右翼から国士へ 一


※本稿はいままで「歴史と日本人」に書いてきたものを再構成し、加筆修正したものである。

「右翼」「左翼」という幽霊

 日本には、いや日本だけではない。現代世界には幽霊が出るようである。しかも暗がりではなく、明るい場所を堂々と闊歩しているのだ。「右翼」、「左翼」という亡霊が。あらゆる政治勢力がこの亡霊を一日でも長く存続させようと躍起になっている。「敵」を作り出すことが自分たちを栄えさせるからだ。従って自己利益のために亡霊退治に乗り出すことはない。
 冷戦崩壊は、「左翼」だけでなく「右翼」までも完膚なきまでに崩壊させた。断じて「資本主義の共産主義に対する勝利」ではない。混迷した現在の世界の政局が、それを如実に物語っている。
冷戦崩壊は、政治勢力にとってある種の危機であった。わかりやすい争点をなくしたために、政治家は言葉の貧困にあえいだ。イラク戦争を眺めれば、アメリカの「ネオコン」と呼ばれる人達は「イラクに自由、民主主義を輸出する」と言っていた。だが「自由」だ、「民主主義」だ、という言葉はもともとフランス革命で革命派が圧政に対抗するために唱えた言葉ではないか。アメリカの「右翼」がそれを戦争の動機にしているのだ。錯乱というべきである。もっとも、それはアメリカという国の特殊な成り立ちによると言えなくもない。冷戦期には、そういう論法もありえた。だが、現在にいたってみれば世界中が「アメリカ化」しているのである。
 日本人はあの「改革」の合唱の果てに何が残ったかを知るが良い。日本の「右派」は自由主義経済を進めるということになり、日本の「左派」は人権だ、差別解消だと言っている。嗚呼いつの間にかアメリカの「右翼」「左翼」と同じではないか。自民党は共和党に、民主党は米民主党に脱皮したのであった。アメリカ化は「改革」で完成した。「構造改革」とはすなわち「日本の構造をアメリカの構造に改革する」ことでしかなかったということである。「改革」の行き着く果ては「日本」の喪失でしかなかったことに、そろそろ気づかなくてはならない。
 「右翼」は反共であり、共産主義の終焉とともに共産主義の役割を否定し、「男女平等」、「信仰の自由」、「移民」を否定し「自由競争の経済」により一層移行しなければならないと説く。なぜならば冷戦は共産主義に対する自由主義、民主主義の勝利であり、したがって共産的な政策は改めなければならないからだ。
 一方「左翼」は「民主」の時代であるからより「寛容」で「平等」で「人権」の認められた世界の実現を主張する。民主とは一票の平等のことであり、したがって国家の構成員の平等を意味する、と説いている。だがこれらの議論はどちらも破綻している。もちろん「右翼」は男女や信仰の問題を差し置いて「自由」な競争だとは馬鹿げているし、「左翼」は平等や人権を保障するためには強い国家が必要だが、概して彼らは国家主義に反対だからである。
 日本の元来の「右翼」と「左翼」の姿はこうした「グローバル」なものではなかった。だが冷戦崩壊と一連の「構造改革」の合唱の果てに、新たにできた構造とは日本の構造を破壊した、ただの世界の亜流であった。「格差を擁護する自民党=右翼」、「格差に反対の民主党=左翼」という図式はいかにも「構造改革」がもたらした結果でしかなく、鼻白まされる思いである。両者とも伝統とか共同体としての在り方には興味がなく、ただ己の利益増進と利権保護にあくせく励んでいるにすぎない。

(続く)

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