国会でも論壇でも行われているのである。これでは論壇誌の低調も当然ではないだろうか。右翼左翼保守革新などもうない。むろんこれらを意識しつつ「右翼左翼どちらも極端で間違っている」などという日和見な態度も成立しえない。わたしは右翼でも保守でもなく、左翼でも革新でも無く、ましてや中道でもない。

(続く)

右翼から国士へ 二

国士の源流と、国士がいなくなるまで

 もともと「右翼」と呼ばれる人は右翼を名乗っていなかった。頭山満などは「国士」を標榜していたのであって決して「右翼」と最初から名乗っていたわけではない。それが大正時代ころより右翼左翼という名称に徐々に変わっていく。この間何があったかといえばロシア革命である。共産主義化が進んだゆえに共産主義者が自己と違う思想の人間を「右翼」、「保守反動」と罵倒したのである。したがって右翼左翼保守革新などという二分法は共産主義の消滅とともに闇に葬るべき概念である。保守思想だとか右翼思想などというものは本来存在しえないのである。

 頭山満は高山彦九郎を豪傑とみなしていた、と松本健一は言う(『雲に立つ』19頁)。ここでいう豪傑とは、現代人が思い浮かべる豪快で強い人、という意味でもなければ、支那の原義のように才知あふれる人という意味でもない。たとえ志を果たし得ない場所にいたとしても、独り道を実践していく人のことだ。名利をもとめず、憑かれたように志の実現に邁進する「狂」の態度こそが豪傑の条件であった。この「狂」の感覚を松本は「原理主義」と呼ぶ。松本にとって「原理主義」とは、合理的で近代的な態度ではない、ある種の「狂」の感覚であった。そして松本はこの「狂の感覚」に「原理主義」を見出した。右翼と左翼とはナショナリズムとコミュニズムではない。ある時期まで、右翼と左翼は分かちがたく一体であった。豪傑か否か、「狂」の感覚を持ち合わせるか否かだけが問題であった。冷戦が、「狂」の感覚を右翼と左翼に引裂いた。ここでいう「冷戦」とは、通例とは違い、ロシア革命間際に共産主義運動が盛んになった頃から始まる。「狂」の感覚、「原理主義」は社会の底流にマグマのように流れる土着的エネルギーの爆発を呼び覚ます。「原理主義」は文明への反抗である。あまりにも文明化された今日、「原理主義」はあまりにも忘れ去られてしまった。しかし、同時に冷戦が終わり引き裂かれた右翼と左翼が再び元の「狂」者に戻れば、あるいは近代思想からなる今日の堕落と利益社会のはびこりを改めるきっかけとなるかもしれない。
 中江兆民はルソーの社会契約論を日本に紹介した人として知られるが、その思想は儒学をもとにした理想的道徳を現代によみがえらせようというものであった。中江と頭山は交流があり、見解を同じくすることもあった。頭山を右翼の源流、中江を左翼の源流のように言われることもあるが、その「源流」は分かちがたいほどに共通している。松本健一が「玄洋社員で、頭山の黙認のもとに大隈重信に爆弾を投じた来島恒喜が、兆民の仏学塾の出身であることや、仏学塾の出身者で、兆民のもっとも可愛がった小山久之助が、内田良平の黒龍会の会員であることからもわかるように、頭山満と中江兆民は決して右と左というふうに、対極に位置してはいなかった」(『思想としての右翼』12頁)と言うように、もとともと国権と民権は遠いものではなかった。小林よしのりは、『大東亜論』で「後から付けられたレッテルで、彼は右、彼は左と、人を振り分け、「右と左が交流できるわけがないから、これは無思想だったのだ」と決めつけるような単純な分析は意味がない。中江兆民も頭山満も「民権」論者であり「国権」論者だ。ナショナリズムは両者とも強い。戦後、GHQや学者がルソーを日本に紹介したから中江は「左翼」としただけである」(113頁)と述べている。右翼と左翼なんてものは後世の人間がいい加減に付けた区分であり、お互いの主張に通じ合うものがあればいくらでも連帯したのである。
 木下半治『日本国家主義運動史』によれば、内田良平の黒龍会は労働宿泊所を設けたり、「自由食堂」を作るなど社会事業も行っていたという(慶應書房版10頁)。同書はこのほかにも、大川周明を会頭とする神武会が「一君万民の国風に基き私利を主として民福を従とする資本主義経済の搾取を排除し、全国民の生活を安定せしむべき皇国的経済組織の実現を期す」と謳っていること(99頁、旧字を改めた)や、石川準十郎の大日本国家社会党が「我等は現行資本主義の無政府経済組織を以て現下の我が国家及び国民生活を危うする(ママ)最大なるものと認め、公然の国民運動に依りこれが改廃を期す」と謳ったこと(242頁)など、国家主義団体が資本主義による格差に対抗しようとしたことが多く記されている。それこそが戦前昭和の「国家改造」の内実であった。
 河上肇は、島崎藤村にもっとよくヨーロッパを知ろうじゃないかと話しかけられた時に、「愛国心といふものを忘れないで居て下さい」と答えたという(牧野邦昭『戦時下の経済学者』3頁)。河上は晩年、『自叙伝』で「私はマルクス主義者として立つてゐた当時でも、曾て日本国を忘れたり日本人を嫌つたりしたことはない。寧ろ日本人全体の幸福、日本国家の隆盛を念とすればこそ、私は一日も早くこの国をソヴェト組織に改善せんことを熱望したのである」と回想している(同6頁)。牧野が「河上にとって、ナショナリズムとマルクス主義は両立可能なものであり、最後までナショナリズムを捨てることはなかった」と評している通り(同6頁)、「ソヴェト組織」に変ったほうがよかった否かは別にして、河上は「シタ」の為に発言していたというよりは「ウチ」の為に発言していた。
 このように、「右翼」とか「左翼」と言った区分を思想家は簡単に乗り越えていく。だが、ソ連ができたころからこうした傾向は少しずつ少なくなっていき、戦後の米ソ対立時代からほぼ皆無になってしまった。

