右翼から国士へ 四(終)


右翼から国士へ

 近頃世に「保守派」と見なされる論客の中には、冷戦的な右翼左翼保守革新の構造を乗り越える発言も見られる。例えば岩田温氏は『逆説の政治哲学』で、「同じ日本人が困難に陥っている。この現実を見つめず、結果として弱者の切り捨てを進めていくのではなく、日本人の同胞意識を根底に置いた弱者救済を目指すナショナリズムの形があるべき」であるとし、「貧困にあえぐ同胞」に手を差し伸べることを考えることもまた、「ナショナリズムの一つの形」であるとした(93~94頁)。氏は自身のメールマガジンで、「以前、『逆説の政治哲学』を執筆した際に、保守派が貧困問題に取り組むべきだと書いたら、「お前は左翼か?」と非難されたことがあった。事ほど左様に、保守派は貧困問題に無関心なのだ」(平成26年4月25日配信分)と論じているが、確かにまだまだこういった考えは少数派なのかもしれない。
 古谷経衡氏は『若者は本当に右傾化しているのか』で、「同胞融和」の観点を「国民国家を形成する愛国心の重要な根幹の一つ」であるとし、「反貧困」を「愛国心」を重んじる立場から評価した。その上で、「保守派は愛国心の有無(あるいはその濃淡)を踏み絵に用いておきながら、実際にはその愛国心の具体的発露の結果である反貧困と言うテーゼを愛国心の範疇には入れていない」ことを「倒錯」であると批判した(143~146頁)。
憂国者とはこの国をよりよくしようと思う人のことであり、「国士」とはそれを歴史と伝統に根付いた形で行おうとする人のことだ。守るべきものは何か。それを真剣に考えることから明日が生まれるのではないだろうか。政策は守るべきもののためにしか生まれない。

 「国士」というと、大時代的で豪放磊落な印象を受ける。わたし自身も自らを国士というにはあまりに軟弱でためらいを覚える。ゆえに「国粋主義者」などと言ってきたわけである。
 国粋主義が信じる対象とは「国民国家としての大義(国家主権)」、「自民族の歴史、文化」の二つ、つまり広義の「国家」である。政府ではない。国粋主義の思想の源泉は何か。それは皇室と靖国神社である。国のため命を捧げた英霊に対し敬意を表し、自分も国のために尽くす、尽忠報国の決意を固めるのである。何に忠かといえば、ご皇室であり、国家である。皇室に忠であるとは今上陛下への個人崇拝をするということではない。天皇が国を治めるこの国の原点に忠実でありたいということである。国家に忠であるとは政府に盲従するということではない。歴史と伝統、民族文化が織りなすわが国の美質とそれに殉じた先人への敬意を失わないということである。
 しかし一方で戦争を経験もせずに「国のために」と叫んでも空疎である。実際戦争になったら、「死にたくない」という気持ちで苦しむだろう。そのほうが人間として自然な姿である。だが「実際どうか」という姿と「理想はこうだ」という姿は矛盾していて構わないではないか。それが理想の姿だという姿勢が大事なのである。第一、英霊だってこうした苦悩なしにいたわけがない。その恐怖を克服して、国に尽くしたからこそ英霊は偉大であり、賞賛されるべきなのではないだろうか。

 自らを国士と呼ぶには未熟に過ぎるが、まさに国士と呼ばれるべき人物へのあこがれは胸に秘めているつもりである。おそらく国士は周囲を威圧する類の人物ではない。平常心を保ち、おごらず、後輩や目下の者にも丁寧で、それでいて義憤するときははばかることがない。そういう人物である。
右翼から国士へ。反共から正統の追求へ。目指すべき道は眼前に広がっている。

(了)

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