私はかつて、竹中平蔵について本ブログで以下のように書いたことがあった。以下再録。
安倍内閣では産業競争力会議なるものを開催し、竹中平蔵を委員として招聘し、新自由主義的な政策が練られている。安倍総理はどちらかと言えば新自由主義から遠い人物だと見られがちである。それは今回の政権奪取時にもそうであったし、小泉総理の後を継いで総理大臣になったときもそうだった。だがどちらも実際は新自由主義的な政策を実行しようとしている。安倍氏は愛国や保守を隠れ蓑に新自由主義的な政策をとる人物ではないのか。そういった意味でも安倍内閣は正当に批判される必要がある。この新自由主義と比べれば幾分ましなものの、財政出動を旨とする思想もまた、単に政府が介入したほうが、経済が活性化される場合もある、といった程度の考えであった場合、新自由主義と同じ穴のむじなだ。国を率いる立場として、その社会の構成員それぞれが生活を営めるよう苦慮するのが政治家の職務であるはずだ。それは経済的な効率よりもはるかに重んじられるべきものだ。安倍内閣はこの財政出動論と新自由主義論が奇妙に結合して成立している。
安倍内閣は第一次で「美しい国」と言っていたときより、第二次の「経済の再生」と言っている今のほうが、したたかで政治家として成長している、という見方がある。だがアベノミクスの金融緩和や成長戦略などは、大方アメリカで行われていることの後追いでしかない。むしろ第二次安倍内閣のほうが、理想を放棄した分一層対米依存を強めているという見方もできるのではないか。
竹中平蔵は新自由主義者と呼ばれることを嫌う。竹中は「経済思想から判断して政策や対応策を決めることはありえない」(『経済古典は役に立つ』5頁)といい、小泉総理にこれからは新自由主義的な政策を採用しましょうなどと言ったことは一度もないという(佐藤優、竹中平蔵『国が滅びるということ』20頁)。日々起こる問題を解決しようと努めてきただけだ、というわけである。だが、あまたある事象の中でどれを問題とし、どういう解決を図るかは、やはり思想が大きな影響を与えているのではないか。あるいは竹中にとって市場原理によって物事を解決することは自明のことだと思っている余り、それが一思想に過ぎないことが見えていないのだろうか。ところで佐藤は竹中のマルクス理解の正確さをほめたたえているわけだが(『国が滅びるということ』11~12頁)、知っていて言っているのかどうかわからないが、竹中は高校生の時期に民青に関わっていた(佐々木実『市場と権力』25~29頁)。竹中は確かにイデオロギー的に新自由主義を信じている人物ではないのかもしれない。自由放任と「神の見えざる手」の信奉者ですらなく、むしろその時々で流行りの議論に飛びつき、それを日々起こる課題に対応しているだけだ、と嘯く類の人間と言ったほうが適切だろう。竹中の比較的古い著作、例えば私の手元にある『民富論』(1994年刊行)を紐解けば、そこでは竹中はインフラなどの「社会資本」の重要性を説いたり(65頁)、自由貿易は錦の御旗ではない、というなど(172頁)、現在の竹中の印象とはまた違った側面を見ることができる。竹中が小泉内閣の時は新自由主義的な発想から政策を進め、今安倍内閣においても、「アベノミクス」のブレーンの一人となっているのは本人にとっては矛盾ではないのであろう。
現在の日本の状況はと言えば、労働者の労働条件を守るよう訴える労働組合は有名無実であり、そういった社会保障はお上頼みという状況である。中間組織は資本主義の進展に伴い、その力を失いつつある。それは決して望ましい状況とはいえない。安倍総理は自ら経済界に賃上げ要請をしたが、それは賃上げという方向性に導こうという意志は正しいものの、方法論として政府が直接救済を目指した点で課題がある。インフレ政策は公共事業等の需要を増やす政策があって初めて意味がある。私は安倍内閣が訴える「国土強靭化」に賛成する。でなければインフレは燃料費等の高騰や資産の目減りを招き、貧富の差を広げるだけだ。そうでなくさせるためには、供給過多で、需要が不足している状況を改善するために、国が間接的に需要を増やす必要がある。公共事業はその一つの手段だ。その際には単なるハコものを作るのではなく、文化や風土を生かすものにすることが重要である。そして、国家と国民、市場ばかりでなく、社会には様々な中間的集団が存在することを念頭に、それらの復活を目的とした事業をすることが必要だ。総理が自ら賃上げ要請をせざるを得なかったのはこうした中間組織が機能しなくなりつつあるからではないか。だとすれば中間勢力の復活は急務である。
所詮「デフレ解消」は消費増税の隠れ蓑にすぎなったのだろうか。そもそも金融緩和によりインフレを起こすことで消費が喚起できると考えるのは、カネさえ配れば皆モノを買うだろうという拝金主義的発想と紙一重だ。確かにデフレは経済を停滞させるが、その反対のインフレ政策なら良いという考えは安直ではないか。デフレは海外投資を促進させるばかりでちっとも国内経済が栄えなかった。しかしインフレにしても、一般庶民が潤う体制になっていなければ、その恩恵が社会に行き渡らないことになる。結局のところ、大企業や富者に応分の負担を求め、中間層を育成し、低所得層の底上げを図ることでしか健全な経済は達成されないのである。
かつてデフレ下で好景気だった時も、従業員の給料は増えるどころか減り続けた。企業は内部留保と配当ばかり増大させてきたからだ。その流れは今の安倍内閣の政策ではとどめる力にはなりえていない。デフレ時代の負の遺産とも言えなくもないが、一度海外進出したものは容易には国内に還流しない。少々のインフレ政策では国内に雇用が戻ることはないし、国内産業の復興もない。グローバル化よりも、日本国民が幸せになるような経済のあり方でなければ意味がないのである。その前提は見失ってはならない。CSR、企業の社会的責任というと企業が安全や環境に配慮しているかが問われるわけだが、それも大事ではあるものの、企業の社会的責任とは、社会全体のために労働条件を改善することだ。
「再びアベノミクスと現時経済の問題点を論ず 四」
例えば笠井潔や竹内靖雄と言った、「無政府資本主義」ともいわれる人物と竹中平蔵は明らかに異なる。笠井や竹内は市場に「国家権力以外による秩序」や「共生」を見出す。その細部の意見には賛同できない所も多いが、それでも思想を信じるものに通ずる「ある種の美しさ」を感じることができる。しかし竹中にはそれがない。共産主義、ケインズ、新自由主義、アベノミクスとその時の流行に自らを合わせてきた政商ともいうべき存在が竹中平蔵だ。竹中に主義はない。ただ権力への迎合があるだけなのである。
あまり主題とは関係ないですが最新の日記に失礼します。日本の保守派の格言をいくつか教えてもらえませんか。
名無し代表さん
コメントありがとうございます。
正直格言というものがよくわからないのでお伝えすることができず申し訳ございません。
何か著書の中から印象的な一節を抜き出せば格言になるんですかね…?
どちらかと言えばそれなりに知られてる方を希望ですが、含蓄あるなら知られてなくてもいいです。「震災は忘れたころにやってくる」みたいなのないですか
治乱興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり
意味 世は治り乱れたり興亡するように、その世情は碁のように亡國の淵に進む時もある。