(続く)

右翼から国士へ 一

※本稿はいままで「歴史と日本人」に書いてきたものを再構成し、加筆修正したものである。

「右翼」「左翼」という幽霊

 日本には、いや日本だけではない。現代世界には幽霊が出るようである。しかも暗がりではなく、明るい場所を堂々と闊歩しているのだ。「右翼」、「左翼」という亡霊が。あらゆる政治勢力がこの亡霊を一日でも長く存続させようと躍起になっている。「敵」を作り出すことが自分たちを栄えさせるからだ。従って自己利益のために亡霊退治に乗り出すことはない。
 冷戦崩壊は、「左翼」だけでなく「右翼」までも完膚なきまでに崩壊させた。断じて「資本主義の共産主義に対する勝利」ではない。混迷した現在の世界の政局が、それを如実に物語っている。
冷戦崩壊は、政治勢力にとってある種の危機であった。わかりやすい争点をなくしたために、政治家は言葉の貧困にあえいだ。イラク戦争を眺めれば、アメリカの「ネオコン」と呼ばれる人達は「イラクに自由、民主主義を輸出する」と言っていた。だが「自由」だ、「民主主義」だ、という言葉はもともとフランス革命で革命派が圧政に対抗するために唱えた言葉ではないか。アメリカの「右翼」がそれを戦争の動機にしているのだ。錯乱というべきである。もっとも、それはアメリカという国の特殊な成り立ちによると言えなくもない。冷戦期には、そういう論法もありえた。だが、現在にいたってみれば世界中が「アメリカ化」しているのである。
 日本人はあの「改革」の合唱の果てに何が残ったかを知るが良い。日本の「右派」は自由主義経済を進めるということになり、日本の「左派」は人権だ、差別解消だと言っている。嗚呼いつの間にかアメリカの「右翼」「左翼」と同じではないか。自民党は共和党に、民主党は米民主党に脱皮したのであった。アメリカ化は「改革」で完成した。「構造改革」とはすなわち「日本の構造をアメリカの構造に改革する」ことでしかなかったということである。「改革」の行き着く果ては「日本」の喪失でしかなかったことに、そろそろ気づかなくてはならない。
 「右翼」は反共であり、共産主義の終焉とともに共産主義の役割を否定し、「男女平等」、「信仰の自由」、「移民」を否定し「自由競争の経済」により一層移行しなければならないと説く。なぜならば冷戦は共産主義に対する自由主義、民主主義の勝利であり、したがって共産的な政策は改めなければならないからだ。
 一方「左翼」は「民主」の時代であるからより「寛容」で「平等」で「人権」の認められた世界の実現を主張する。民主とは一票の平等のことであり、したがって国家の構成員の平等を意味する、と説いている。だがこれらの議論はどちらも破綻している。もちろん「右翼」は男女や信仰の問題を差し置いて「自由」な競争だとは馬鹿げているし、「左翼」は平等や人権を保障するためには強い国家が必要だが、概して彼らは国家主義に反対だからである。
 日本の元来の「右翼」と「左翼」の姿はこうした「グローバル」なものではなかった。だが冷戦崩壊と一連の「構造改革」の合唱の果てに、新たにできた構造とは日本の構造を破壊した、ただの世界の亜流であった。「格差を擁護する自民党=右翼」、「格差に反対の民主党=左翼」という図式はいかにも「構造改革」がもたらした結果でしかなく、鼻白まされる思いである。両者とも伝統とか共同体としての在り方には興味がなく、ただ己の利益増進と利権保護にあくせく励んでいるにすぎない。

