伝統とは、先例を守る心とか、旧来のものをひたすら墨守する心情とは全く違うものを秘めている。むしろ伝統は時代の変化や外国の思想すらも受容していく力を持っている。例えば蓑田胸喜は日本が仏教や儒教を受け入れてきた歴史を積極的に認めつつ、それは外来思想を日本思想が吸収・消化し自らのものとしたと捉え、肯定する立場を取った。これは明治二十年代の国粋主義ともまったく同じ論理構造である。
伝統とは解釈であり、原点回帰であると言える。それを促すのであれば、外来思想も時代の変化も恐るるに足りない。蓑田は外来思想を受け入れるというからには受け入れる方(=日本人)に主体性がなければならず、したがって外来思想の受け入れは、日本人の自覚と日本思想を見出そうとする研鑽なしには到底できようがない、という立場を取った。即ち外来思想の受け入れと自国文化への目覚めは同時並行で訪れなければならないのだ。伝統の自覚と革新が同時並行で起こる所以はそこにある。
そもそも物事は言葉を通じて理解される。即ち新たな事象も言葉を通じて人々に広められ、理解される。新たな事象も日本語で解釈される限り、それまであった日本語の語彙に少なからぬ影響を受けるのである。こうしてもともとの日本語にあった意味や感性に引きずられながら新たな思想を捉えていくため、伝統は革新と同居するのである。
もちろん伝統は過去の原点を尊重する立場だから、継続性を重んじる立場でもある。変えまいと頑強に抵抗してそれでも変わっていくものこそ、時の流れでやむを得ないものと言えることは疑いない。しかし抽象観念はこの図式が全く生きないのである。したがって先に述べたように、伝統は革新と同時並行で語られなければならないし、そうでなければただの外国の先兵にしかなっていないということになってしまう。
それゆえに不思議な現象も起こる。例えば浅野晃などの一派は、戦前共産党内部の勢力争いに敗れて転向するが、彼らは日本の土着性に興味を持ち、柳田国男に教えを乞うまでに至っている。しかも彼らは、戦前あのマルクスやらレーニンやらの引用ばかりで文書を組み立てたと悪名高い、福本和夫の一派だったのである。その頭目であった福本自身も、戦後は伝統的捕鯨の研究などに打ち込むことになるのである。この不可思議な現象をどう解釈したらいいのだろう。分かりやすい説明をつけられないことはない。講座派と労農派に分かれた戦前共産主義の内、彼らは講座派にあった。講座派とは日本はブルジョア革命も経ておらず明治維新によって日本は半封建的な特殊状態に陥っているという「日本特殊説」の立場だから意外に民俗学などと馬が合うのだろうと語れなくもない。だがわたしはこの説明には説得力がないと思う。労農派は労農派で支那事変のときに歓喜して転向するようなこともあったり、必ずしもこの図式的な思想理解が当てはまらないこともあるし、何より人の心をそのようなわかりやすい紋切型で片づけてしまえないような気がしてならないからだ。
話がそれた。歴史を通して物事を理解しようとする立場(=伝統)はある面で決定的に遅れている。だが彼らは遅れているようでいて「言葉」を通して概念そのものに立ち向かっているのである。彼らはもっとも伝統的であると同時にもっとも革新的である。抽象理念と言う先例墨守が通用しないものに対しては、伝統的でありかつ革新的であるという態度を身に着けることでそれを日本史の中に位置づけてきたのである。