(続く)

山本七平『現人神の創作者たち』について

 山崎闇斎を嚆矢とする崎門の思想の一つに湯武放伐論の否定がある。湯武放伐論とは、無能で暗愚な君主を天下のために討ち、次の君主になることである。崎門はこれを否定したと聞くと、「なるほど、どんな暗君でも絶対的に従うことを要求した思想なのだな」とわかった気になってしまう。だが、本当にそうなのだろうか。

 よく、「君君たらずとも臣臣たれ」という。「君主は君主らしからずとも臣下は臣下らしくあれ」ということである。この「臣下らしい」とはいったいどういう態度を指すのだろうか。

 崎門の中でも有名な浅見絅斎は『靖献遺言』で忠誠の模範たる人物を支那の歴史から選び、伝記や遺文などを紹介したが、そこで取り上げられている人物はいずれも悲劇的な状況下におかれても節義を貫いた人物が選ばれている。人物の多くが正統でない王に使えることを拒み、虐殺されたり戦死したりしている。それは「宗教的な心情に通ずる」(尾藤正英)ものであったし、「殉教」(山本七平)的性格を持った。君主個人への忠というよりは、「君臣の忠義」という思想に殉じる態度を求めたのである。つまり「彼(浅見絅斎)は、まず個人の変革をすなわち崎門学という疑似宗教への帰依とそれによる回心を求めた」(山本七平)。その点から見れば「湯武放伐論の否定」はもう少し抽象的な理解ができる。人間が肉体を持ち、欲がある限り、力を持つ者、勢いのあるものへの追従がしたくなる自分が出てくる。そうした人間のエゴイズムを見つめるからこそ、かえってそれに屈せず義を貫いた人間への称揚がある。湯武放伐は歴史の現実である。万世一系のわが国体でさえ、院政期など皇室の秩序が乱れたときにはその存亡を危うくした。そうした歴史の現実を見つめるからこそ、にもかかわらず万世一系を貫いているわが国体への誇りが生まれるのである。

 ところで先ほど引用した山本七平は崎門学を「疑似宗教」と呼んだようにかなり突き放した見方をする論客である。その反面山本の『現人神の創作者たち』に代表される国体思想への執拗な関心もまた特徴である。氏はそれを戦争中の体験からであると動機づけている。『現人神の創作者たち』では、山崎闇斎を内村鑑三になぞらえている。思想に殉じる態度、批判者への舌鋒鋭い攻撃などからそう例えたのであるが、実は山本は内村鑑三の流れをくむ人間なのである。それに気づいたとき、この本の違った性格が見えた気がした。

 山本は『靖献遺言』を聖書になぞらえている(山本七平ライブラリー版137頁)。聖書も靖献遺言も、ともに残された生者が自分の意志で変更できない絶対的規範として人々に働きかけるものとして解釈している。
 繰り返すが山本のこの本は終始崎門を突き放した態度で見ている。その同じ人間が自ら信じる聖書と自ら批判する『靖献遺言』を同じ構造だと論じているのである。ここに氏の複雑な心理を見たような気がしたのである。

 ちなみに山本は『靖献遺言』に出てくる義士を、「中国人は(中略)政治に救済を求める。それゆえに政治に殉教できる。しかし日本人は決してそうではない」(『静かなる細き声』山本七平ライブラリー版148頁)と書いている。ここでいう「政治」とは「政権」とか「政局」の意味ではなく、「政治思想」の意味である。「決して」とまで言い得るかはともかくとして、日本人は政治思想に絶対性を認めづらい。政治思想に殉じる態度が始まったのは江戸、幕末頃からではないかという感覚は確かにある。時折浅見絅斎は『靖献遺言』を幕府の追及をかわすために日本人ではなく支那人の伝で書いたのだ、と言われる。本当だろうか。そういう態度こそ絅斎の戒める態度ではないだろうか。幕府がそれにより獄につないだり殺そうとするならば、自らの所信を述べて堂々と殺されることこそが崎門の教えらしい態度ではないだろうか。わたしはおそらく絅斎は日本人よりも支那人のほうが義士が見つけやすかったからそうしたのであって、それ以上の意図はないのではないかと思っている。

 相変わらず余談ばかりでまとまりのない記事となってしまったが、崎門についてはわからないことばかりである。だがわかるまで待っていると一生書かなくなってしまうと思いとりあえず今わたしが考えていることについて記しておきたいと思い書いた。

伝統という革新

 伝統とは、先例を守る心とか、旧来のものをひたすら墨守する心情とは全く違うものを秘めている。むしろ伝統は時代の変化や外国の思想すらも受容していく力を持っている。例えば蓑田胸喜は日本が仏教や儒教を受け入れてきた歴史を積極的に認めつつ、それは外来思想を日本思想が吸収・消化し自らのものとしたと捉え、肯定する立場を取った。これは明治二十年代の国粋主義ともまったく同じ論理構造である。

 伝統とは解釈であり、原点回帰であると言える。それを促すのであれば、外来思想も時代の変化も恐るるに足りない。蓑田は外来思想を受け入れるというからには受け入れる方(=日本人)に主体性がなければならず、したがって外来思想の受け入れは、日本人の自覚と日本思想を見出そうとする研鑽なしには到底できようがない、という立場を取った。即ち外来思想の受け入れと自国文化への目覚めは同時並行で訪れなければならないのだ。伝統の自覚と革新が同時並行で起こる所以はそこにある。

 そもそも物事は言葉を通じて理解される。即ち新たな事象も言葉を通じて人々に広められ、理解される。新たな事象も日本語で解釈される限り、それまであった日本語の語彙に少なからぬ影響を受けるのである。こうしてもともとの日本語にあった意味や感性に引きずられながら新たな思想を捉えていくため、伝統は革新と同居するのである。

 もちろん伝統は過去の原点を尊重する立場だから、継続性を重んじる立場でもある。変えまいと頑強に抵抗してそれでも変わっていくものこそ、時の流れでやむを得ないものと言えることは疑いない。しかし抽象観念はこの図式が全く生きないのである。したがって先に述べたように、伝統は革新と同時並行で語られなければならないし、そうでなければただの外国の先兵にしかなっていないということになってしまう。

 それゆえに不思議な現象も起こる。例えば浅野晃などの一派は、戦前共産党内部の勢力争いに敗れて転向するが、彼らは日本の土着性に興味を持ち、柳田国男に教えを乞うまでに至っている。しかも彼らは、戦前あのマルクスやらレーニンやらの引用ばかりで文書を組み立てたと悪名高い、福本和夫の一派だったのである。その頭目であった福本自身も、戦後は伝統的捕鯨の研究などに打ち込むことになるのである。この不可思議な現象をどう解釈したらいいのだろう。分かりやすい説明をつけられないことはない。講座派と労農派に分かれた戦前共産主義の内、彼らは講座派にあった。講座派とは日本はブルジョア革命も経ておらず明治維新によって日本は半封建的な特殊状態に陥っているという「日本特殊説」の立場だから意外に民俗学などと馬が合うのだろうと語れなくもない。だがわたしはこの説明には説得力がないと思う。労農派は労農派で支那事変のときに歓喜して転向するようなこともあったり、必ずしもこの図式的な思想理解が当てはまらないこともあるし、何より人の心をそのようなわかりやすい紋切型で片づけてしまえないような気がしてならないからだ。

 話がそれた。歴史を通して物事を理解しようとする立場(=伝統)はある面で決定的に遅れている。だが彼らは遅れているようでいて「言葉」を通して概念そのものに立ち向かっているのである。彼らはもっとも伝統的であると同時にもっとも革新的である。抽象理念と言う先例墨守が通用しないものに対しては、伝統的でありかつ革新的であるという態度を身に着けることでそれを日本史の中に位置づけてきたのである。

伝統と信仰 おわりに

おわりに

 本稿は全く不思議な論考である。私は「伝統」とか「信仰」というものを様々な言葉で言い換え、様々な論客の考察を抜き出し、執拗にこの言葉のもつ意味合いを明らかにしようとしてきた。だが、書けば書くほど生半可な知識でわかった気になることを怖れるようになり、ためらいがちにしか語れなくなっていく。何度も、様々な個所に「~かもしれない」とか、「~なのだろう」と付け足した挙句、やはりそれでは良くないと断言する口調に変える。そんなことばかり繰り返して本稿は書かれた。

 大東亜戦争での敗北は何よりも日本人の信仰に大打撃を与えた。日本人は未熟で近代化できていない民であるかのような教説が垂れ流され、信仰は儀礼的なものとなっていった。経済成長がそれに拍車をかけ、物欲を満たすことだけが重んじられる社会となった。ある意味日本人は資本主義的人間となっていったと言ってよかろう。信仰、信念を持つ人間など資本主義にとっては邪魔なだけである。労働者としても消費者としても信念のある人間は資本主義により排除される運命にある。新しいものをほしがらず、禁欲的で己の心を見つめようとする人間など資本主義にとっては何の役にも立たない愚物である。むしろ何のこだわりもなく、そこそこ流行に敏感で、ある程度の物欲を持ち、まわりとことを荒立てず己の思うところを主張せず会社の言うことを聞き、働いてカネを作り家族や恋人などに金銭を費やしそこそこの幸福を理想とする凡庸な、しかし消費者としても労働者としても理想的な人間のみが生産されることになった。日本人の信念、そして信仰を壊滅させたのは資本主義と高度経済成長だと言える。資本主義の中では皇室もまた物売りのための道具であり、皇后陛下が今上陛下(当時皇太子)とご成婚された際には「ミッチーブーム」なるものが起こった。だがそれは皇后陛下への人格的共感などではなく単純に皇后さまの来ているものと似たような服を着よう、というものでしかなかった。物欲にまみれた物売りの下郎により皇室すらも「ただのセレブ」とみなされつつあった。三島由紀夫はこうした現状に憤り自決したのであったが、それもすっかり堕落し切った当時の日本人により狂人のおままごとであったかのような批評も多くされることとなった。

 本稿ではさまざまな人物、考え方が登場し、それぞれ独特の世界観を以て国家もしくは社会を構想していたことを紹介してきた。むろんそれらが飯の種になるとは限らなかったし、またそれを主張したために不遇の生涯を送らざるを得なかった人物もたびたびいた。
 少なくとも戦後日本では「日本は和の国」という通念がまかり通っているように思う。だが日本は和の国なのか。もしくは和の国と言われる時の「和」とは一体何なのだろうか。
 統計学的にいえば日本人が集団主義的であるとか他者と協調しやすい民族であるなどというのは全く根拠がない。むしろ高度経済成長期においてすら、日本ではマスコミで言われるほどには「カイシャ人間」は多くなかった。戦後日本人にとってカイシャはあくまで欲望を満たす道具であり、職業に信仰的情熱をささげるわけではなかった。かといって職業以外の所に信仰を見出したわけでもなく、ただ人よりちょっと良い車に乗るとか、その程度のちっぽけでつまらないことに情熱をささげてきた70年であった。
 もちろん、「そもそも論」を言えば個人主義と集団主義、協調と自己主張が対立するかのような二分法は安直にすぎる。しかし私には「みんな仲良く」的な「和の国」が戦後急造されたイデオロギーに思えてならない。
 戦後日本は武力を禁止され、軍事面での国際的主張を訴えるだけの力を失った。力の後ろ盾がないということは結局発言力の後ろ盾もないということである。その結果として戦後日本は強者への追従とそれを国際協調とすりかえる詭弁を以って自己をなだめる必要に迫られる。「和の国ニッポン」はまさに戦後的産物であり、戦後の惨況を慰撫するために作られた「偽りの自画像」である。少なくとも「自己主張をせず、他人と仲良く協調的で空気を読みながらやっていく」姿は「戦後日本」的であるかも知れないが「日本」的ではない。現にいかなる外来思想も外来宗教も日本化して習合していったではないか。土俗信仰である神道は未だに息づいているではないか。もともと外来宗教であった耶蘇教に完全に制圧され土俗信仰の姿はほとんど見えなくなってしまった欧州とは雲泥の差である。強い自己主張と心に秘めた信念がなければ圧倒的な外来の力に負けてしまうのである。あえて言えば日本人は自己主張が強い民族である。決して周りと仲良くやるだけの無節操な民族ではない。
 「和の国ニッポン」を押し付けられた日本は陰惨で救いようのない社会となった。政治外交面で何も国際的影響力がなくなれば、今度は金儲けだとばかりに銭ゲバ根性をむき出しにした。そのために労使協調を謳い会社経営者に都合のよいように雇用構造も変化していった。そうやって高度経済成長は起こった。「和の国ニッポン」の姿とは国外では国際協調と銘打って米国に媚を売り、他国には虎の威をかる卑劣国家になり下がった姿であり、国内では上司の意向、社の意向、妻の意向、親の意向、同僚の意向…にしばられるあわれな賃労働生活者の姿である。「和」の名のもとに、従業員が奴隷化された姿が「日本型雇用」と呼ばれるものである。「和の国ニッポン」とはまさに日本を堕落させた張本人ではないだろうか。聖徳太子の「和を以て~」の語はむしろつまらぬ党派心で争わずにいることで自分の思うことを述べあって良き政治を行おうという趣旨のものだった。だが戦後日本の「和の国」とはそれら昔の日本人が編み出した和の倫理にすら反している。日本人には己の信じるところに生きてきた諸先輩がいるではないか。主張する自己を収める必要はない。国内にも国外にも日本人にはもっと自己主張が求められている。

 本稿は愛国の不可能性を論じたものとも言える。我々の生活はすでに愛国心の源泉であり共同体の母体である、故郷や自然と断絶されている。過去から受け継がれた敬神の生活は取り戻すことができないのではないかと思うほど遠くかなたにある。まずはこの困難な状況を自覚することから始めなければならない。我々の生活は土着から切り離され、グローバリズムが常態化した中にある。それは市場が国境を自在に超えるということだけではなく、各地方の共同体を横断し、違いを少なくしていく方向にある。その結果、利便性は確かに向上したが、その対価として我々は根なし草となり、どこまで行っても政府と市場ばかりで国家が見いだせなくなってしまったのである。言論も、政局や株価の占いのようなことしかできなくなっていくに違いない。伝統と信仰はその中で失われてしまったものの代表格であろう。伝統や信仰を知るということは、決して物理や自然科学を知るような客体化された何かを知識として得るということではない。伝統や信仰を知るということは、己の心が問われるということなのである。客体化できない何かにぶつかって、自分の存在が歴史という大河の一滴に過ぎないことを知るということである。そうしてはじめて、自己主張は自己利益を超えた立場からの発言となるのである。

 もうすでに本稿の中で述べたことではあるが、最後にあえて改めて述べよう。現代は伝統と信仰が大きく欠落した時代である。人々は資本主義的な自己利益の充足に馴れきって、大いなる大望を抱くことを忘れている。日本人の、そして人類の精神の救済は後回しにされている。
 だが、だからこそと言ってよいが、現代は伝統と信仰の時代なのである。伝統や信仰が著しく退潮しているからこそ、村の有力者が言っているからとか、そういう世俗的理由にさいなまれず、真摯に伝統と信仰について追究することが可能になるのである。
 人は、いつも「今ここにない何か」を求めて彷徨うものである。現代という道徳的荒廃の時代に生まれ落ちたとき、果たして真実なるものとは何か、信ずべきものはあるのか、利害関係を超えた価値はあるのか、という問いが自然と湧き上がってくる。その時に、伝統と信仰の種がその人の心に植えつけられる。あとはそれが芽吹いて大きく育つまで、静かに水をやり続けるだけだ。